こんにちわ。リラックマです。
今日は私の介護・育児体験をお話させてください。
まず、次女の出産の件ですが、妊娠した当時はまだ義母の状態もよく、私は義父母の家事全般をやっているにすぎませんでした。 それから私は一人っ子でしたので、どうしても子供は2人以上欲しかったのです。今から思えば、その後の介護の大変さとそれに伴うストレスのため、生理がストップしてしまったことを考えると、まさにあのタイミングしかなかったと思われます。 (彼女は奇跡の子?)それに実家の両親もまだまだ健在でした。 あの時子供に恵まれていなかったら 私も2人目はあきらめていたでしょう。
介護者は主に義父と私でした。 特に義父はとても義母を愛していました。 仕事から帰ると義母につきっきりでそれはそれは献身的に看病していました。 本当に頭の下がる思いでした。 ただ、義母の事しか見えなくなり、周りの人は皆自分と同じように義母の事を考えていると思い込むところがありました。そのため、度々私達と衝突していました。 主人は負い目からか、いつも私をいたわり、時には義父と言い争ってでも守ってくれました。また、市内に住む義妹もひんぱんに のぞきにきてくれました。 当時、介護保険制度などなく、行政も介護について取り組み始めたばかりでした。ただ、お互いに暗中模索なところがあり、意外にこちらの意見を聞いてくれた様に思います。 結局、私の出産を機に行政と民間のヘルパーさんを週2日づつお願いしました。 私は次女を出産し、子供達と2ヶ月ほど里帰りをしました。ただ、市のヘルパーさんは実家から戻った時点で「健常者の大人がいる」ということで、打ち切られてしまいました。 そして私の介護と育児の両立が始まりました。
義母の状態は確実に悪くなっていきました。 寝たきりになり、手が動かなくなり、口がきけなくなり、飲み込みができないため経管栄養に、痰がでるので定期的に吸引、時々緊急入院しては体中床ずれを作って帰ってくる。(これは病院の怠慢です。) あまりに忙しくって、当時の事 断片的で あまり覚えていないんです。 (ここが肝心なのに、すみません。) 子供の事もあまり記憶が無く、次女なんて いつの間にか話をして、いつの間にか歩いていました。 でも、忘れられない光景があります。 義母のオムツ交換時、衛生上 子供達はシャットアウトしていました。ちょうど次女が後追いを始めた頃、ふすまの向こうで私を呼んで泣き叫ぶんです。そしてそれを長女が「もうすぐだからね。まっててね」と一生懸命なだめていました。彼女だってまだ4歳です。 処理がすんでふすまを開けると、涙と鼻水でグチャグチャの次女と、目に涙を一杯浮かべた長女がいました。私は罪悪感がいっぱいで、心の中で泣きながら子供達にあやまりました。 義母の介護には本当に多くの方の手を借りました。 先ほどのヘルパーさんたち、リハビリの先生、かかりつけの内科先生、皮膚科先生、市の訪問看護婦さん、移動入浴などです。
私にとって一番強烈だった出来事は 実父の入院と逝去です。父はパーキンソン病を10年ほど患っていました。実は私は父の介護は殆どしていないのです。たった一人の子供なのに。母が「あんたは おばあちゃんと育児があるんだから。」とさせなかったのです。確かに子連れで病院にいってもなんの役にもたちません。 結局父は3ヶ月の入院ののち、亡くなりました。私も母も間に合いませんでした。 それからです。 私は義母に笑いかけることができなくなったのです。 「父の介護が満足にできなかったのに、どうしてこんな他人の介護をしなくちゃいけないの?」 最低です。 義母だって好きで私の介護を受けてるわけではないのに。でも、どうしてもだめでした。 そしてとうとう気管切開をするかどうかとなり、在宅介護も限界となってきました。 しかし、義父が「お母さんはうちでみる。」といいだしたのです。 ついに私は切れてしまいました。 泣きながら主人にさっきの言葉をいいました。主人の母親のことを「こんな他人」といったのです。でも主人はだまって 私が感情を吐き出すのを聞いてくれました。 そして 義妹も呼び出し 家族会議を開きました。子供達の「もう無理だ」という意見に 義父も感情的になり、おこってどなりちらしてきました。 私ももう主人ばかり悪者にできない。と思い、自分の気持ちを伝えました。 「お義母さんには お義父さんも私達もヘルパーさんもみんながいます。でも父には母しかいませんでした。在宅介護できる状態でも 入院するしかなかったんです。私は父の介護ができなかったことが、くやしくて、心残りです。」 おとなしい嫁の初めての反乱に 義父も面食らったようでしたが、なんとか理解してくれました。でも、しばらくはお互い気まずく、冷戦状態でした。 そして、義母は療養型の病院にうつり、気管切開をうけました。 それと同時に私の生理も自然再開しました。
以上が私の介護と育児の4年間です。 御覧の通り 全然人間ができていません。最後はこちらから放棄しました。皆さんの方がどんなに立派ですばらしいか。でも、なにか少しでも参考になれば、と長々とかきこんでしまいました。 父がまだ元気だったころ、私に言ってくれた言葉があります。 「いつか、いいことが必ずあるから。」 この言葉を励みに 多くの方に助けられて 過ごした日々でした。 |
2004/05/14(Fri)
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