バードは『米沢の平野は南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉の町、赤湯があって、申し分のないエデンの園で、鋤ではなく画筆で耕されて」おり、(中略)微笑みかけているような実り豊かな地です。繁栄し、自立した東洋のアルカディアです。(中略)吉田は豊で繁栄しているように見え、沼は貧しくみすぼらしいものの』

 確かに山間地と平地では環境に大きな違いがあったことは容易に想像できるが、バードは7月29日大館で『わたしが土地土地から受けた印象も、きっと天候に左右されていることでしょう』と記している。

 豪雨の中、難儀し越えた十三峠、濡れた着物を着て旅を続ける状況から一転し、峠の無い平地を馬の背に揺られながら進めば、これを超える旅の楽しさは先ずは無い。『舟で川を一本渡ったあと津久茂に入ると(中略)道路に沿って電信柱も立っています。突然新しい世界に出てしまったのでした。(中略)この道は何マイルにもわたって身なりのいい徒歩の通行人、人力車、荷馬、荷馬車で込んでいました。』と十三峠とは別世界となる。

人力車が小国に姿を現したのは、明治17年10月に行われた「小国新道落成開道式」に、高官が二人引きに乗って来たのが最初といわれている。(小国町史)

   昭和中頃の村上屋     
手前中央の道脇に池があった

 『暗くて目鼻のちくちくする煙が充満しているのはべつとしても、ひどく汚くて害虫がいっぱいおり、くたびれはてているにもかかわらず、わたしは先へ進まざるをえませんでした。』
 極悪な環境であることを記しているが、これはここだけのことではなく、山間集落についての記述も大同小異である。『くたびれはてているにもかかわらず、わたしは先へ進まざるをえませんでした。』宿泊についての交渉には言及していないので、ここまま文章を解釈すれば「汚くて害虫がいっぱいいて泊まらなかった」ということになるが、果してそうだったのか。「汚くて害虫がいっぱいいる」意味の記述は他にもたくさん出てくるがバードはそれでも泊まっている。

 バードの文章にあるように往時の東北地方はどこでも養蚕が盛んであった。村上屋も例外でなく、家族が寝る部屋以外は蚕がいっぱいで、泊まる部屋がなかったことも考えられるがバードの真意は分からない。


 『とはいえあたりは暗くなりつつあり、駅逓所はないうえ、人々がはじめて値段をふっかけてきたので、伊藤はもう少しで困りはてるところでした。農民は暗くなってからからは外出したがりません。それというのも幽霊や妖怪やなんやかやがこわいからで、夕方遅くから出発させるのはむずかしいのです。』

 玉川と小国で牛を調達しているが、黒沢到着時と市野々までの交通手段については言及していなが、牛や背負子を頼む交渉で『値段をふっかけてきた』とすれば、当然のことである。市野々まで行ったとしても帰りは真っ暗になるのだから。
  8月5日黒石での記述には、「馬子は暗くなってからは二倍の料金をもらってもいやだという」(要旨)と記している。
 『泊まれるほど清潔な家はなく、わたしは石に腰を下ろし、一時間あまり人々について考えました。』この時点では雨は止んでいたものと思われる。

 『一人の女性が「酔っ払って暴れながら」ふらふらと歩いています。』〔一人の女が泥酔してよろよろ歩いていた〕(高梨健吉 訳)『ふらふらと歩いています』は家の中ではなく外を歩いているという表現かと思うが、他の地域のように外人珍しさの余り外に出てきたのでないか。

 『それでも品のない服装をしたある女性は、ふつう客が休憩した場合に置いていく2銭か3銭を、どうしても受け取ろうとしませんでした。わたしがお茶ではなく、水しか飲まなかったからというのです。わたしがむりやりお金を渡すと、その女性はお金を伊藤に返しました。名誉挽回のできごとにわたしはとても慰められました。』
 酔っ払いの女性と品のない服装の女性は別人と考えられ、後者はこの農家の人で値段をふっかけた人々の一人であろう。

 『沼(黒沢)からここまでの距離はたった一里半ですが、険しい朴ノ木峠(黒沢峠)を越えます。この峠は何百もの粗い石の段々を上り下りし、暗がりに越えるのは愉快なものではありません。』

 
     黒沢峠

『峠の麓で立派な橋を渡って山形に入り、それからまもなくこの村(市野々)に着きました。』バードの混乱ぶりはまだ続いており、立派な橋とは玉川を出ると直ぐの「玉川大橋」のことであろう。往時この橋は小国、手ノ子の大橋とともに「三大橋」といわれていた。

7月11日 沼〜市野々 

『なによりもひどいことに、ここ(沼)には駅逓所がなく、村には馬が一頭もいません。翌朝農夫を5マイル離れたところへ送り、かなり長い交渉のすえようやく一頭調達できました。』とある。

 沼から市野々までは十三峠の半分近くの峠を越える必要があり、途中で一泊しないと無理では、と考える方も多い。しかも、沼では5マイル(約8q)離れた所(下関?)から長い時間交渉し一頭の馬を調達してからの出発である。その後も、途中玉川では2時間交渉、小国では荷牛探しと雨宿り、黒沢でも1時間余り考え事をしたと記しており、途中で4時間程度ロスしたことになる。通常のペースでは約8時間程度の道程であるから、都合12時間程度要するはずである。
計算上、沼を朝8時に出たと仮定すれば夜8時頃には市野々に着くことになる。  

 市野々で早朝にでも記したものか記述の最後には『きのう旅した道のりは12時間かかって18マイル(約28.8q)!』とある。日照時間の長い季節でもあること。黒沢峠を暗がりに越えていること。12時間かかったと記していることなどを考えるとバードの記述に誤りはなく、北日本の旅の中でも十三峠、特に沼から市野々間は最も難儀した行程のひとつだったと思う。

 『日本で戸数から住民数を推定する際、普通戸数に5を掛けますが、好奇心に駆られて沼の集落内を歩き、日本の家屋ならどこでも住居者の名前と人数と性別を書いて外にかけてある表札を伊藤に約してもらいました。すると戸数24で住民数は307になりました!』。10年前(慶応4年)の戊辰戦争で沼集落は一軒を除き火災で家屋を焼失している。家を建てられない人々が親戚に身を寄せた可能性もあるが、明治15年の調査では16戸に122人という結果がある。更に表札の精度的な問題も考えられる。

 バードは横浜に入港後し函館に着くまでの間、400字詰め原稿用紙にすると1日平均10枚(翻訳文で)を超える文章を残している。凡人には想像できない計り知れない能力の持ち主である。


 榎峠の頂上下の杉林の中には、戊辰戦争で亡くなった戦死者の供養塔がひっそりと眠っている。この供養塔は、弘長寺の63世順誉良成和尚が建てたものである。

  沼〜小国                     

この戦闘で米沢兵の戦死12名、行方不明8名、新政府軍側戦死者1名とある。(関川村史)
8月28日、沼で一軒だけ焼け残った船山久助宅(現当主 稔氏)にて和睦が成立する。

 『玉川の村で馬から下ろされ、米商人が3日間粘ったあげくこのあたりの馬を一頭残らず持っていってしまったと言われました。2時間交渉したすえ、荷物の運搬人ひとりが見つかり、荷物の一部を米用の馬に載せ、荷鞍をつけた馬一頭のかわりに丸々太ったとても小さな雌牛がわたし用に調達されました。この牛はわたしを乗せて雄大な大里の峠(朴ノ木峠)を無事上り下りして、田んぼのなかにある小国の町に着きました。溺れそうなほど雨が降っており、わたしは荷牛がもう一頭見つかるまでおおぜいの人夫とともに囲炉裏のそばで雨宿りできるのがうれしかったものです。』

 梅雨の中での旅であり、バードは日光から青森までの至る所で大雨によって濡れている。
大館では『雨が徐々に衣服にしみとおり(中略)あすの朝はまた濡れた服を着なければならないとわかっているのですから。』と記している。大雨の中、防水紙の合羽という出で立ちのバードは、恐らくここでも着物や編み上げ靴は勿論、身体も濡れて思考力が低下していたことが考えられ、また峠名が入れ替わっている。

 小国町のどこで雨宿りし感激したのか言及していないが、朴ノ木峠の麓で、この後通る高鼻峠の基点である小坂(本町)であろう。この地区は問屋、馬差、宿屋が集中していたが、明治9(1876)年5月に、八木沢近くの3軒を除き家中屋敷手前までの本町通りの両側114棟(小国町誌資料)その2年後のことであり通常の町並みではなかったと思われるが、言及していない。

『やむをえず触れずに終わってしまった重要なことがらは多い。』との記述もある。

  黒沢                     
7月12日 黒沢
  『そのあと田んぼ地帯を歩き、ついでふたたび山に入って黒沢に向かいました。』当時、小国から黒沢へのルートは、@ 高鼻峠〜杉沢・種沢を通り貝淵峠を越えて黒沢に至るルート。
小国〜岩井沢〜町原〜松岡を通り黒沢に至るルート。の二つがあった。
Aのルートである松岡・黒沢間の横川には明治8(1875)年には2代目の橋が架かっており、住民はAのルートを主に使っていたと考えられる。
 バードの記述には『ふたたび山に入って黒沢に』とある。ここでいう「山」とは貝淵峠のことで、@のルートで黒沢に来たことは間違いないと思われる。


   黒沢集落(図53 矢印方向から撮影)
貝淵峠からきた黒沢入り口、右の曲がると村上屋 




  『黒沢で泊まるつもりだったのですが、宿屋が一軒もなく、旅人を泊めてくれる農家はマラリアを多発しそうな池の端にあって』。〔私はそこ(黒沢)に泊まろうと思っていた。しかし宿屋はなく、しかも旅人を泊める農家は、不健康な池の端にあり〕(高梨健吉訳)
 
 黒沢には江戸時代から保科重作(川崎屋)、保科林助(村上屋)、保科義昌(小槌屋)の3軒が宿として営業していた。
 『宿屋が一軒もなく』については、黒沢は間宿であり、旅人の休息・休憩が主で一部宿泊に供することはあっても本宿のように本格的に旅人を泊める宿ではなかったものと思われる。
後述するが本宿である市野々でさえも『不吉そうな農家しか泊まれるところはなかったので』と記している。

 『旅人を泊めてくれる農家はマラリアを多発しそうな池の端にあって』、この情景は当時の村上屋にそのまま一致するもので、この池には「はせ木」の突っ張りや「青苧」などを漬けていたので決してきれいな池ではなかった。『わたしは石に腰を下ろし、一時間あまり人々について考えました。』とある。

 

  市野々                             
市野々の家並(小国の交通)  

イザベラ・バードと十三峠
 これらのことから市野々に連泊したことも考えられるし、この先のバードの日付については明らかに矛盾している部分がある。

 バードが北日本の旅の中で用いた乗り物としては、船・舟、クルマ、馬などであるが、牛を使ったのは十三峠(明確なのは玉川から白子沢間)のみである。
 この地方の牛は小柄だが蹄が丈夫で山道を歩くのに都合がよいといわれている。

『きのう旅した道のりは12時間かかって18マイル(約28.8q)! 市野々はほかの村と同じように養蚕を営んでいる感じのいい勤勉な村で、純白とやや緑がかった黄色のまゆがどこでもむしろに載せて日向で乾かしてあります。』ここでバードは『感じのいい勤勉な村』と褒め称えている。やはり連泊し疲労が回復したのか。

 
  手ノ子                             
 
上山にて
(手紙はつづきでない場合、殆どは月日の後にOOにてと標記しているが上山では月日の記載はない)

月13日 宇津峠、手ノ子

 市野々を出て間もなく『荷を積んだ何百頭もの雌牛に出会いましたが、どれもみな同じように美しい品種で、4頭ずつの列になっていました。』〔4頭ずつ隊をなしていた〕(高梨健吉訳)

 この文章からは横列か縦列か明確ではないが、往時の道幅は部分的には相当広かったものと思われる。それを証明する悪路の改修工事のことが「関川村史」に載っており、1間の道幅を3間に広げ道の両側に側溝をつけ、泥道になる場所には2360枚の石を敷いたことが記されている。

 手ノ子では『ここで伊藤はぞっとする料理を7皿とり』とある。宇津峠の手ノ子側入り口には農業井上源司さんの旧家があった。昭和12、3年頃までもちを作って旅人に出す茶屋をしていたとのことであり(朝日新聞)、伊藤が食べた“ぞっとするもの”とは「納豆もち」ではないかという説がある。

『この家の女性たちはわたしが暑がっているのを知ると、気をきかせてうちわを取り出し、丸1時間わたしをあおいでくれました。代金を聞くと、それはいらないと答え、まったく受け取ろうとしません。』

市野々を出た時点では晴れており、蒸し暑さに我慢しながら馬の背に載り宇津峠を越えたのであろうが、地図にも載っていない十三峠の難所を過ぎた安堵感と、手ノ子の親切な人々に感激したのであろう。

『わたしは日本のことを覚えているかぎり、あなたがたのこともえ忘れませんと心に思うままを言い、彼らの親切心にとても打たれつつ旅を続けました。』と最大の賛辞を惜しまなかった。

  黒川〜沼                     
イザベラ・バード 
 
十三峠の案内 
7月12 市野々

 『不吉そうな農家しか泊まれるところはなかったのですが、』。往時の市野々は宿場であり宿は多くあったはずである。多分暗くなってからの到着であり、他の宿が満杯(蚕も含め)であり一軒しかなかったとの意味でないか。
 
 『二室を残してあとはすべて蚕に占領されていたものの、その二室はとてもいい部屋で、ミニチュアの湖と岩山のような庭に面していました。』











 『馬も牛も手に入らないので、わたしは静かにここですごし、休息がとれるのをかなり喜んでいます。』

 バードが夜八時過ぎ市野々に着いたとして、何も書き物などをしなくとも寝るのは早くて9〜10時頃となる。しかも、市野々出発では『晴天の日朝早く(中略)市野々を発ちました。』とある。更に『夕べの半分は日本の地図があればそれを見たり、宿のあるじや駅逓職員、それに旅行者がいれば旅行者に尋ねてすごしました。』と記している。
 
 新潟を出てからの3日分の手紙の日付が市野々となっている。途中で時々(黒川、沼など)で執筆しながらということも考えられるが、仮に、沼から市野々間部分の執筆を市野々でしたとしても、上述のような過ごし方では難しいボリュウームである。
 また、『昨夜は5人の商人が峠の頂上で激しくあえぎながら休んでいました。』これは12日の黒沢峠ことであるが、昨夜ということは13日に記述したことになるが、市野々出発では『晴天の日朝早く』と記しており、更に繭を日向で乾かしている光景も見ており、休息できるのが有難いとも記しているなど13日の朝早く出発した記述としては不自然である。

 

7月10日 新潟〜黒川〜沼 

 7月10日新潟を小舟で出発し6時間かけて木崎に着く。そこからクルマ(人力車)3台で築地、笠柳、真野、真里、中条と進む。この間は『空気は前より乾燥し心地よくなってきました。』とあるが、中条を過ぎるあたりから霧雨となる。神社の祭りで賑わっている黒川の町を過ぎ、ある一軒の宿に泊まる。



















 



 バードは黒川の神社の祭りと記しているが、現在はこの日(10日)に黒川での祭りはなく、中条の稲荷神社の誤りか。この神社は古道の直ぐ道脇であり、舞台で踊る舞も見えたかと思われる。

 7月11日 黒川〜川口

 『その日わたしたちはクルマで関を通り川口まで来ました。つまり何度か石にどんと当たったり、湿地の縁に出て、降りてくれと言われたり、あるいは荒川の上にある悪名高い馬道では一度に2、3マイル(約3〜5q)歩かされたりしました。荒川の上流では、車夫ふたりでかかっても一台の空のクルマを満足に押したり引いたりはできませんでした。しかもクルマ全体を持ち上げてしばらく運ばなければならないことが頻繁にあったので、川口の村に着いて車夫がもうこれ以上は走れないとわかったときは本当にうれしく思いました。』

関(下関)には豪商農である渡邊三左エ門邸などについては言及していない。ここを通る頃は雨の中で四苦八苦しての旅であり記憶に留める余裕がなかったかも知れない。
『とはいえ、馬が一頭しか調達できず、わたしは最後の旅程を滝のような雨の降るなか、防水紙の合羽というお粗末ないでたちで歩かなければなりませんでした。』
 バードは川口から沼まで調達した馬に荷物を載せ、自分は雨の降る中歩いて鷹巣峠、榎峠を越えることになる。

バードが泊まったといわれる西永十
建物は当時と異なっている

宇津峠部会が整備した「バード遠望地」
からの眺望、バードも眺めたのか

 『宇津の高い峠はいくつもの石段を上り下りしますが、これがぎっしり連なる尾根の最後の峠です。わたしは歓迎してくれるような陽光を浴びたその頂上から雄大な米沢の平野をいそいそと眺めました。この平野は長さが約30マイル(約48q)、幅が10から18マイル(約1629q)あり、日本の庭園のひとつです。』












 今は、木々を伐採し中腹から一部平地を見ることができるようになっているが、頂上近辺から見えるのは山並みのである。ましてバードが通った7月は木の葉が混み合い平野を眺めることは難しい。

バードは「アジア協会紀要」や、その中のダラスの「置賜県収録」を旅中持参し、時折り目を通しながら旅をしているため、平野の大きさや日本庭園のひとつなどの記述はダラスが書いた文章の引用である可能性がある。
 
以下十三峠に関係するバードの記述を記載しますが、時間軸
が前後しますので上のタイトルと一致しない部分があります。
宇津峠部会で整備した「イザベラの道」              
  小松                             
中条(東本町)の稲荷神社   
 舟をロープでつなぐ石として使われた板碑
バードもこの板碑を見て津久茂に渡ったのか
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イザベラ・バードへ  
玉川大橋
月13日 小松

 『宿屋の表はみすぼらしくて期待は持てそうにありませんでしたが、この家を貫いて走っている小川に架かった石橋を渡って裏に行くと、(中略)庭には金魚の泳ぐ大きな池』

バードが泊まった宿は「西永十」といわれている。庭の脇にあった庭石が往時を偲ばせてくれる。















 『日曜日を小松で過ごしましたが、池の蛙が夜鳴いてうるさく、あまり休息とはなりませんでした。(中略)宿のご亭主がわたしを養蚕農家に連れて行ってくれました。』バードは敬虔なクリスチャンであり、この旅中も日曜日は安息日に充てている。小松では養蚕を見学し、その様子や養蚕に関る一連の過程を詳しく記している。

また、小松はバードの紀行文を初めて広く紹介した「日本奥地紀行」(平凡社)著者である高梨健吉氏の故郷である。

『ここではじめてわたしは日本の恐ろしい荷馬に出会いました。』馬が下駄や大勢の人に驚き暴れて綱を切ってしまう。この時、伊藤の馬も同じように後脚で立ち伊藤は地面に落ちている。この他にも同じように、横手では凶暴な馬に出会い『わたしは痛みと怖さでぶるぶる震えていまいました』。

碇ヶ関での記述には、落馬し目から火花が出て、息ができなくなったと記しており、馬には散々な目に遭っているようである。

7月11日 川口〜沼

 『わたしたちはいま日本の中央大山脈のふところにいます。この山脈は900(約1440q)マイルにわたって』奥羽・中央山脈のことをいっているようであるが、いよいよ十三峠越えの始まりです。
 

 
『村落はこれまで見たこともないほど孤立しています。この地域は道路事情が悪いのでほかの地方から遮断されています。(中略)昨夜わたしたちが黒沢(沼)に着いたときは、それがズボンだけに減っていました。(中略)これら山間の村に学校はありません。』

 黒沢は沼の間違いであるが、このあたりから記述の間違いや文脈の乱れが多くなり、疲労困憊によると思われる混乱ぶりが目立ってくる。

 また、『これら山間の村に学校はありません。』と記述しているが、バードは7月29日小繋で、それは間違いであったと記している。現に沼では明治8(1875)年に沼の伊藤惣五郎宅を仮校舎として沼校を開校している。(関川村史)
 
 また、黒沢の子供達は明治8年4月29日に種沢の龍正寺に寺子屋が設置されたため、11人の生徒が貝淵峠を越えて通った。他集落の生徒を含め30人が教育を受けていた。その後、明治12年に分校が建設された。(小国町史)

飯豊の各村でも早いところでは明治6、7年に教育を始めており(飯豊町史)、バードの訂正文は正しいことが分かる。

7月11日 沼泊

  『沼の坂道の下には増水した川が流れ、人々は水が入らないよう家のまわりに土嚢を積んでいます。わたしは濡れて疲れていましたが、一軒の粗末な宿屋の女性は「悪いけれども、ここはとても汚くて、立派なお客様にはとうていふさわしくない」と言うのです。』

 民家の脇には沼川が流れている。現在は大部分が護岸工事されているが、記述の内容は今でも容易に想像できる。

 当時沼には三軒の宿屋があったという。孫惣(まごそう)のノブさん(85歳)は、義母から「昔、髪の毛や目玉の色が違う女がやってきて泊まったんだ。その夜はおっかなくて寝られなかった」とか、「鶏をつぶして喰った」とか聞かされた、と話してくれた。

 ノブさんの本家は当時片倉屋(伊藤家、現在米国に在住)という宿屋を営んでいた。その当時、玉川のジンベから片倉屋に嫁いできたチンさんの話として語り継がれてきたということである。

 車峠では鶏に逃げられ喰い損ねたが、沼では語り継がれている話が本当であれば、日光を発ってから金山で始めて鶏を食べた話は偽りになる。