ハーリー(ハーレー) 

梅雨に入ると、いよいよハーリーの時期の到来ですね。

ハーリーを中心とした船漕ぎ行事の概要
那覇ハーリー見物記


ハーリーを中心とした船漕ぎ行事の概要  
  沖縄県下では旧暦5月4日に行われる舟こぎ競漕のことを一般的にハーリー、または糸満ではハーレーと呼ぶ。主に漁を営む字単位や、最近では漁協単位でハーリー(競舟)を行なう。また、5月4日の行事のことをユッカヌヒーという。ユッカヌヒーには子供がオモチャを買ってもらえる風習があった。
 ハーリー鐘が鴫ると梅雨が終わるといわれ、糸満ではサンティンモー(山嶺毛)で4月27日の目の出前に鳴らすことになっている。5月4日の当日ではなく、その前後の休日に行なうところもあり、那覇ハーリーは、新暦5月の大型連休中に観光客などを集めている。

  ハーリーのような舟こぎ競漕の行事は県内に広く分布しており、旧暦5月4日のハーリーは沖縄本島中南部で行われ、本島北部では旧盆前後のウンジャミ(海神祭)でみられ、八重山では豊年祭やシチ(節)祭に競漕が行われている。 

 御嶽や拝所で祈願した後、 ウガンバーリーに始まり、最後はアガイバーリー(沖合いから岸に向かって競争するハーリ)で終わる。その間に中高生による競漕とか職域バーリーがはさまれるというのが普通である。糸満では転覆バーリーやアヒル取り競争などもある。ハーリーの後、角力大会や余興が行なわれることもある。

 崎原恒新がいうように、各地の漁村のハーリー行事そのものは、糸満漁夫の各地への進出により、おそらく明治期以降全琉的に広がった(「沖縄の年中行事」)らしい。 石垣市四箇のハーリーもその例だろう。ハーリーは海神祭の宇をあてる場合があるが、源武雄によるとハーリーは龍のこと、ハーリー舟は龍を形どった舟(『まつり』十六号)のことであるといい、比嘉政夫は「爬龍」の漢語読みからきているのではないか(『沖縄文化研究』16)と述べている。

  『球陽』(察度45年)には、久米村、那覇、若狭町、垣花、泉崎、上泊、下泊などに数隻の「竜舟」が以前はあったが、その後那覇、久米村、泊村に3隻になって4月28日より5月2日まで唐栄の前で競渡し、5月3日に那覇の西の海に浮べ、5月4日に那覇港で競渡したとある。 同じ項目にこのハーリーの由来について、久米の三十人性がビンより導入したとか、那覇の長浜大夫又は南山の汪応祖が南京に行った時、竜舟を見て導入したとか、諸説あるようだ。
  さらに、中国の屈原伝承に似た次のような民間伝承もある。
〜  ある時、王が家来に一番おいしいものはなにかと聞いた。塩が一番うまいと答えた者を、怒った王が八重山へ流刑にした。しばらくして飢饉となり、初めてこの家来が正しいことを悟った王は、この家来を迎えに那覇・久米・泊の舟を出した。しかし、三重城近くで家来は行方不明となった。この日が5月4日であったためそれ以後、彼の追善のためハーリーをするようになった。〜
  糸満ではハーレーの後、港で海で死んだ人を供養するウガンをする。ユッカノヒーの翌日はグソーバレーといい、海で死んだ祖先がハーレーをするので漁には出ないという。龍譚池に舟を浮かべたり、雨乞いのため儀礼の中で爬龍船が用いられていたとされることから、ハーリー行事には水死者を供養するという信仰や雨乞いなど水に関する信仰も含まれているようだ。

 一方、ウンジャミやシツ(節)に舟こぎ競漕をするところでは、その目的はユ−クイ(世乞い)であり、海の向こうからユー、豊穣を迎え、沖から陸へむかって競漕する。糸満バーレーのようにわざわざ舟を転覆させるのも、ユーを含んだ海水を汲んでくる目的があると思われる。

 一般的にハーリー行事の目的は豊漁祈願、海上安全であるといわれているが、農耕儀礼の中で一年の節目であるシツといった豊年祭系統で行われる場合は、その意味合いはより農耕儀礼と結びついている。 地域によっては、東西など地域を分けた2隻が競い、西が勝つと来年は豊作となるといわれている。沖から岸に向かって漕ぐことは、海の向こうから豊穣を運ぶ目的がある。
  また、地バーリーとも呼ばれる陸上で行なう船漕ぎ儀礼がウンジャミなど豊年祭系統の行事でみられる。

 こうしてみると、ハーリー行事が単純に舟こぎ競漕をする漁師の行事ではないことがわかる。地域によって違いがあるが、雨乞い水に関する信仰と水死者の供養、海の彼方から豊穣をもたらすという農耕儀礼という複数の意味合いがあり、それは単独であったり複合的であったりする。一括りに船漕ぎ儀礼としてよいかわからないが、できるとするならば、その構造について明らかにすることは沖縄文化形成を考える足がかりになりえるのではないだろうか。 伝来文化の受容という観点で考えると、ハーリー行事は沖縄の年中行事のなかで外来文化と土着的な文化が融合した例 として位置づけることができるだろう。

 比嘉政夫が、「この行事に會まれる儀礼の要素分析を通して外来文化の受容に触媒的役割を果たした土着的なものの究明や、この行事の構造分析を通じて、中国大陸や東南アジアに広く分布する同種の行事の比較研究に役立つ指標を見つけることができると考える」としているように、沖縄のハーリー行事と似た日本長崎のペーロンや中国の行事についてもその分布や儀礼的内容についての比較研究も興味深い。


古宇利島のウンジャミで行われる船漕ぎ儀礼

那覇ハーリー

 

那覇ハーリー見物記
〈理由〉
 先だって那覇ハーリーを初めて見に行った。那覇に10年ほど住んでいたが、もとは糸満出身なので糸満ハーレーのような行事というより大型連休のイベントとして正直軽くみていたし、何より例年数万人の集客するイベントなので、人ごみがイヤだった。その年は知人が出場するということだったので、一度くらいは見ておくことにした。


〈予備知識〉
  そもそも那覇での爬龍舟競漕は、かつて琉球王朝時代には国家的行事として行われていた。廃藩置県の後に廃れたが、泊や久米の漕ぎ手が競漕を続けていた。
 第2次世界大戦で中断したが、戦後泊が泊港 で再開した。昭和50年の沖縄海洋博覧会に泊、久米の爬龍舟が参加してから、 競漕も旧暦5月4日から新暦5月5日の「子どもの日」に移って「那覇ハーリー」として開催されるようになったらしい 。那覇・久米・泊の3隻が出るが、濃緑色に塗られた那覇が日本、黄色の久米が中国、黒の泊が琉球を表しているという。

 『那覇市史』によると、舟の長さは14.55m(九尋三尺)、幅2.12m(七尺)、深さ0.73m(二尺四寸)、重さは約40tあったという。舳先には竜頭、艫(とも)には竜尾の飾りがつけられ、船端(ふなばた)には波紋などが描かれている。

 ハーリーの数日前には御嶽や拝所で祈願をする。三重城で祈願するようになった時期は新しく、最近豊見城のグスクでの祈願も復活したらしい。


御願バーリー
   

〈いよいよ見物〉
 ハーリーの最終日、会場となる安謝新港に向かったのは午後だった。お揃いのTシャツを着たチームがあちこちで宴会をひらいていた。米軍関係者らしきチームも多く、軍車両を横づけして陣取っている。ビアフェスタも同時開催してるし、ステージでは民謡ショーなどやっていて、ハーリー会場を背にして座る人々は何しに来たのだろうか。さすがに延々と続くハーリーに飽きたのだろうか。
  ハーリー会場の観客テントにたどり着いたのは決勝戦が迫ったころで、それまでのレースのタイムが張り出されていた。もはや陸海空自衛隊の主戦場である。そこに米軍、那覇消防署チームと招待された中国チームなどが参戦。青年会の健闘は大いに称えられるべきだろう。

 


早いチームは4分台

レースを終えて帰還する船
  爬龍舟には、舟先に龍頭、舟尾に龍尾があり、船端には波紋や龍の足が描かれている。県内他地域で使用されている舟と比べて、その規模や構造が大きく、乗組員も42人と多い。確認できただけで漕ぎ手が左右に16人、舵取り2人、旗振り3人、鐘打ち、中乗りという舟上で空手をする役割の人、ハーリー歌を歌う人も乗船する。『那覇市史』によると、かつては「那覇」には垣花の住吉あたり、「久米」は小禄の大嶺・鏡水あたりから、「泊」は地元から選りすぐったというが、現在では地区住民が漕ぎ手となるわけでもなく、ある舟は某会社チームが乗っていた。

数々の職域や各種団体レースを終えると、最後の御願バーリーと本バーリーが行われる。御願バーリーの時には、舟の上で旗を振り、空手を演じつつ、1人はマイクを使って歌いながら、コース内をゆっくりと回る。

 御願バーリーを切り上げて、各舟が本バーリーのスタート地点に揃い、いよいよ競争が始まった。
  勝敗の結果は・・・・・・         忘れた。


本バーリー

 次は旧暦5月のハーリーを見に行きたい!


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