三つの誓願

純潔

 修道生活をする人は、誓願をたてて、はじめて修道士となります。この制度をつくったのは聖マルチーノです。彼はAD316年頃、ハンガリーの西部地方の異教徒の家に生まれました。成長してローマの兵士になりますが、洗礼を受けてから、兵役を辞退し、フランスのリグジュ近郊で修道生活に入りました。その後、聖ヒラリオの指導を受け、司祭に叙階されて、多くの修道院を創りました。ヨーロッパの修道院、修道生活の基礎を作った人と言えるでしょう。

 誓願の中でも、代表的なのが「純潔」「清貧」「従順」の三つです。

 「純潔」の誓願は、一生涯独身生活を守り、身も心もすべて神の国の建設のために捧げるということです。

 世間の人が、独身の請願をたてる人のことを、こんな甘い目で見ているわけではないということは、私もよくわかっています。いまだに、私が人からよく聞かれることは、「日本へ来てから何年ですか?」「奥さんと子どもさんも一緒ですか?」ということです。結婚していないというと、「ガールフレンドと遊んでいるのでしょう」等々。フロイトも修道生活は、ヒステリックの人を守るためにあると言いました。つまり世の中から逃げて、女性がいないところ、誘惑のないところ、安全なところに隠れるためだ、と。

 宋考えるのは無理もないことと思いますが、そのような見方であれば、純潔の誓願を立てた人は、みじめなものです。神を裏切り、人を裏切り、自分を裏切り、非常に不幸なものになってしまいます。

 イエスさまは、「天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることの出来る人は受け入れなさい」と言われています。

 「天の国のために結婚しない者」とは、純潔の誓願を神への大切な贈り物としたという意味です。

 自分の時間も、身も心も、神の国のために精一杯捧げることであれば、純潔の誓願は、非常にすばらしい力となります。

 マザーテレサは、「貧しい人の中で働いている独身のシスターの姿は、神さまの光の一光線だ」といいました。

 マザーテレサのシスターたちは、若く美しく、いつも笑顔で、死に行く人のそばに付き添い、また捨てられた子どもを抱き、神の姿そのものです。

 そのシスターたちは、愛することを拒むのではなく、愛をより深く、人間の愛を神の愛にまで高めることができている、と私は思います。

 幼稚園の子どもに、「神さまはどこにいるの?」と聞くと、「心の中にいる」と答えてくれます。「じゃ、皆さんがきれいな顔をしているのは、神さまが輝いているからですね」と私は言います。

 一人の子どもは、「うちのママはお化粧しているけど、心の中に神さまがいれば、お化粧しなくてもいいよね」と言ってくれました。

 純潔の誓願を立てた人は、心の中にすばらしい宝物を持っているので、見えない神の姿を、この世に見せるはずだと思います。

清貧

 「清貧」の誓願で一番に思い出されるのは、アッシジの聖フランシスコです。

 彼は、清貧を“いと高き宝”、“聖なる清貧”と清貧の徳を讃えています。

 清貧の誓願によって、修道士は全ての所有権を放棄し、毎日の必要な糧は、労働と祈りと托鉢で得るという生活を営みます。

 聖フランシスコは、労働によって報酬をもらうなら感謝して頂き、もらえない時も感謝して、主の食卓に食べ物をとりに行きなさいといっています。主の食卓とは、托鉢のことです。

 私も18歳の時に托鉢に行ったことがあります。最初は照れくさく、恥ずかしかったのですが、町の人々が修道士の姿を見ると、神の祝福と喜んで、麦やブドウや卵など色々なものをくれることを体験しました。

 所有権を放棄するということの中に、家を持たないということも入ります。

 「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが人の子には枕する所もない」(ルカ9-58)

 このイエスさまの言葉に倣って、聖フランシスコは、決まった住まい、修道院を持たず、あちらの町、こちらの町と、牛や馬と一緒に寝ながら旅をし、神の国の喜びを伝えていました。しかし弟子が増えてきて、そういう生活が不便になってきたのを見兼ねたローマ法王が住むところを提供してくれました。今でもフランシスコ会の修道院は、聖フランシスコの意志を継いで、ローマ法王から借りています。

 清貧はマタイ福音書(19-16〜22)に書かれています。

 「一人の男がイエスに近寄ってきて言った。先生、永遠の生命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。イエズスは言われた。・・・・・・もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから私に従いなさい。」

 聖フランシスコも、これに倣って、自分の持っているものを全て貧しい人に施し、自分の着ていた服さえも脱いで父に返し、司教さまの前で裸になって、“今、完全な神の子になった”と言いました。司教さまは、彼のために古い服を調達し、背中に十字架のしるしをつけ、世界中の人々に平和を告げなさいと言って、彼を送り出しました。

 現代は、お金なしでは生活できない世の中になっていますが、この聖フランシスコの清貧の精神は、現代でも変わりません。

 富も、物も、家も、衣服も、神の国に行くための階段にすればよいのです。お金があっても、なくても平気になるということです。

 「あなたがたに言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。・・・・・・烏(からす)のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが神は烏を養ってくださる。あなたがたは鳥(とり)よりもどれほど価値があることか。・・・・・・」野の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。・・・・・・今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように養ってくださる。ましてあなたがたにはなおさらのことである。・・・・・・ただ、神の国を求めなさい。そうすればこれらのものは与えられる。」(ルカ12-22〜31)

 聖フランシスコは、このイエスさまの言葉を100%信じて、物やお金から完全に心を離して、本当の自由人になりました。

 日本にも良寛さまがいます。彼も何もかも捨てて、自然と共に生活しながら、神との一致を求めるためには、すべての執着を捨てなければならないと悟ったのです。

 現在、およそ3万人のフランシスコ会の修道士、1万人のクララ会の修道女がいます。また300万人の在世フランシスコ会の方がいますが、この精神に惹かれて、フランシスコの弟子として、毎日の生活を送っています。

 私自身も清貧の誓願をたてていますので、修道会から与えられた修道服と、下着などの最低限のもの以外、所有していません。それで十分満足していますし、毎日幸せな気持ちで生活しております。理屈では説明できないことですが、体験してみれば、そのすばらしさに気づかれると思います。

従順

 三つの誓願の中で、私にとって一番難しいのが、従順の誓願です。従うということ。私たち修道士は、院長の命令に従わなければならない。院長の命令は、神の命令です、と信仰上、教えられています。

 「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」

 ここでいう一人の人の不従順とは、アダムのことです(ローマ5-19)。彼は神の信頼を裏切った。結果として不幸になりました。

 一人の従順とは、イエスさまのことです。イエスさまは、ゲッセマネの園で十字架にかけられることを予想し、血の汗を流しましたが、“あなたの御心のままに”と祈り、最期まで従順を貫きました。

 結果として正しい人となりました。

 聖パウロは、“あなたたちは、神に仕えている”といわれました。神は人間を通して望みを伝えます。

 従順の誓願をした私でも、転任する時は、従いたくないこともありました。「○○へ行きなさい」「はい、行きます」と言ったものの、死にたくなったこともありました。信仰の目でみれば、これは神の望みであるということです。

 神の望みならば、どこに置かれても、そこですばらしい業を、神は私を通してなされるに違いない。どこに行っても、神がそこに私を置いてくれるのは、善い事ができるためです。

 従うということは、謙虚な気持ちが必要です。

 この従順の精神を、聖フランシスコは、次の言葉で説明しています。

 “幸せになりたかったら、あなたはしかばねのようになりなさい”

 死体を王様の椅子に座らせても、頭を下げていて、威張らないし、人を軽蔑もしないし、顔の色も変わらない。また王様の椅子から下ろして床に座らせても、文句も言わないし、顔の色も変わらない。トイレの中に置いても、死体は同じ顔の色を保っている。

 つまり従順になって、自分の我を捨てて、自分を完全に神にゆだねなさいと聖フランシスコは言いたかったのです。

 “私”という思いを捨てて、神にまかせるなら、院長の命令によって苦しんだり、腹を立てたりはしないでしょう。

 なかなか簡単には出来ないことですが、信仰を実現するためには、従順の誓願を実践しなければならないと思います。