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場に合わせて、自己を変え、調子者となるか。いかなる状況にでも、自己を変えない、頑固者となる か。という、事態に遭遇することがある。どちらにも意味がある。
先日、日本トランスパーソナル学会セミナー、コーチング入門講座に行った。
導入時、確認(?)のため、講師は質問し、それに対して、挙手で賛意を示すのだ。
たわいもない質問だろうが、「コーチングという言葉を聞いたことがあるか?」 あるような、ない
ような・・・。と、考えている間に、手は挙げず、場は次の質問に移っていた。まぁいいか。
どうでもいい質問なのか。場に合わせるべきか、無視するか。
それで、上述の事態がでてきたのである。
明確な確認が自分の中で出来たときには、挙手しよう。少しでも不明なら、挙げない、と 決めた。原則は挙げない、である。
軽い調子の物で、一過性であれば、その場しのぎで合わせられるだろう。
とらわれてしまう、とは、状況が変わったときも、前の状況時の、自己を、維持してしまうことだ。
環境の変化に合わせて替わる自己変化スピードが、遅いのが問題であろう。
突然だが、一休さんの話しがある。(正確ではない。)川を渡れない若い娘がいた。躊躇う人々を尻目 に、さっさと、背負って、一休は川を渡った。お礼を言われて、歩き出した時、弟子が、『坊主が若 い娘を背負うなんて・・・』。一休は、『まだ、おまえは背負っているのか』と言ったとか・・・。 (大分話が違う?かな)
カメレオンは、環境に合わせて皮膚の色を変えるが、あまりにその変化が遅ければ、天敵に発見されて
しまう。対応変化の時間の違いは、生死に、もろに影響する。
人の場合は、直接、生死に即結びつかないが、雰囲気を察知して、瞬時に変えていかなければ、間に合
わないだろう。
個性を前面に出せば、自在には環境に合わせられない。環境がどのように変わろうとも、合わせられる
には、無の心境にあればよい。
なんにでも合わせられるということは、個人は、無の状況にあるのだ。
自分がないということではない。限りなく無に近ければ、瞬時に、環境・相手の色にも合わせられる
だろう。
自分の色を変えるのではなく、相手の色を映すだけでよい。結果、自分は、染まらない。
自分の色は有するが、無となって、環境・相手の色を反映できること。それには、いろんな色を体験
しているか、または、愚直に、相手の色をそのまま、映せるかであろう。
無を解する頑固者(・・・空の青、海の藍にも染まず漂う)、が、正解か?
「頑固者 わが青春は 鏡着せ」(自然周吾)
(05/07/04)注:「白鳥は、悲しからずや 空の青 海の藍にも 染まず漂う」(正宗白鳥)