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宗教心はあるか(自然周吾)

現在、私は世にある、キリスト教・イスラム教・仏教のいずれの宗派にも属していない。
だからといって宗教心がないのではない。

宗教心とはなにか。
神の存在を信じてはいる。それが、どの神か、特定できない。魂の存在を否定してはいない。
何か不思議な、分からない存在があっても、よいと思っている。

儀式を守るだけが宗教とは思わない。自分の属する宗派を唯一の宗教として、他の宗教・宗派を、 排斥するのは、求める宗教ではない。いろいろな、宗教・宗派が混在しているをよしと思う。
従って、属する宗教・宗派を求めてはいるが、いまだに、自分に合った宗教・宗派は見つからない。

権力集中の宗主がいる宗派、物質(主として金)を求める宗派、メンバーを位で区分する宗派には、 所属したくはない。

自分 には、仏教系の宗派が、方向として合っているように感じている。
それも、一つだけの宗派に拘らず、いくつかの宗派に所属することが、選択肢かも知れない。
あるいは、今のように、”自分”宗派を、自分で、持続することが合っているかも知れない。

神秘に感動する心を持ち、それを排除しないで認める心が、宗教心である。
自分の意見は主張するが、固執しない。しかし、万人行けども我行かん。『誠心』を信ずる。
自分の心を大事にし、同じように、人の心も大事にする。

中道の世界を求めて生きる宗教心を持つグループを見付けよう。そこが私の場所となるであろう。

(05/11/02)
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参考:引用(『生命の光』2005・11No.638、信仰講話「神秘と回心」手島郁郎(p2-7)より)

『(前略)アインシュタインは、「あなたは宗教を信じますか」という質問に、/次のような考えを述べています。

「宗教と一口に言っても色々あるから、信じているとも、信じていないとも、言えない。
もし宗教の儀式を無視したら、神が人間を怒ったり、または神を信じなければ神罰があるぞ/ と言って喝して人の心を恐怖せしめて、寺院や教会堂に参拝を強いる僧侶たちの宗教が宗教/だと言うのならば、私は信じたくない。

また、もし宗教の戒律がなければ、個人の道徳も社会の秩序も維持できぬから、善を勧め、/悪を懲らすために、勧善懲悪のために、 宗教が必要ではないかと言う人もいる。しかし、何/も戒律的に束縛されずとも、真に人間の尊厳を自覚する者ならば、立派に倫理的に 自分を築き/上げられるのであって、そんな道徳のつっかえ棒としての宗教なら、自分には必要でない。

しかしながら、第三の意味で次のことを宗教と言うのならば、私は宗教を信じている一人で/ありましょう。もし永遠をつらぬく大 宇宙の神秘な心を深く瞑想し、隠れた宇宙の法則を少し/でも理解しゆく神秘感というものが宗教心であると言うのならば、それだけで 自分には充分/だ。神秘なものこそ、凡ゆる芸術と科学の源泉であり、最高の美である」

また、「神秘なものに、何ら親近感もなく、魂を奪われるほどに畏敬の念に打たれて、感嘆す/ることもないような人間は、生きて いても死人と同様だ。実に大宇宙の生命の神秘を直感するこ/とこそ宗教ではないのか」と申しています。宗教を非科学的と評して一概 に貶す人々があります/が、このアインシュタインの言葉をよく考えてみられる必要があるのではないでしょうか?

(後略)』

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