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『見えなくても、いたんだよ』(自然周吾)

長兄の1周忌の法事で橋本に行ってきた。先日の雪がまだ残っていて、時折吹く風は、雪の 冷気を含んで、痛いくらいだった。
納骨のために、集まった少数の親族は、明るい日差しはあるものの、冷気の塊の中、僧の、 太くよく響く声明に、頭を垂れていた。

私は、ふと、顔を上げて、澄んだ町田市の方向の空を見上げた。
1羽の鳥が、突然に、点から、その姿を現した。『見えなくても、いたんだよ』という言 葉が浮かんだ。
見えないと信じない、が、見えなくともいたのだとすると、信じる、信じないはどうなる のだろうか。

そういえば、昨年の夏、マリンスタジアムのプロ野球ナイターに、何回か観戦に行ったが、 明るい時間帯に、南方の海の方向から、点が見え、やがて、飛行機になるのを眺めていた。
突然に、飛行機がそこに現れたのではない。すでに、私の肉眼では見えなかったが、飛行 機は、はるか遠方には存在していたのである。
『見えなくても、いたんだよ』という実感である。
見えなくても、存在を信じざるを得ない。見えるものだけを信じることの限界を感じる。
私の目には見えなくても、あるのだということ。目で見える範囲は、限られているのだ。

小さくて見えないものがあると同じように、大きくて見えないものもある。
想像という、ないものを、見てしまう目でもあるが、一方、あるものが、見えない目でも ある。

長兄の霊は、私には、見えないが、このお墓にあるとは限らず、どこかにある(いる)の だろう。

(05/02/26)