大謝名の獅子舞

 旧暦8月15日に行われる獅子舞として、宜野湾市には大謝名と普天間のものがある。そこで今年は、集落の豊年祭の中で行われる大謝名獅子舞の方を観にいくことにした。
 宜野湾市大謝名は、浦添市に隣接し交通量の多い国道58号線とパイプラインに挟まれた地域で、大謝名団地や住宅も多い。

 
 豊年祭日程
 期日: 平成17年9月18日(日)[旧暦8月15日] 午後7時から10時まで
 場所:大謝名公民館
   
 獅子舞と棒は対になって3回演じられる。その間に古典音楽愛好会の「かぎやでふう」など演奏、民謡ショー。子供たちの遊戯や老人クラブ、婦人会による踊り、自治会長や婦人会長、来賓の宜野湾市長などの挨拶が続く。最後の獅子舞・棒のあとに青年会によるエイサーが演じられ、カチャーシーで豊年祭が閉会する。
   
 戦前は7月15日、8月15日・16日の3日間行われていた。7月の獅子舞は「タカンジ(二被り)」と呼ばれ、2回踊ったとのこと。15日にはムラマーイのあとにシーシモーと呼ばれる広場で獅子舞が演じられるが、ナーチャカンジ(翌日被り)と呼ばれる16日にはシーシモーだけで演じられたらしい。
 獅子舞は戦後しばらく途絶えていたが、昭和51年に復活した。
 
 
ウガン


土帝君
 夕方6時前に区の有志により、公民館の近くにある「メーヌカー」の次に「土帝君」、「上之山の神」「地頭火ヌカン」などが合祀されている拝所で、線香とビンシー、重箱、果物を供えて、獅子舞の開催と集落の繁栄を祈願した。 宜野湾市史によると、「前(メー)ヌカー・後(クシ)ヌカー・地頭火ヌ神・又吉(宗家)・黄金庭・土帝君」を拝むとある。当日は7ヵ所ほどの拝所を拝んだとのことだったが、確認はできなかった。

メーヌカー
 ムラマーイ

  その後ムラマーイをする。有志と獅子舞演者らは公民館を出発して集落内をまわり、四辻など2カ所で獅子を躍らせた。獅子舞を見たり、触ると健康になるといわれ、ムラマーイの銅鑼の音を聞いて家から出てくる親子や、子供に触らせたりする光景が見られた。
 ムラマーイを終えて、公民館に戻ってくると、広場の舞台横に獅子などの道具を入れる箱の上に獅子を置いておく。この箱には「獅子の按司加那志(アジガナシ) 部落(ムラ)ぬ守護神(マムイガミ) 悪魔災難(アクマサイナン)や 払(ハラ)て給(タボ)り」と書かれている。
 この頃になると、観客席としてシートや来賓席が置かれ、地域の野球チームによる焼き鳥など売る出店の準備などができていた。暗くなるにつれて、子供や家族連れ、お年寄りらが公民館に集まってきた。
 

 獅子舞が復活したその数年後、集まる観客をより楽しませるために具志川の宇堅から棒術を習い、取り入れられたという。
  1・3回目は1人で演じる「一番棒」、2回目は2人で演じる「二番棒」と呼ばれている。


  メーカタ
 獅子舞 

  演者は、獅子に入る前足を「メーカンジャー」、後ろ足を「クシカンジャー」、鈴を持って獅子を誘導する役を「ワクヤー」という。ワクヤーは獅子舞の前に「メーカタ」という空手を取り入れた踊りを踊る。現在ではメーカタができる人は1人だけであるとのこと。
 獅子はワクヤーに誘導され、銅鑼と太鼓にあわせて、広場中央の地面にシートを敷いた舞台に登場する。反時計回りに舞台を回り、四方と中央で吠える動作をする。そのあとワクヤーは舞台外に出て、獅子だけで舞台を1周する。
 

 青年部による総勢30名ほどによるエイサーは、旧盆や宜野湾市の青年エイサー大会を経ているのでよく練習されていた。
  獅子舞の主体は獅子舞保存会であるが、演者らは高校生から20代の青年であるらしい。定期的に作成しているらしく、2パターンの揃いのTシャツを着ていた。


  青年会をはじめとして自治会組織がしっかりしているのか、公民館の敷地やその周囲には多くの住民でにぎわっていて、豊年祭として良い雰囲気だったと思う。宜野湾市内で獅子舞を演じる豊年祭として、まともに行われているのは大謝名だけかもしれない。普天間の獅子舞は郷友会が保存会の主体であるらしく、地元の人に聞いてみたところ、地域の行事としての認知度は低いようだった。普天間に関しては、来年以降に観に行ってみたいと思う。
  宜野湾市長や教育長も歓待を受けていたが、私も含めて観客にはジューシーおにぎりが配られた。婦人会が公民館で作っているらしく、とてもおいしかった。



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