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  経典の教えと火宅の人    


火宅の人という言葉の出典は法華経の譬喩品という経文中にあります。
譬喩品は三界世界と称せられる世界の危うさを様々な表現で伝えている経巻で、仏の視点から観る衆生世界の様相を、家宅という現実にたとえて語るというものです。
ある長者の大きな家に危険が迫っているという情景がそれです。その危険な家は、人それぞれの心の中の様子でもあります。
そんなことはありえないと判断されることも、仏の境地から観れば、有り得ることになります。仏性を離れた世界と仏の世界とは、想念・意識において格段の格差がある事になります。

経文の中での火宅とは、強い火勢が家宅を包もうとしている、つまり早く逃げ出さなければいけない危険な状態を表現しています。
そして その中には全く危険に気づかずに、楽しみに興じている人たちがいます。
それが火宅の人という設定です。そういう危険極まりない状態にある衆生をその渦中から一刻も早く救済したい、というのが仏(経典では長者)のみ心でなのですが、その思いがなかなか届かない状態にあります。そこには、所有物に執着し、享楽に耽る衆生の心模様が表現されています。仏と衆生の関係が長者とその子供たちという設定で、法華経の譬喩品は始まります。

仏の教えとは、高い悟りを目指し修行する仏教僧をより優れた宗教者とする為の教えであると理解されてきました。でも法華経は、小乗的乗り物に例えられる自力の教えを超えて、衆生の仏性顕現という全救済の道を奨励します。それこそが 真に仏のみ心に叶うものであることを伝えているのです。大乗仏教と呼ばれる流れです。
そのことからも譬喩品が単なるたとえ話ではなく、仏の世界は、実現可能であることを教え、仏道に導くものとなっています。

経文は大きな危険が迫った家の中で、そうとは少しも気づかずに遊びに夢中になっている人々がいるという、常識ではあり得ない展開で進みます。それは仏が譬喩(たとえ)をもって舎利弗に仏の教えの奥義を解き明かそうと語られる説法であり、舎利弗の菩薩としての使命がそこにはある事になります。

譬喩品の中のから 

ある豊かな国に大長者が住んでいました。 その長者はとても長命で財宝も際限なく豊かでした。多くの田畑を持ちたくさんの使用人がいました。そしてその大長者の家はとても広大でしたが、出入り口である門は一つでした。そこに住む使用人の数はとても多く数百人にもなっていました。そして長者自身の諸々の子も数十人はいました。

でもこの家はよく観ると堂閣が朽ち果て、壁はあちこちと崩れ落ち、柱根が腐り折れて屋敷は傾いています。そしてしばらくすると忽然と火が起こり、舎宅が燃えだします。
この家の持ち主でもある長者は以前にその家から出ていて安全な所に住まいしていますが、家の中の者たちのことが心配でなりません。次第に 危険が迫り来るという様子を外から見ながらも、いよいよ四面が火に包まれるのをみて大いに危機感を強めます。

長者自身が先に出たその家の門は、とても狭く逃げ出しにくい上に、諸子等は心奪われたように楽しみごとに耽り夢中になっていて、危険だという感覚を持たず、逃げ出さなければと気付いている、様子もないのです。それを見て仏の心配は深めるばかりです 。見かねた長者は家の中の者たちに大声で危険を知らせます。
「この家は大火に覆われている、家屋もすぐに崩落する、とても危険だから早く外に逃げ出なさい」と。

その父である長者のことばは子を思う愛念であり真実でした。でも家の中が安住の地であり、楽しみも多いと思って疑わない諸子等の心には届きません。
父のことばを信じることもなくその場に執着し、外に出ようとしません。その様子を見ていた長者は、真実を伝え諭しても誰も信じず、効果がないことを悟り、智恵をもってその危険な世界から 諸子等を救い出すことにします。その方法とは、諸子等が欲しいと望む品物が屋外に用意されているから、早く出てきなさいと告げるというものです。

それによってようやく彼らの興味を惹きつけることが出来、家宅から出ることを可能にしたのでした。
 ということは、火が迫っているという事実を直接伝えることがその場の救出法ではないことを知った長者が、救出という目的のために方便的な言葉を用いたということになります。それによって、火が迫りくるという危険の意味を信じないまま、彼等が自からの意思で外へ出てくるという事につながったわけです。
                                                    
長者の真意
その方便といわれる導きはあ、長者の本当の偉大さを子らが理解できないために、その言葉を聞く耳をもたなかった事があります。それは次のような言葉で示されています。
「汝らが好み楽しめるように種々の羊車、 鹿車、牛車を門外に用意した。これらを自由に使って良いから、早くここまで出てきなさい。そうすればこれらの中から望むものを得ることができます。」 その長者のことばを聞いた火宅の人達は、 長者のプレゼントの申し出に躍らんばかりに喜び、争うように勇み競って走り出てきました。そして無事に門外へと脱出できたのです。そして安全なところで静かに座り、心は躍るように喜び、長者のことばを待っているのでした。
そのような諸子の様子を、長者はとても嬉しそうに眺めていました。
そのとき諸子等が口々に願い出ます。どうぞ先ほど約束された玩好の具である羊車、鹿車、牛車を私たちにお興え下さいと。

そのことばに対して長者は思いがけない言葉で応えます。各諸子が求め望んだのは普通の羊車、鹿車、牛車かもしれない、でも火宅の家(三界)を出た諸子等に対して、長者が用意していたものは、もっと素晴らしいものであることを。そしてそれらは本当に、長者の子らが願い想像していたものとは比べものにならないほどの最高級の大宝車でした。

その大宝車の絢爛豪華さ、高価さはことばを尽くしても表現できないものばかりです。そして父でもある長者は、自身の財宝は極まりもなく、尽きることはないのだから、いかに小車を求てもそれで善しとはしないと話します。
多くの財宝に満ちた価値の高い大車を与えたいのが親の願いである。でも最初から絢爛豪華な大車の話をしても疑われるばかりで、誰も信じないことがわかっていた。
だからみんなが理解できる羊車、鹿車、牛車の話をして、火宅より救出したのである。方便とは時にそのようなものであると教えるのでした。

諸子等は信じがたい気持ながら、感激を抑えられないほどに喜び、踊り出しそうになり、さっそくそのすばらしい大宝車に乗ってみます。するとそれはまるで四方に飛ぶように諸子を運び、まるで自在無碍を得たかのような自由性を諸子にもたらしました。大きな喜びに包まれている子等の様子は、 長者の望むところそのままでありました

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羊車、鹿車、牛車の例えはあたかも、時代と共に乗り物が籠から牛車、馬車と 変化し、更には現代のように自動車や新幹線の開発にまで至った事と重なるかのようです。
現代では更に飛行機、ロケット、宇宙船という如く進化しています。牛車、羊車の例えの価値は今日かたみれば、現実は離れてしまっています。
でも、仏は当時とすれば、魅力あるものを例に出したことになります。
さらにすばらしい絢爛豪華な宝の乗り物を与える用意があるとは何を意味するのでしょうか。
仏の心の中にある特別な宝の乗り物とは、物質的な絢爛豪華さの価値を指すばかりではなく、天の叡智に満ちた軌道に運ぶ乗り物ということではないでしょうか。
現代の私たちにはまだまだ想像できない事があるとしても、そうした人間の智恵や理解が届かない世界へ往くことは可能であることを仏は語っているのです。
私たちも神仏が遠い昔から用意されているという、絢爛豪華光りに満ちた世界にいつかは出会える可能性があると信じたいものです。

方便の教えとは  

舎利佛に向かって仏は説きます。
「 仏の大意は、常に衆生を真の目標地に導くというものであっても、その過程では段階的な到達点が示されるのも仏の道であり、真の目的地に至るまでの導きにも段階的方便もある。しかしそれらは一貫して仏の世界へ続く道であることに間違いはない。」
そこで舎利佛は仏が語った例え話の教えから、自分が理解した長者の願いとは次のようです、と仏に申します。そして話し始めます。
「長者は、吾が子らを危険な場所から救出するために、衆生が理解しやすい目標を示されました。それが羊車、鹿車、牛車でした。何故なら衆生が仏の言葉を信じて家宅を出なければ、危険から救うことが出来ないからです。その衆生を救うための仏だけが知りうる工夫が方便でもありました。
そして長者が最初から与えたかったのは羊車、鹿車、牛車ではなく、もっと素晴らしい大宝車であり、それが最初からの長者の願いであったことが理解できました。それは長者の能力と財宝が無尽蔵にあるからこそできることです」 と。

それに対して仏は応えます。
「善哉善哉、舎利弗 汝が所言の如し。如来もまた斯くの如し・・・」
(仏と衆生の関係も長者と諸子の関係と同じであり、仏の願いも長者と同じでなのである)
「如来は衆聖の中の尊、世間の父なり。一切衆生は皆これ吾が子なり。・・・」
そして譬喩品の最後にはこんな表現があります。
「我この相にして 仏道を求むるものを説かんに劫を窮むるともつきず・・・」
仏とは過去現在未来を通して永劫に宇宙に生命を持ち続ける存在であるのです.
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