突き刺すように冷たかった風が、柔らかに温み、暦は春を迎える。
人の心を浮き立たせる筈の、春が―。
まだ陽は高いが、いつも満ちている子供達の声はなく、長閑すぎる午後の日。
風に乗って舞い込んだ桜の花びらに、半助の意識は外へと飛ぶ。
学園内に植えられた何本かの桜は、既に満開。一雨来れば全て散り去らんばかりに、空を桜色に染めている。
今日の忍術学園は、臨時休校。
こんなに良い陽気なのに、学園内に生徒は残っていない。
それでも、半助が校内に残っているのは、臨時休業の目的が、関係者全員参加の大お花見宴会が催されるからだ。
教師は勿論、要参加。欠席は許されていない。
休みの日に預かるはずのきり丸も、今日はしんべヱの所に行っているようだ。
いつもは迷惑な学園長の思いつきだが、この案に、普段ストレスを貯め込んだ教師達は嬉々として飛び付いた。
本来、子供達に行かせるような、お使い…招待状の案内などを教師自ら、配り歩いていた。
伝蔵に至っては、氷の調達を任され、朝から遠出してしまっていた。
「私も…一緒に連れて行って下されば良かったのに」
半助は、室内に舞い込んだ数枚の花びらを拾い上げ、弄ぶ。
春は、何となく…人の心を柔らかく解かし、浮き立たせる。
桜の狂瀾は、そのまま人の心を映しているようで、半助はこの季節が空恐ろしくもある。
我先に咲き誇る桜の花を見ていると、それに吸い込まれてしまいそうで…。
半助は、今日の宴会が憂鬱でたまらなかった。
仲間のみんなが、花見酒に酔いしれる中、自分ひとりだけが…そこに相応しくないような、疎外感を味わうことになったりしたら…。
それは、教師をすることで整えられた半助の心のバランスを危うくしそうで…怖い。
半助は、庭に出ていた。
一番の桜の下には、敷物が用意され、食堂のおばちゃんと事務員の小松田が慌ただしく準備をしている。
学園長の思いつきの被害者の最たる者は、このおばちゃんかもしれない。
「あら、土井先生…もう熱は下がったの?まだ安静にしてないと…顔色が悪いわ〜」
目敏く半助を見付けた食堂のおばちゃんが声を掛けてくる。
この人は、良い意味で日常感が満ちていて、半助を引き戻してくれる。
現実から、乖離しかけていた半助は、その声で我に返るような思いがした。
「すみません。何かお手伝いが出来たら…と思ったんですが…」
「駄目ですよぉ〜土井先生。無理は禁物ですよぉ〜」
間伸びた声は、小松田秀作。
「そういう君の荷物は、あっちの分なんじゃないかい?」
同じ所に、何枚も小皿を重ねる小松田の手つきは、危なっかしいことこの上ない。
「あぁ〜そうそう、小松田君。それはあっちだから…」
おばちゃんも、苦笑いで指示する。
「騒がしくして悪いけど、ここは大丈夫だから、土井先生はゆっくり寝てて頂戴…」
そうやんわり断られては、半助に無理強いは出来ない。
今朝、急に熱を出し、迷惑を掛けたばかりなのだ。
「それじゃあ、病人は、大人しく散歩でもしてます」
「それが良いですよ〜あぁっ!」
案の定、小皿を撒き散らしながら、小松田が言う。
「あぁ〜!」
おばちゃんの悲鳴が重なる。
柔らかい土の上だったお陰で、破損は免れたようだが、折角の準備が台無しだった。
小松田君に手伝わせるのは…逆効果なのでは?とここで言うのは、流石に半助にも憚れた。
「あぁ〜小松田君、こっちは、私がやるから、あなたは吉野先生の所に戻ってくれる…?」
「でも、吉野先生におばちゃんを手伝えと…」
この会話で、小松田があちこちの先生からたらい回しにされて来たことが想像され、半助は苦笑した。
小松田君は、不器用で、時に迷惑を掛けるが、みんなに愛されている。
半助は、思わず目の前の桜を見上げていた。
相変わらず、咲き誇る小さい花達の群衆。
しかし、それは太陽に愛されて…春を享受している証拠だ。
半助は、ふと興味を惹かれ、一本だけポツリと離れた所に立つ桜の方に向かう。
「土井先生、そっちは日陰だから…温かくしてねぇ〜」
おばちゃんの気遣いも、半助には悲しく感じた。
その木は、一本だけ離れた所に立っていた。
隆々とした他の桜と違って、貧弱な感じがする枝振りで、蕾がようやくほころんできた三分咲きといった感じだ。
半助は、ブルリ…と震える。
「…そうか」
ここだけ、陽の光が当たらないのだ。
当然、開花も遅れる。
他が春の陽気に沸き返っているのに、ここだけがひっそりと冷たい。
奇妙な程、寂然としており…半助は、ホッと一息付ける気がした。
まだ固い蕾に、素直に春の到来を楽しめない自分を重ねてしまうのは、桜に対して不敬だろうか?
「お前も、皆と一緒に咲きたいだろうに…」
好きで、この立地に立っている訳じゃないだろう。
咲いていないことで、顧みられることのない桜。
咲けないのは、桜のせいじゃない…のに。
そして、空気が完全に春を告げる頃には、葉が芽吹き、花だけを愛でるのには不向きになってしまうのだ。
半助は、思わず桜の木に頬を寄せていた。
人の様に鼓動はないが、確かに生きているのを確かめるように…。
「…あれ?」
樹皮が、妙に冷たく感じた。
ひやりとする感触は、頬に気持ちよかった。
熱がぶり返したのかな…と半助は、ぼんやり思う。
そのまま、ずるずると座り込んでしまった。
今は、その感触があれば良かった。
「…半助。こんな所で、何をしている?」
どれだけの時間、そうしていたのだろうか?
気が付くと、辺りは暮れかけ、夕方の風情だった。
「…山田先生?」
視線を上げると、遠出していた筈の伝蔵が半助を見下ろしていた。
「顔が赤い。大人しく寝ていなかったようだな。バカ者が…」
早々に叱られてしまったが、半助は、妙に嬉しかった。
「何を笑う?おかしくなったか?」
伝蔵は、半助を起こそうと手を伸ばした。
半助は、その手を取ろうとして、腕が重いのに気付く。
それを無理に差し出すと、半助の手を取った伝蔵がギョッと目を剥いた。
「いつから…此処にいた?半助」
そう言うと、半助の額に手を乗せる。
「冷たい…氷のせいですか?」
「馬鹿者!お前の額が熱いんだ。全く…朝より酷くなっとるのは、どういう事だ」
言葉とは裏腹に、樹皮の跡がついてしまった半助の頬に優しく触れてくる。
「すみません」
半助は、それだけ答えると、伝蔵の手に身を委ねた。確かに酷く身体が痛むのは、熱が上がったせいだろう。
身体は少ししんどいが、宴会に出席しなくて良い理由が出来たことに、安堵する。
「全く…大人しく部屋で寝ていろと言った筈だが…」
ぐるりと半助の世界が回転した。
「や…山田先生!何を…っ!」
伝蔵が、半助を荷物のように肩に担ぎ上げたのだ。
「大人しく運ばれろ。馬鹿者が。騒ぐと舌を噛むぞ」
「そんな、先生っ!」
ジタバタと暴れる半助に、伝蔵は声を潜めて言う。
「それとも…女のように抱き上げられたいか?」
「…そ、そんな」
半助の抵抗はそこで止んだ。
「わしは、全く構わんがな…」
少し楽しそうに聞こえるのは、半助の気のせいか?
「山田先生、行って下さい。…宴会」
半助は、自室で休んでいることになった。
宴会は既に始まっている。
普段、学園で懇意にしてる、兵庫水軍や、加藤村の馬借の皆さんなど…様々な人が招待された宴会だ。
こうして部屋にいても、遠くから、騒ぎの声が聞こえてくる。
「…山田先生」
お祭り騒ぎから少し離れて、伝蔵と2人きりなのは、半助にとって思い掛けなく嬉しい事だ。
しかし、半助と違い…伝蔵が滅多に出来ない息抜きを楽しみにしていたのは、知っていた。
それを奪うのは、心苦しい。
「山田先生…」
「…桜なら、ここからでも見える。」
「そうじゃなくて…」
伝蔵は、障子を全開にして塀の向こうに臨む桜を酒の肴にしている様子だ。
「私、ひとりでも大丈夫ですから…先生は、参加して来て下さい」
半助は、そう言ってはいても、実際置いていかれたら、寂しくて泣いてしまいそうだったが…。
伝蔵は、少し呆れたように、笑う。
「そんな顔して…全く、馬鹿だな、お前は…」
慣れた手付きで、半助の額に乗っていた手ぬぐいを取り、冷水で濯ぎ絞って、額に戻してくれる。
それは、ヒヤリと冷たく、心地よかった。
「一人で行っても、楽しいことはないだろう?馬鹿者が気になってな…」
思いも寄らない言葉に、半助は胸が熱くなる。
「…すみません」
「ありがとう…だろう?」
伝蔵は、真っ赤になった半助を見て、笑う。
「わしは…な、半助」
不意に伝蔵がポツリと言う。
「お前が、倒れていた方の桜。あれが嫌いじゃない」
伝蔵は、半助に背を向けたまま。
それは月光に黒い輪郭を浮かべるばかりだ。
「皆から離れて、太陽の恩恵が薄くても…凛と一人立つ桜は…お前に、似ている」
半助は、耳を疑う。
これは…本当に、伝蔵の言葉か?
熱がもたらした、幻聴の類ではないのか?…と。
「必ず、花を付けるのも…健気だろう?」
後ろ姿の首が小刻みに、揺れていた。
「我が一番と、咲き誇る満開桜より…わしは、そちらが良い」
伝蔵も、この状況でなければ言えそうにない言葉に、照れているのかもしれない。
「や、山田先生…」
悔しいことに、半助の伝蔵に抱きつきたい衝動を阻んだのは、半助自身、思い通りに動かせない身体だった。
「山田先生!」
こんな時、上手い言葉というのは、浮かばないものだ。
不器用な自分に歯噛みする。
「山田先生…っ」
心が、身体が…山田先生、山田先生で、一杯になってしまう。
寂然としていた胸の奥に、甘酸っぱい春の風が吹き込むようだった。
それを吹き込んでくれるのは、いつも伝蔵だ。
「だから、気にするな。わしも…な、酔っぱらいの相手をするより、ここでこうしていた方が、楽しい。」
半助は、静かに…何度も、頷いた。
―季節は、春。
半助は、咲き誇る桜と、この季節が…少し好きになった。
この甘酸っぱい、思い出と共に…。
■終幕 2006.04.06■
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