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鈴木金七郎の業績を見直す会のホームページへようこそ。 長篠・設楽が原の戦いで鳥居強右衛門と共に織田&徳川連合軍に対し援軍要請をするため同行した鈴木金七郎と言う人物に関する情報を検証しています。 場所 新東名高速道路、 長篠・設楽原PA南 愛知県新城市 富永字屋川 |
| 金七郎は、私たちの住んでいる愛知県新城市富永(旧、川上村)の生まれで彼の子孫の方も当地で暮らしています。今から440年前”彼は、どんな経験”をして”どう生きた”のでしょう。想像するだけでも胸の高まりを感じます |

長篠城は、武田軍に昼夜の別なく激しく攻められ落城の危機にあった。兵の戦意高揚と家運を賭けて岡崎にいる家康に援軍要請の使者を出すことに決めた。城将奥平定昌は、土地勘と人脈の有る鈴木金七郎と鳥居強右衛門にその役目を申し付けた。豊川を泳ぎ下り広瀬で上陸後、川上村に辿り着いた。腹ごしらえと装束を整え鈴木家の守り神である白山社に祈願、狼煙の材料を背負い『のたば』で脱出成功の狼煙を上げるため雁峰山に登った。そこは、草刈り場で金七郎には馴染みの場所であった。その後、雁峰山の尾根道を敵の間者に見つかることなく岡崎に辿り着き、信長、家康に謁見。援軍は、明日にも出立の旨を知り、「援軍来る」の狼煙を『涼み松』で上げ君命を果たした。要害の地、長篠を開城せず小勢で守り抜き、奥平家開運戦の一端に貢献したのである。 戦の後、金七郎は、嫡子でわなかったので、作手の大田代に帰農している。慶長7(1602)年貞昌の四男松平忠明が作手亀山1万5千石に封ぜられた折、大田代に金七郎を訪ね、二百石の禄を与えて往年の労をねぎらったという。また、戦いの2年後の天正5(1577)年の古文書「宮座の覚え」には、田代村氏子金七郎とある。私たちの調査研究により、岡崎への援軍要請は、鳥居強右衛門一人でわなく、鈴木金七郎との同行説が確認され、「ら」は鈴木金七郎の第二の使者説を表す「来援をせかじとつげし鈴木金七」から改訂しました。2018年5月5日
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・鈴木金七郎の狼煙場探索コース 案内 (見晴台までの雁峰山ルート) |
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| 2015年12月20日 | 先週あいにくの天気で順延となった『のろし場ウオーク』の様子です。37名の方の参加をいただき川上集会所を出発して標高差約430mの工程を全員、登ることが出来ました。見晴台での眺望がそれまでの疲れを吹き飛ばしたかのように、みな歓声を上げていました。故郷の景色は、もとより鳶巣攻撃の吉川条から浜名湖の弁天島までが遠望できました。岡崎城まで駈けた金七郎の苦労の一端が体験できた一日でした。 | 金七郎のろし場ウオーク![]() |
| 2015年10月12日 | 鈴木金七郎の狼煙場探索コース案内![]() |
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2016年3月20日 |
設楽原歴史資料館に金七郎の撮影看板を設置 マルシェin文化会館の様子 |
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ケーブルTV テイーズ取材風景 2014.4.28 テイーズのThank youベリー街 。東郷西小学校区編の収録時の様子です。鈴木金七郎の業績を見直す会の紹介、当地に伝わる金七郎話の要旨、人物像、活動目的他を取材しています。また長篠合戦のぼりまつりのに登場した金七郎(金七郎の子孫代表して鈴木英夫氏が扮する)の勇姿も挿入されるそうです。写真右より今泉健吾氏、隣が鈴木英夫氏、森田諭司も登場します。 |
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取材風景こちら
鳳来中部小の良い子たち
今年度の主な事業計画
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