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Mai☆ちんの秘密


 プロフィールには載っていない、過去の活動などが記されています。


・昔、マイコンクラブ を主宰していたらしい。
 それは、1982年の事 「マイコン」好きの友達とマイコンクラブを創設しました。

その名も「S.K.B.−SOFT」uperindoys−SOFTware[超・親切な少年たち]当時の生徒会長に命名してもらいました。ちなみに私も生徒会の役員をしていました (笑))、マイコン雑誌にメンバー募集の投稿記事を出し全国規模の活動を行っていました。(当時は今のように通信ネットワークが発達してい なかったため、パソコン情報は雑誌を見るかマイコンクラブに加入していないと手に入り難い時代でした。)

 マイコンクラブにもピンからキリまであって、ピ ンなサークルは会報を発行し技術情報(プログラミングテクニックなど)を公開していました。うちは、キリなサークルで、ソフトの交換が主でした。後に会報 を発行するようになりましたが、ゲームの攻略法やゲームの作成方法「ストーリーの考え方」などが中心で、技術的なものと言えば、「アセンブラ言語」講座く らいでした。

 このマイコンクラブは2年としばらく続きました が、主宰の2人が高校受験のため1984年に解散となりました。ちなみに私はマイコンクラブを主宰しているクセしてマイコンは持っていませんでした(すべて、マイコンショップの店頭展示機を利用していた)

※今では「パソコンパーソナルコ ンピュータ)」というのが一般的な呼び方ですが、当時は「マイコン」というのが一般的な呼び方でした(マイクロコ ンピュータを略していたものです、なかにはマイ(My)コンピュータを略していたという説もありました)。

・昔、 コンピュータ関係の仕事をしていたってホント?
 していたというの ではなくて、しています(現在進行形)
1984年に「Polaris soft」を設立しました。といっても中学生だったオ イラに仕事が有るわけではないのですが・・・(笑)。
設立の経緯はこのようなものでした。

 昔、5.25インチのミニフロッピーディスク (最近の方で見たことがあるって人はいないでしょうね(^^;)[写真を参照])を持ち歩く 際に、パッケージの箱のまま持ち歩くというのが普通でした。当時、まだ自分のコンピュータは持っていませんでしたので、マイコンショップの店頭展示機(以 下、「デモ機」と称す)を利用していました。
 そのため、マイコンショップに集まるマイコン小僧軍団の中で箱を取り違えたり、人の 箱を持って行く不埒な輩までいる状態であったため、自分の箱を区別するために何か目印を付ける必要がありました。絵の得意な者は絵を描いたりしていました が当時絵心の無かった自分には字を書くしか方法はありませんでした。

 そこで、自分の名前を書くよりも、いかにもソフ トウェア屋っぽい名前がいいと思い、この「Polaris soft」が誕生しました。

 そして、その後作られるプログラムには、この 「Polaris soft」という文字が記載されるようになりました。

      
    フロッピーディスクのパッケージ        左から 3.5インチ,5.25インチ,8インチのフロッピーディスク   重ねて大きさを比べてみた図
   (Polaris Soft.のロゴが書かれている)            記憶容量は 1.2MB , 320KB , 1.2MB   一番小さな物と一番大きな物が同容量
                                                ※8インチフロッピーは不良になったので「うちわ」代わりにしていた

 ちなみに、3.5インチは「マイクロフロッピーディスク」・5.25インチは「ミニフロッピーディスク」・8イ ンチは「フロッピーディスク」というのが正しい呼び方です。
で、もうひとつ言うと
3.5」とかの意味知ってますか?
最初は、サイズ(単位:インチ) 次が使用面     次が記録密度    最後がトラック数 を表しているのです。
      3.5     1:片面    S:単密度    無し:標準トラック
      5       2:両面    D:倍密度     D:倍トラック
      8               H:高密度  

3.5−2HD(3.5インチ両面高密度倍トラック[3.5inch-Double side High density Double track])となります。
8−1S(8インチ片面単密度[8inch-Single side Single density])のディスクが登場してからいろいろと進化しました。
 

 それから3年経ったある日のこと、データ入力の 仕事が入って来ました。マイコンショップに出入りしていたオイラを見た「とある企業」の人がマイコンショップに立ち寄った際に、デモ機でペコペコとプログ ラムを打ち込んでいたオイラのキー入力の早さを見て、マイコンショップの店員を経由してアルバイトをしないかという話が来ました。これが名前だけのソフト 屋からちゃんとしたソフト屋への転換の始まりでした。

 その後、データ入力だけではなく、システム設計 とプログラム技術を買われ、顧客管理ソフトの受注を受け1万人規模の顧客管理をするシステムを作成しました。しかし、残念なことにこの仕事はほとんどお金 になりませんでした。それは、システム設計からプログラミングまでのすべての行程が、アルバイトの時間給の中に含まれてしまったからでした(^^;)。そ のときにアルバイトを辞めて、別契約すれば良かったのでしょうけどね・・・(^_^)。とはいえ、技術を認めて貰っただけでうれしくてお金云々の問題では ありませんでした。で、その後、自分の作ったプログラムでデータ入力の仕事が楽になったためにクビを切られてしまいましたが(苦笑)。※ 自分で自分をリストラしてしまった(笑)

 その後もポツリポツリと仕事は入ってきました。 小さな商店の売上管理や伝票処理、大きな所では銀行への入金処理などがありました。怪しいものでは、パチスロ機のROMデータ解析とかもありました。大し た収入はありませんでしたけどね(なんせ高校生なんで足下を見られてしまい、市価の半分以下みたいな感じでしたから・・・。まぁ、オイラも¥稼ぐよりは技 術を認められるという方が嬉しかったのでそれで充分だったのですけどね・・・)。

 そして、現在でも仕事はありませんけど 「Polaris soft」は健在しています。最近ですとフリーウェアでパソ通用のログコンバータなどを制作しました。ただ、オイラのパソコン環境が昔 仕様だったのでWindowsに対応していないのが現状で完全に取り残されてしまっているため、新規の開発が進んでいません。現在、操ることのできる言語 が「C」くらいなので、新しい言語に挑戦しています。いずれその言語を使用したソフトウェアが登場してくるかと思います。
 

・昔、 同人活動してたって聞いたけど?
 ふふふ、バレてしまっては仕方な い・・・(笑)。してました(^^;)。
創作系の同人誌を発行していました、そもそもの発端はテレビのドキュメント番組でし た。それを見てから、友人のべんぢゃみん氏(リンクのページを参照)と始めたのでした。といっても、オイラは挿し絵入れたり、編集の仕事がほとんどで、ま ともにものを描いたことはありませんでしたけど(笑)。で、2人から始まったサークル「STUDIOびんぼぉ」は、しだいに勢力を拡大していき、20人を 越える大所帯になりました。が、とある事件(同人誌即売会の主催者と連絡の行き違いで大ゲンカをしてしまい、即売会にエントリーできなくなってしまった)を きっかけにサークル名変更を余儀なくさせられ「桔梗屋企画」となりました。

 そして、同人誌発行だけにとどまらず「CG集」 の作成、「MADテープ」の作成といろいろな分野に進出していきました。その際にも、オイラはほとんど、プログラムとテープの編集の仕事をしていただけで した(笑)。そうこうしているうち、サークル員がぢりぢりになってしまい、いつの間にか消滅してしまい、現在は「名前」だけが残っています。いちおう、休 止中です(笑)



たわ言:
まぁ、人に歴 史有りということで・・・(笑)


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