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心と身体は、一体であって一体でない(自然周吾)

子供の頃にも、病気になった時にも、そして、最近の私にも、身体が、思ったとおりに動かない 時があった。

子供の時には、身体の機能が未熟で、成長し訓練すれば、相当心と通々になった。病気の時にも、 治れば、また、そこそこには復帰した。

しかし、器であるこの身体(肉体)の寿命は、如何せん・・・。身体が、心に添うように動こうと しているのは、感じられるのだが・・・・・・。

グラフに、横に年令、縦に機能として描くと、心は、直線ではないにしても、年令とともに 右上がりの線で描けるだろう。しかも上限がない。
が、身体は、早い時期で機能は100%に達して、それを超える事はない。
年令が進んでも、しばらく100%にとどまるも、やがて下降せざるを得ない。
日々の努力により、その100%近くを何とか維持できたとしても、徐々に、下降せざるを得ない。 つまり、心と身体との不一致差は、年令と共に広がるばかりである。

それは、行動のずれとして現れる。つまり思うように身体が動かなくなるのである。
そこで、もし、身体とのずれを自覚したら、一体感をあきらめるのだ。

心は、身体の発する”言葉”を充分聴いても、なお、その機能には余裕がある。 身体の機能を使わずに、心の機能のみを別に益々延ばすのである。
ある時期から、心と身体は分離していくのである。外観上は、ボケーとしているが、それが、 心の機能が、身体から分離して成長している状況なのであろう。

永遠に伸びていく心の機能をすべて身体と一体となって表現することは出来ない。言葉の機能 を使ってでさえ追いつかないだろう。
心を体現できる体現量は知れている。もちろん体現するための努力は怠らないが、体現には限界 があることを承知し、差異のあることを、嘆かないことである。
差異があって、あたりまえなのだから・・・。
こうして、祖先は、延々と文化を引きついで来たのである。

(05/10/21)