真壁ちなーが登録有形文化財に

私のムートゥヤーである真壁ちなーが登録有形文化財になりました。いや、びっくり。
これはぜひ、このサイトで親戚ならではのネタをやらなければ!

以下が沖縄タイムスに写真付で掲載された記事の内容です。

鎌倉芳太郎撮影 琉球芸術調査写真、国の重要文化財指定へ
登録有形文化財「金城増治家住宅主屋」
 文化審議会(阿刀田高会長)は十八日、県立芸術大学が所蔵する「琉球芸術調査写真 鎌倉芳太郎撮影」を重要文化財(美術工芸品・歴史資料)に指定するよう中山成彬文科相に答申した。また、糸満市真壁の「金城増治家住宅主屋」を、登録有形文化財(建造物)とするよう求めた。
 県内から国の重要文化財指定されるのは三十件目で、歴史資料としては「明孝宗勅諭琉球国中山王尚真宛」以来二件目。登録有形文化財は三件目となる。中山文科相は三月中に答申通り指定、登録する予定。
 「琉球芸術調査写真」は、型絵染めの人間国宝で沖縄文化を研究した鎌倉芳太郎氏(一八九八―一九八三)が一九二〇年代に撮影した資料群で、ガラス原板千二百八十七枚、紙焼き付け写真九百三十九枚、調査記録(鎌倉ノート)八十一冊。撮影・記録した文化財のほとんどが戦争で消失したため、首里城復元の際は正殿写真が参考にされるなど、琉球文化財を考察する上で極めて貴重。
 「金城増治家住宅主屋」は一八九一年ごろに建築され、沖縄の伝統的民家の全体像を伝える。登録文化財は外観を大きく変えなければ自由に活用でき、同住宅も現在そば屋として使用されている。
(沖縄タイムス2005年3月19日(土) 朝刊 1面 )

メインは鎌倉芳太郎の重文なわけですが、「金城増治家住宅主屋」(真壁チナー)も 立派なものだといえましょう。これで観光客も売り上げもUPか?!

 

「金城増治家住宅主屋」概要

 1891(明治24)に建築(玉城から真壁に移築)された。琉球石灰岩の石垣で囲われた敷地は約400坪。柱材木にはチャーギ(いぬまき)が用いられている。

  糸満は沖縄戦の激戦地の一つですが、真壁も「摩部仁」や「ひめゆりの塔」で有名な集落とそう離れていません。戦禍を被ったなか、どうにか焼け残った屋敷は、終戦後の旧三和村の役場や診療所として使用されていたこともあります。 

  真壁での屋号である「喜納」が方言読みで「チナー」となり、地元からすればこちらの名前の方がわかりやすいかと思います。この家の持ち主はチナーの本家(宗家)で、私の祖父の兄の家系にあたります。 長兄の家系は那覇に住み、私の父を含む祖父家族が1972年までこの家に住んでいました。その後は貸家にした時期もありましたが長らく空き家となっていました。
  そして平成10年に、今のそば屋を開店しました。その際に、柱や梁はなるべく残しつつ、カマドを壊して厨房にしたり駐車場を整備するなどの改築しています。 昔の民家っぽい風情が受けたらしく、次第に口コミが広がって沖縄各地からの訪れる人や観光客も増え、今では繁盛しているようです。集落が碁盤目状で道も狭いので、探しきれずに断念する人も多かったと聞いていますが、その点では観光客の方がカーナビ搭載のレンタカーなので有利なようです。


 一番座と二番座が客席部分。飾られている陶器などはこの屋敷を建てた金城増太郎の収集品が、壁にはその長男の絵が飾られている。二番座の大きな仏壇はなかなかの物。

真壁チナー屋敷図

カー(井戸)

フールは豚小屋兼トイレ。
 
 ↑広い1間ほどもある縁側は
自慢のひとつ。父が子供の頃は、
兄弟の勉強机を置き、夜はそこに
寝ていた。


 この家で育ち、1972年まで住んでいた父親(1950年生)から、以下のような話がきけた。

  木造、瓦屋根の屋敷は、戦争により柱と屋根しか残っていかった。今も屋敷には弾の痕も残っている。倒れたヒンプンは今も塀に立掛けられてままになっている。戦後しばらくの間は、なくなった雨戸のかわりに軍のテント布のようなものを張っていた。
 戦後、豚はワーフールではなく、敷地の南西の角にブロックで作った小屋で飼っていた。そのほかに、屋敷内でカイコを飼っていたこともあるらしい。 メーヌヤーは鳥小屋として使用していた。
 
  かつてナカンジャの裏のクチャには天井裏に昇るはしごがあった。クチャ部分の天井裏の板は他より厚く、移築する前までは砂糖壷などを置く物置になっていたらしい。屋根までは人が立って歩き回れるほど高く、父親が子供の頃はよくそこでかくれんぼをしたりして遊んだという。
 小さなカマドは汁物や炒め物に使い、たまに使う奥の大きなカマドでは芋を煮たりした。燃料は薪から石油、ガスに変わったが、父の家族が引越しするまで現役で使われていた。

金城増太郎という人

 チナーを玉城から真壁に移築した金城増太郎という人物は私の曽祖父にあたり、今でも真壁ではちょっとした有名人です。高校の教師でしたが、県立博物館の館長や旧三和村の村長を務めていました。地元の識者として一目置かれ、『沖縄県歴史の道調査報告書 』(沖縄県教育委員会文化課 1987)で真壁の項を書いている。私が真壁を調査していたときには、曽祖父を知る年配の方から「血を受け継いたんだはずねー」と方々で言われた。しかし一方で人物像については、子供をはじめとする家族にとっては怖い存在だったようです。休日などにはその頃子供だった父を連れて、持っていた山に薪を取りに行ったそうです。またある話では、独りで朝に家を出ては、石など集めてきた何かを鞄に入れて持って帰ってきたそうです。その後、私が生まれるずっと前に亡くなりましたが、たくさんの遺品は処分したり博物館に寄付するなどして整理し、現在では僅かに残った陶器などが、店の中に飾ってある。

補足:登録有形文化財と有形文化財との違い

 文化財保護法では,文化財を「有形文化財」,「無形文化財」,「民俗文化財」,「記念物」及び「伝統的建造物群」と定義し,これらの文化財のうち,重要なものを重要文化財,史跡名勝天然記念物等として国が指定選定し重点的な保護の対象としている。したがって、国指定の有形文化財は「重要文化財」とも呼ばれる。
 そして、 平成8年10月1日に施行された文化財保護法の一部を改正する法律によって,保存及び活用についての措置が特に必要とされる文化財建造物を,文部大臣が文化財登録原簿に登録する文化財登録制度が導入された。
 
 この登録制度は,近年の国土開発,都市計画の進展,生活様式の変化等により,社会的評価を受けるまもなく消滅の危機に晒されている多種多様かつ大量の近代の建造物を中心とする文化財建造物を後世に幅広く継承していくため,届出制と指導・助言・勧告を基本とする緩やかな保護措置を講じる制度である。
  従来の国の指定制度との違いは、指定文化財が手厚い保護を行う一方で、管理・修復・公開に関する指示・命令や許可制等、変更の規制が強いのに対して、登録文化財は修理等に対する国庫補助や保存及び活用のため必要な各種の措置を講じる点で共通しているが、現状変更等の届出が義務付け、指導・助言・勧告などの規制がより緩やかだといえる。
  実際に、近代を中心にした身近な文化財建造物が、平成17年4月1日現在では4,609件が登録有形文化財に登録されている。 
 沖縄県内の国の登録有形文化財は2件とも建造物で、「潮平ガー(平成9/12/12登録)」「南大東島西港旧ボイラー小屋(平成12/12/4登録)」がある。登録基準は「国土の歴史的景観に寄与しているもの」とのこと。

 


      2000-2005(C)  「民俗けもの道」gambit All Right Received.