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『育児と介護の両立を考える会』
〜育児と介護の体験記〜

おてるさん(No.26)の体験記
(1)介護の始まり

 “あー痛い 痛い、今日は本当に痛い”毎朝おはようのかわりに聞かされる言葉だ。介護は、身体の面倒をみることだけではなく、こんな精神的な面倒を見ることも当てはまるのではないかと私は思う。

 介護の始まりは、もう10年以上も前になる。私が2階から降りてくる前は、只テレビを見ているだけなのに、1歩部屋に入ったとたんに、私に向かっていうのではなく、私に聞こえるようにいうのである。毎日聞いていると、“どこが痛いの?”から“今日もか”“それがどうした”と、私の気持ちもだんだんと移り変わる。母は、人に言うことで、気がまぎれるようだが、こっちはストレスがたまっていく。人間って、すごいなと思うところは、もう聞きたくないと思っていると、痛い、痛いという言葉が雑音としてか耳に入らなくなり、まったくきにならなくなるのである。お腹の大きな私は、これから産まれてくる赤ちゃんのことで頭がいっぱいで、母の病気への不安などにはまったく気がつかず、母の介護が始まったことにも気がつかず、のんきな毎日を過ごしていた。母の病名は、リュウマチである。
(2004.4.21掲載)
(2)通院

 母の足が不自由でないころは、電車で私と1歳の長女と一緒に片道1時間位の所の病院に通っていた。帰りはデパートで食事をしたりと、そんなに苦労はなかった。

 2人目が産まれてからである。母は歩くのに困難が生じ、私の車での通院となった。病院の中まで子供2人を連れて入るのは抵抗があったので、父に一緒に行ってもらうようにした。大きな病院なので、受付から会計までには、かなりの時間がかかる。その間に私は駐車場で、下の子に離乳食を食べさせ、昼寝をさせる。そして上の子と、ぬりえをしたり本を読んだりと遊ぶ。帰りの車の中は大騒ぎである。お菓子やジュースを持っては行くが、もう飽きて飽きて2人して泣き喚く。1人は父と母に任せ、1人はおんぶをしてあやしながら運転していた。シートベルト義務化の前だからできたことである。『子供を預けるところさえあれば・・・』と思うことはたびたびあった。「2歳と0歳の子の面倒を見ながらの留守番はできない」という父、「保育所に預けていくのはかわいそう」という母。そんなわけで、今まで通院していた病院から、家から車で5分の病院に、しかたなく変えたのである。あー、せめてちょっと頼れる兄弟がいたならば...そう、私は1人っ子なのである。
(2004.5.7掲載)
(3)妊娠・出産

 2人目の子を妊娠したときに父に怒られた。「お母さんがこんなときに何を考えているんだ。」と。喜んでもらえると思っていたのに、ショックだった。母はまだ自分のことは自分でできていた。台所にも少しの間だったら立っていられる。どうして怒られなければいけないのだろう。理解できず、たくさん泣いた。

 3人目の子を妊娠したときには、おなかが目立つまで言えなかった。後になって思った。父は、介護は家族でという考え方だったので、私が赤ちゃんと母の面倒を一緒に見られないと思いあんなことを言ったのだろうと。

 つわりはひどく毎日点滴をしに病院に通った。ふらふらになりながらでも母の食事の支度やら買い物などやっていた。

 母は曲がった指を人に見られるのを嫌った。そのため出産しても父も母も病院には来てくれない。熱を出して汗をかいても取替えのパジャマがなくぬれたのをずーっと着ていた。退院した次の日から炊事、洗濯、掃除全部やった。母も介護は家族でという考えなので、母乳を飲ませ寝ている間にすべてかたずけた。父も体が弱いので、最低のことしか手伝ってもらえない。

 いつも赤ちゃんの顔を見ながら頑張ろうねと自分に言い聞かせていた。赤ちゃんの口元に鼻を近づけるとかすかに母乳のにおいがする。それが私のストレス解消法であった。
(2004.5.27掲載)
(4)入院

 これまでに何回か入院したことがある。母はそのたびにいつもわがままを言っていた。 

 入院すると毎日長い時間点滴をしなければいけなく、そのため運動不足になり、歩くのが困難になった。皮膚がかさかさになり日焼けした後のときのようにむけはじめた。ある日「こんなんじゃ、死んでしまうから、明日退院させてもらうように先生にお願いしたから 」と、突然言ってきた。又、検査のために入院しなくてはいけないのに「今は、そういう気分ではない」と、言いだす。そのたびにいろんな人に頭を下げ何度謝ったことか。

 胆石で入院したときのことである。次女はまだ3歳。毎日病院につき合わされていた。やさしい看護士さんにかまってもらい楽しかったのもつかの間、飽きてぐずることが多くなったので、昼寝をさせてその間に病院に行っていた。いつも15分ぐらいで用を済ませかえっていたのだが、ある日母が、「ほかの人の家族はいつも来ると1時間はいて話をしている」と、言うので仕方なく長くいた。母は自分が寂しいのではなく、看護士さんや同じ病室の人の目を気にしていたのだ。案の定、家に帰ると次女は泣いていた。それも部屋の隅でひざを抱えてしくしくと泣いていた。その光景は、5年たった今でもはっきりと覚えている。

ひざを抱えることで寂しさを紛らわすなんてはじめてのことだ。

私は一瞬息ができなかった。

母はこの入院をきっかけに歩くことができなくなった。
親をとるか、子をとるか究極の選択に迫られていた。
(2004.6.15掲載)
(5)ノイローゼ

 自分はノイローゼとかならないと思っていた。

 母が歩くのに杖を使い始めた。トイレに行くのも大変なので夜はベットの上で差し込み便器を使っていた。いつも父がやっていたが、ある日具合が悪かったので、母が私にやれといった。“えーやだな“と思いながら初めてやってみた。”尿のにおいもやだ、汚いのもいやだ、やだ。“と、心の中で無意識に叫んでいた。その後手を洗いながら鏡の中の私に向かって話しかけた。「何で私がこんなことをしなければいけないの?」「どうしてお母さんはこんなになってしまったの?」こんなことが何回かあったある日のこと、子供に言われた。「ママはこのごろ笑わなくなったね。」自分は気がつかなかった。

 他にもある。別に買いたくもないものをやたらに買ってみたり、甘いお菓子などを吐きたいのを我慢しながら食べていた。熱湯が自分の手にかかってしまったのに、熱いのに気がつかなかった。自分の目で見て頭では理解しているのにだ。

 母が私を呼ぶときに使うチャイムがある。それが夜中に誰も押していないのに何回も聞こえるのだ。昼間に聞こえたこともある。どんなにおちこんでいても母の部屋に入るときは、笑顔でいる自分にこの間気がついた。

 母はおちこむとすぐに、“もうすぐ死ぬ”とか“食べない、飲まない”などと暴言をはく。本当に私は困ってしまう。母の首を絞めないでいる私が不思議だ。
(2004.7.2掲載)
(6)長女

 長女は中学2年生になる。母が抱いた唯一の孫だ。この子がいなければ私と両親の間の溝は、どんどん深くなっていただろう。

 両親に介護のことで何か頼まれて、やりたくないなと思ったときには長女にやらせた。もちろんできる範囲の中でのことだ。シップはり、薬のみの手伝い、食事の用意、入浴の手伝い、着替えなどだが一番助かったことは伝言だ。24時一緒にいると話したくないときもある。そういう時は長女に頼む。「おばあちゃんに、ママはお使いにいって来るからと、言っておいて。」などと。自分でもひどい母親だなと思うときがある。

 いつも文句も言わない長女が、小学5年のときに泣いて私に訴えたことがある。“自分の部屋がほしい”と。友達の中で自分の部屋がないのは長女だけだった。もともと両親と私で住んでいた家にころがりこんだのだから、部屋の数など足りるわけがない。施設や病院に入るのが嫌いな母に、新築する間どこかに入ってくれとはとても言えない。やっぱり我慢することしか方法はないのだ。長女が泣いたときに私も泣きたかった。「ごめんね、どうにもならないの。」と謝りたかったが、「無理だよ。」の一言で終わらせてしまった。部屋を増やせない理由をおばあちゃんのせいだと、思わせたくなかった。

 中学生になって毎夜、母の横で寝てくれる。私がお願いしたわけではないが、夜中に枕の位置を直してくれたり、布団をかけたりしてくれている。その理由は聞いたことがないが、長女にとって隣に寝ることは特別なことではなく自然なことのようである。
(2004.7.14掲載)
(7)父の家出

 長男がお腹にいた頃父と母が、母の病気のことで言い争いをして、酔っ払った勢いで父が家を出た。

夜の10時ごろ母に頼まれて、大きなおなかを抱えながら車で捜しに出た。心当たりを回ったけどいないので、何気なく駅のほうに回った。駅前の横断歩道を渡ろうとしている人がいたので、止まってどうぞと手で合図をした。その手の先にいた人は父だった。

 父と母を残して旅行に行ったことがある。帰ってみると母が一人でいた。これからの生活のことで、口論になり父は出て行ったという。その夜、沼津の警察署から電話があった。父を保護したので迎えに来てほしいとわれたが、晩かったのでとまらせてもらい、次の日に次女をおんぶして1番電車に乗り新幹線に乗り継いで迎えにいった。傷だらけでよろよろしている父がいた。情けなかった。

 運命とはこういうものか、父は出て行っても必ず家に戻ることになる。

 父にも母にも、もういいかげんにしてと、怒りがこみ上げてくるが、一言も自分の考えを言えない私。

体が自由に動けないストレスを母は父にぶつける、父はお酒を飲むことでストレスを発散させる。そのとばっちりを受けるのはいつも私と子供たち。 こんな繰り返しが何回あったことか。家庭崩壊ぎりぎりのところで私たちは生活していた。
(2004.8.1掲載)
(8)人の親切

 母が病気になってから、人の親切をよく感じる。何でこんなにいい人ばかりなのだろう、何で今まで気がつかなかったんだろう、私に「ありがとうという、感謝のこころ」がなかったのかもしれない。

 「これは体にいいから、お母さんに食べさせて」と、食べ物を持ってきてくれる人。「寝たきりになると運動不足になるから、毎日軽く動かしたり、マッサージをしてあげて」という人「精神的に不安定になるから、なるべく一緒にいてあげて」というひと。みんな母のためを思って、言ってくれる。ほんとうに、ありがたい。

 でもある日、これがとても負担になった。親切で言ってくれることは、どれも寝たきりの母が一人でできないことばかり。すべて私がやってあげなければならない。子供との時間は削れないから、自分の時間を割いて母にいろいろとしてあげている。

 負担と感じたときから、人の親切を感じるだけでもいやになった。人に対しての「感謝の心」はいつのまにか、「親切の重荷」に変わっていった。
(2004.8.17掲載)
(9)お役所

 お役所関係のことでは、本当にいらいらすることがよくある。働いている人間が悪いのか、システムが悪いのか首を傾げてしまう。

 切羽詰って困って、“こうしてほしい”とお願いに行っているのに、門前払いか、1ヵ月、2ヵ月まちなんてざらだ。母がベットの上の生活になり入浴ができないため、入浴サービスの申請に行った。いろんな書類を提出して、すぐにサービスが受けられるのかと思ったら、“認可が下りるまでに1ヵ月かかります。”と平然と言われた。あいた口がふさがらなかった。“あなたは1ヵ月おふろにはいらないでいられる?”と言い返したかったがやめた。

 介護と育児で、私もかなりまいっていたので、保育園に預けようと思い申請に行ったら“あなたは介護をしていても家にいるじゃないですか。外で働く人が優先です。”と、これもまた平然と言われた。不満を上げたらきりがない。

 介護保険が始まってからは、こういうことも少なくなってはきているが、お役所の方々には窓口の中だけではなく、窓口の外に出て実態をよく見ていただいてほしいと思う。

 あまりにも納得のいく応対をしてくれないことが続いたので、県のあるところに相談したら“あなたのお役所の職員は不親切な人が多いですね。”相談の答えはこれだけだった。
(2004.9.9掲載)
(10)相談相手

 私には、日ごろの介護の愚痴や相談をする兄弟がいない。だからそのたびに誰か見つけなければいけない。

 探せば親戚、友達、看護師、近所と相手をしてくれる人はいるが、みんなそれぞれ家庭のことや仕事のある身、それを考えると1回や2回相手をしてもらってもそれ以上はとても無理。自分も経験がある、1回相談にのってあげたら何回も押しかけてきて迷惑だった。周りの人にそんなふうに思われたくない。何か問題があったそのときに聞いてほしいと思うのは、わがままなのだろうか。

 私はみつけた。鏡の中の私なら、いつでも聞いてくれる。そして自分と同じ立場であり、私の気持ちを十分にわかってくれる。あともう一人、お月さまだ。毎日会えるわけではないが、あの光を見ていると月のパワーでいやされる気がする。

 第3者になって自分を見つめてみると危ない人間のように思えるが、自分をそういうふうに持っていかないとほかのめんで何かおきそうな気がする。

 お金を払ってもいいから気兼ねなく何回も相談にのってくれる、そんなサービスがあったらいいなと思う。
(2004.10.4掲載)
(11)親をとるか子をとるか

 母がまったく歩けない状態で家に戻ってくるときに、子どもは小3、小1、3歳とまだ親の手が必要なときであった。母のこと、子供のこと、家のこと、自分のこと、いろんなことをやらなければならないことは沢山あるが、私の手はたった二つ。みんなが順番に“がまん、がまん”か“後回し”となっていた。

 訪問看護の人に「忙しくて」と、相談したら「母を施設に預けたら」と言われた。ずいぶん楽になるだろうなと思った。さらに言われた。「お母さんは先のない人だけど、子どもはこれからの子、子どもをとりなさい」と。そうだなと思った。でも、母は施設には絶対にはいらないというのは分かっていたので、入れなかった。あれからずるずると毎日が過ぎこの生活も6年目に入っている。

 子どもから見れば、私は親をとり子を捨てたということになるかもしれない。

 母に言われる「お父さんはこんなときは、もっとこんなふうにしてくれるのよ。」母からみればあまりの手抜きで、私は子をとり親を捨てたということになるのかもしれない。

 母をみながら子育てをしているように周りは見ているが、自分は介護と育児の両立なんてできていないと思うし、また両立をしようとも思わない。ただ、毎日を一生懸命にやっているだけで、そこに両立したであろうという結果がついてきているだけである。
(2004.10.28掲載)
(12)父の死

 母に対しての介護というものが始まってから12年たった10月のある日のこと、母のところに来ていた訪問看護師さんが、父もついでにと血圧や胸のおとなどもみてくれた。「病院で一度みてもらったら?」というので、検査を受けた。診断は末期の肺がんだった。

 「治療を受けるか自宅で療養するか」決めてくださいと主治医に言われたが、どっちを選べばいいのかわからなかった。母には肺がんと言ってなかったので相談できず、身近な人たちに相談してみた。みんな答えは同じで、「自分の父親なのだからあなたが決めなさい」だった。とても迷ったがある日ふと気がついた。相談していくうちに「持病を持っているから治療を受ける体力はないだろう、自宅にいるのが一番いいのかな?」と自分の考えがまとまってきていた。その日から私の二重介護が始まった。

 母には持病の心臓が悪くなっているといった。父は病気のために、たまにぼけることがありトイレを汚したり、部屋に戻れなかったりで目を離せなくなった。そのため訪問看護師さんに頼んで、母のことをみながら父のこともお願いした。そのため、母に余計な心配をかけることもなく、私の介護の負担も減りとても助かった。

 ある日父が38度の熱を出して体が震えだした。トイレに行きたいというのだが震えて立てなく私はあわてだした。そのとき寝たきりの母が言った「お父さん、立ちなさい」何年ぶりかに聞いた大きな声だった。寝たきりでもやはり女は強し、と感じた。ついに水も飲めなくなり入院することになった。父も母も口にはださなかったが死を感じていた。入院するときに父が「これから、火葬場に行くのか。」と言った。精一杯のジョークだった。

 父を車に乗せ外で待たせているときに、私は母についに言った。「実は肺がんで、もう家に戻ってこれないかもしれない。」母は言った。「いいんだよ。しかたのないことなんだよ。」涙が止まらなかった。どうしても病院にいけず、訪問看護ステーションに泣きながら駆け込んだ。「うばすてやまに、父を捨てに行くようでつらい」と話したらみんな一緒に泣いてくれた。父は入院してから食事もとらず点滴もすべて抜いてしまった。「こんな治療は無駄なこと、静かに寝かせてくれ」と言って看護師さんや私を困らせた。ある日父が言った。「俺はあと2,3日で死ぬ。ほんとのことを言うと一人で死にたくない。自分の家で大勢の中で死にたい。」私は、入院させてしまった自分がずっと許せなかったのもあり、父につらい思いをさせてしまった後悔で泣き続けた。私は父を最後まで家で看取ることを決めた。

 身近な人たちに言ったら「とても大変な、二重介護になるからやめたほうがいい」と意見されたが、たった一人だけ「協力してあげるよ。」と、ベテランの訪問看護師さんが言ってくれた。私は心の中でもやもやしていたものが、すーっと消えていくのを感じた。病院を出るにあたって婦長さんが細かいことまで気をつかってくれたので、安心して家に帰れた。途中で駅やスーパーなど思い出の場所をみせた。もう二度と帰れないと思っていた自宅に帰ってきて父はうれしそうだった。

 夜になると不安で眠れず、毎日横で添い寝をしていた。母の介護、子供の世話それに加え葬式や寺の準備と私は必死だった。母は私が大変な思いをしているのに何もしてあげられないとこぼしていたが、父にとっては枕元で寝ていてくれるだけで心が安らいでいただろうと思う。ある夜に私が布団の中で咳き込んでいると父が布団をかけ直してくれた。自分の死が近ずいているというこんなときでも、親は子のことが心配なのだろう。

 12月22日の夜目がうつろになってきた。私はいよいよだなと頭ではわかったが、心が死を受け入れなかった。23日の朝、みんなが起きだした頃父の呼吸がおかしくなり子供たちを父の横に座らせた。3人の孫たちが体をさすってあげながら「おじいちゃん、おじいちゃん」と声をかけた。眠るように静かに旅立った。肺がんと診断されて、2ヵ月あまりで私の二重介護は終わった。と、いうより父が終わらせてくれたのだろうと思う。睡眠も食事もろくにとらずに体はへとへとだったが、心は満足感でいっぱいだった。

 そのとき小一だった次女は氷を口に入れてくれたり話し相手になってくれたりとよく面倒を見てくれた。冬休みの絵日記に花柄のパジャマで寝ているおじいちゃんを描き、「楽しかった」と文にした。子供たちにこんないい経験をさせてもらえたことを父に感謝した。
(2004.12.12掲載)
(13)介護とは何か?

 私は在宅で、毎日母の介護をしている。ヘルパーを使っていないので、自分の用事はなんとか時間をやりくりしてすませている。

 私は「介護をしてあげている」という考えでいたせいか、介護が負担でしょうがなかった。その気持ちは私の態度で、母にも伝わっていたと思う。

 ある日小3の次女を見ていてふと気がついたことがある。母の薬を飲ませてと頼んだときに、「はい」と返事をしながら忘れるときがある。 

「どうして忘れたの?」と、聞くと「ただ忘れただけ。」と答えた。そう、次女にとっては 歯を磨くのを忘れちゃったという感覚と、同じなのである。かなり親ばか的な見方ではあるが、介護イコール日常のこと、普通のことと受け止めているようだ。

 赤ちゃんに、オムツを替えてあげたり、食べさせたりすることを育児という、同じことを高齢者にすると介護になってしまう。両方ともやることは同じなのに、どうして言い方が違うのか不思議だなと思う。

 介護を普通のことと頭で理解するのには、ちょっと時間がかかりそうだが、次女をみならってみようかなと思う。
(2005.2.25掲載)
(14)最初で最後の親子げんか

  先日母とけんかをした。自分が介護に対して思っていることを 全部言った。10分ぐらいのけんかだったが、母も負けずに言い返してきて、激しいものがあった。心の中がすっきりした。私と母の初めての親子げんかである。

 どういうわけか、私は母とけんかができなかった。いつも一方的に母に言われ、小さな声で一言、言い返すのが精一杯だった。私が母に思いっきり言い返せるのは夢の中だけ。朝起きて夢の中と同じように言い返せばいいんだよと思うけど、いざとなるとだめ。特に寝たきりになってからは、何を言われてもいやな顔ひとつしなかった。と、いうよりできなかった。

 訪問看護師の方にもっと親子げんかをしなさいといわれた。私も心の中にたまっていることを、素直に言えれば介護のストレスも、もっとなくなると思った。

 2月に病院の嫌いな母が入院した。寂しさと病気のつらさと不安で、とてもわがままになった。看護師の方は、病気が言わせているのよと言うが、ちがう、入院するといつもこうなのである。

 朝6時から夜の9時まで、ほとんど病院にいた。家のこと、子供のことはほったらかしだった。子供が熱を出しても、薬を飲ませて母のもとにいった。母が寂しいという、子供も寂しいという。私の体は一つ、もう精神的にまいっていた。

 母にけんかをうった。今までたまっていたことを全部言った。夢の中の私と同じだった。これで私は母と同じラインにたてたと思った。

 3月22日母は父のもとに、いってしまった。もうけんかをすることは、二度とできなくなってしまった。たった1回の親子げんかだったが、二人の間をより強く結びつけてくれたと思う。
(2005.3.29掲載)
(15)訪問看護

 私が訪問看護というものとそれを仕事としている方々とであったのは、介護保険が始まる前だった。当時、我が家に来てくれていた方は、なんでもずばずばとはっきり言うタイプで、“遠慮なんかしてたら損だよ。してほしいことがあったらなんでも言って”と、いつも言っていた。ある日ベットから車椅子への移乗だけをお願いした。お金を払おうとしたら“こんなんで、お金なんか取れないよ。”と、言い残しかえっていった。頭がさがった。

 訪問看護師の方々とのつきあいはかれこれ6年になる。我が家は問題ばかりおこしているので、ブラックリストに載っていることだろう。そんなんでも、いつも力になってくれる。介護生活が始まり、私が育児と介護で疲れ、母にショートステイに行ってほしいけど言うことができないと、相談したら“お母さんに言いづらいことは全部私が言ってあげるよ。いくらでも悪役になるよ。無駄なけんかは必要ないよ、仲良くしなさい。”と言ってくれた。

 父の最期を自宅で看取りたいと相談したときも、二つ返事で“協力してあげる”と。どうしていいかわからないことがあると、“皆に相談してごらん、答えは必ずみつかるから”と。私が涙を流すと一緒に泣いてくれた。一人っ子の私には、どの方もとても大きな存在だった。

 さすが年の功といっては失礼だけど、それなりの経験を沢山つんできただけあって、訪問看護師さんの一言一言には心にずしっとくるものがあり、そのせいかアドバイスされたことは全部といっていいほど頭の中に入っている。

 もし、訪問看護師さん達に出会わなかったら、私は介護疲れがもとで・・・新聞に載っていただろう。
(2005.5.8掲載)
(16)次女

 次女は、歩いているおばあちゃんを知らない。抱っこしてもらった記憶も無い。でも、家族の中で一番沢山おばあちゃんと会話をしている。「地震が来ても、おばあちゃんは動けなくて逃げられないからから死んじゃうね。」なんて憎まれ口もたまに言う。

 次女は生まれてから、ずーっと介護の犠牲になってきた。右手にお菓子、左手にジュースを持たされ「ちょっと待っててね」といわれ続けてきた。そのせいか4年生になった今でも、「待っててね」と言うと「私も行く」と必ず言う。

 私が母の介護をしている様子を毎日見て育ったせいか、長女や長男より介護への抵抗は無い。ある時、私が介護のために自分の趣味が、何一つ満足に続けられなく悔しい思いをしてたときに、ヘルパーの免許をとってみようと思い立った。授業は丸一日で数ヶ月続く、母の食事やおトイレの面倒をどうしようかと迷った。ヘルパーはもちろん母が嫌がる。日曜日なら学校が休みで次女がいる。頼んでみた。「エーっ」と言う返事だったが、ヘルパー代としてアルバイト料を払うよと言ったら一日150円で話がまとまった。小学3年の子にオムツがえを頼むわたしもどうかしている。

 当日オムツのやり方を説明しようと思ったら、「大丈夫いつも見ているから分かる。」と言った。夕方あせって帰ってくると「手早くて、言わなくてもオムツを新聞に丸めて捨ててくれたよ」そして、「きれいにふけるから、うんちもしていいよ」と言うんだよ、と、母が教えてくれた。笑いながらそう言っている目に涙を見た。

 次女は、おじいちゃんが亡くなるときも、おばあちゃんが亡くなるときも、いつも側にいてくれ面倒を見てくれた。がまん、がまんで介護の犠牲になって育ったのに、進んで介護をしてくれる子に育っていた。
(2005.6.1掲載)
(17)在宅介護

  介護を経験したものとして、「在宅介護はいいよ」と人には進められない。特に、私のように育児と介護が同時進行で、一人っ子の場合最悪の状態になる。でも介護が終わった今、母を長年自宅で介護してきてよかったと思うようになった。母との思い出が他の人より100ばいはある。

 在宅で介護をするには、家族の協力、近所の協力、地域の協力が必要となるが、介護を経験していない人にこの苦労を理解して協力してほしいと思ってもかなり無理だろう。子どもがいれば、学校の役員は当然のようにまわってくるし、学校や地域の集まりに遅刻したり欠席したりすると白い目でみられる。

 私が何よりも協力してほしいと思ったのは、母である。母は体は自由がきかなかったが、頭はしっかりしていたので、結構わがままにふりまわされていた。が、そんなことはがまんできた。一年に2・3日でいいからショートステイに行ってほしかった。家族旅行に行かせてほしかった。

 在宅介護をしていたときは、何もかも最悪、最悪と思っていた。健康な自分を基準に考えていたからだろう。母の人生を考えると、戦後苦労して働いて、子どもを育て家を建て、やれやれと思ったときには、寝たきりの状態になってしまった。「迷惑をかけるけど、家にいたい」という母の気持ちは、わがままなことだろうか。家族から離れての施設入所を選べるわけがない。

 それぞれの家庭には、いろいろな事情がある。でも施設や病院で、家に帰りたいと涙を流す人を何人も見てきた。一人でも多くの人が自分の家で介護が受けられるように、もっと社会がというより、介護の関係者だけではなく、介護とは無縁と思っている人の理解と協力が必要となる。
(2005.7.28掲載)
(18)母の最後の言葉「ありがとう」

  母が亡くなって一年が過ぎた。お線香をあげるたびにいつも思う“私は本当に母の介護をしてきたのだろうか?”介護をした実感が思い出せない、介護の苦労が思い出せない。重荷だと思っていたのが、きれいさっぱりとなくなり、すがすがしい心になっている。これは、母が最後に私に言ってくれた言葉「ありがとう」のおかげだと思う。 

長い間の寝たきり生活の末、母はある日脳梗塞をおこして入院した。思ったよりも軽く麻痺も残らず「もうすぐ退院ですね」と担当医にいわれた。その矢先に2回目の梗塞をおこした。今度はかなりダメージをくらった。話しかけるとろれつのまわらない言葉で返事が返ってくる。母の名前、父の名前、孫の名前、なんとか全部言えた。でも目を開けない。

 時間がたつにつれ、体力がないのでどんどん弱ってくるのがわかる。なぜか私の頭には“死”という言葉がでてこなった。死が迫っている母が目の前にいるのに母が死ぬということがわからなかった。だんだんと言葉数も減り、私の話しかけに対して、おうむがえししかできなくなってしまった。

 ある瞬間母が「あ・り・が・と・う」と、とぎれとぎれに言った。最後の力で私にメッセージを残してくれた。

 親戚の人が「腹を決めたね」と言った。意味はわかるがそれが母の“死”にどうしてもつながらなかった。母の周りに皆が集まってくれた。長女が早咲きの桜を持ってきて「いい香りだよ」と鼻のちかくにもっていった。しばらくすると、ずーっとつぶっていた目をあけて、皆の顔を見つめていた。「おかあさん大丈夫だよ、安心してね」と、頬をさすりながら何回も行った。いまだに左手には、母の頬の感触が残っている。

 入院中は痛さとつらさと不安で、顔の表情がゆがんでいたが、亡くなったあと不思議と顔が笑ってきた。病気から開放されて幸せのようだった。

 ここ数年、私はなぜか桜が気になってしょうがなかった。満開の桜を見ると“今年も見ることができて、幸せだな”と、感じていた。戒名に春という字があった。葬儀が終わった後、本当に久しぶりに庭に出てドキッとした。木の芽や、花のつぼみがあっちにもこっちにもあった。いつのまにか季節は、春になっていた。まるで母が「お母さんは、ここにもあっちにもいるから安心してね」と、私に語りかけているかのようだった。母が私にいろんな意味での"春“をプレゼントしてくれた。

 もし、人が亡くなって何かに生まれ変わるのだとしたら、母はきっと桜の花だと思う。「おかあさん、今年もまた満開の桜を見ることができて幸せだよ」
(2006.4.10掲載)

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