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Mai☆のPC道[第1話]

ワンボードマイコンとの遭遇

 それは、中学校のクラブ活動で「科学部」に入ったの が始まりであった。
当時、理科の実験が好きで科学部に入部したのであったが、どうも実験的なクラブではなかっ た(笑)
なにをやっているかと言うと、

1.ポリ洗浄ビンを使用したサバイバルゲーム(要はポ リ洗浄ビンを水鉄砲にして相手を撃つ、しかも部員には旧日本陸軍の階級に準拠して階級称が与えられていた)
2.石綿金網とビーカー とシャーレで粉にしたチョークを固めて作るケーキ型チョークやパステルカラーのチョーク制作(黄緑や紫み たいな、今までのチョークに無かった色が作られていた)
3.理科室には定番のテ レビ、これをただひたすら見るという「帰宅部」同然の活動。
4.ワンボードマイコン をとりあえず触る。
というクラブであったのだ(どこが科学部なのだろうか!?と いう内容であった)。

 クラブに置いてあったものは、東京芝浦電気製(現 在の東芝)のワンボードマイコン(EX−80)であった。
もちろん、今のパソコンからはとてもかけ離れた物体である。マザーボードむき出しで、 CRTなどあるわけなくLEDのディスプレイというか、アドレス4セグメントとデータ表示の4セグメントの合計8セグメントの表示があるだけであった。

 もちろん、ハードディスクなんて物はなく、フロッ ピーディスクもない、カセットテープなんてこともないし、紙テープでもない。毎回キーボードからプログラムを入力しなければならないというものであった。 もちろんキーボードは今の109とか106キーボードなどというものではなく、16進キーボードというものであった(16進キーボードとは0〜9とA〜Fの16個のキーと制御系のキー(ENTERやDEL等)があるだけなのだ)

 プログラミング言語は機械語と呼ばれる16進数の コードのかたまりであるため、アセンブリ言語でソースを記述し、ハンドアセンブル(※)によってコンパイルをしなければならないという代物 であった。(※ハンドアセンブルとは、アセンブリから機械語へのコード変換表を見ながら、手 作業でひとつひとつアセンブリの命令を機械語に変換していく作業をいう) こうして、初めてマイコンというものを目にしたのが、今のPC道 の第一歩であった。
 
 

ナイコン街道を進む

 入部して数日後、私は市内の百貨店の文房具と家電売 り場に通うようになった。なぜならばそこにはマイコンの店頭展示機が置いてあり触るのが自由だったからだ。文具売り場にはSHARPのMZ−80B、家電 売り場にはNECのPC−6001とPC−8001があった。

 しかし、この展示機いつでも触れるものではなかった のだ、それはなぜか・・・。

 それは、私と同じように店頭展示機を触るため に訪れる同年代のライバルがいたからだ。まさに、ひとつのエサに群がる蟻の大群みたいなものであった。だから、私は、日曜となるといつも店の開店 前に入口に並び開店を待つ不思議な客となっていた。それこそ、機械から離れようものなら違う誰かが入れ替わっているというのは日常茶飯事であったため、ト イレもいかなくてよいように前日は水分を控えたりしていたものだ。当然当日は水分はおろか朝食と昼食は抜きである。こうしてマシンを死守しないと自分が ゆっくり触ることはできなかったのだ・・・。

 そのうち、ライバル達が死守するマシンはPC− 8001だけへとなっていった。その頃の私はPC−6001専門であったためゆっくりと触れるようになってきたが、次のステップに進むためにはどうしても PC−8001やMZ−80Bに進むことが重要であった。そして、激しい争奪戦に参加せざるを得なくなったのであった。

 ついにいつも触れないというストレスに負けた私は、 別の店を探すことにした。その域に入ってくるとマイコンショップというものがあるという情報を耳にしていた。そこで電話帳をもとにマイコンショップをリス トアップし各店を巡回しマシンが開いている店で1日を過ごすことが多くなっていた。
 しかし、顔が知れる分、早々に締め出されたり、1人あたり1時間という時間制限をかけら れたりするようになり、マイコンショップからも締め出されようとした矢先に1軒のショップで店員と友達になることができた。これは十分なコネであり、私は それ以来、その店に入り浸るようになった。雨の日も、雪の日も、はたまた台風のさなかでも通いつめた。おかげで私は、常に最新のマイコンをいつでも自由に 触れるようになった。だがもちろん条件はある、本当の客がくれば作業を一時中断し機械をあける必要があったのだ。しかし、ライバルからマシンを死守してい た頃に比べればそんなことどうでも良いくらいの事だったので苦にはならなかったが・・・。
 この頃になると、新発売になる機種のスペックはすべて頭に入っており、時には休日の店番 の手伝いをするまでになっていた。自分でPCを1台売ったこともこともある。この時の経験が現在の接客対応の基本にもなっている。

 こうして私は、自分で機械を所有してはいないがマイ コンを操れる者であるナイコン族へと移っていったナイコン族とは、コンピュータを持たないが操作できる人たちを称した表現である)
中学1年から最初のマシンを買うまでの9年間はずっとナイコン族であったのだった。
 
 

ナイコン族からの脱却

 ついに自分もナイコン族とおさらばする日がやってき た、最初に購入したのはNEC PC−9801RX21(CPUは、インテルの80286の12MHz相当 を搭載、メインメモリ640KB)というマシンだった。
使用用途はもっぱらゲームとDTM・・・。なけなしの金をはたいてRolandのCM− 64を購入し、DTMにいそしんだ。
 そういえば、この頃なぜかNEC  PC−8801FAが自分の部屋にあった。本当に「なぜか」という表現がふさわしいマシンなのだ。もともと、そのマシンは通っていたマイコンショップの 店頭展示機だったのだが、あまりにも私が使っていたのが印象深かったのか「これは○○君の!!」ということになってしまい、いつの間にか自分の部屋に運ば れていた。しかも、未だに店からは請求書もこなければ「返しなさい」との連絡もない。こうして私は2台のマシンのオーナーとなっていた(笑)ぉぃぉぃ
 
 

なにをしていたのか

 さて、私はパソコンを何に使っていたのかを振り返っ てみると、最初はまじめにBASIC言語(※)でのプログラミングであった。(※Beginner's All purpose Symbolic Instruction Codeの頭文字を取ったもので初心者用 の言語であり、話し言葉に近いことから非常に覚えやすかった、FORTRANの延長の様な感じである。)
簡単な足し算をひとつしただけでも十分なのである。BASICが解ってくると、今度はPC −6001内臓のPSG音源を利用して音楽をするようになった。

 この頃ある一冊のマイコン雑誌に出会った、これを きっかけにCG作家に転向することとなった、それが「テクノポリス」(徳間書店 刊)であった。知る人は知っているだろうがCGを大々的に取り上げた雑誌であった。

 当時、GV−RAMを直接操作するようなグラフィッ クツールがあるわけでないため、BASICにあったLine文とPaint文を使って絵を描きあげていくのである。もちろん、イメージスキャナというもの があるわけではないので、描いた絵を座標に変換する必要があった。座標を簡単に求められる用紙といって思い付くのは何だろう? みなさんは数学の時間に放 物線などを描いた紙を覚えているであろうか? そう、あのグラフ用紙こそ手軽に座標変換ができる紙であったのだ。私はグラフ用紙にセコセコと素材を描き、 座標を拾っていった。

 Line文とはA点(x1,y1)を始点としてB点 (x2,y2)終点の間に線を引く命令であるので、座標を次々と拾う必要があった。当然、座標を拾うときにポイントを数多く拾わないとギザギザのジャギー だらけの絵になってしまう、かといってデータを拾いすぎるとデータ量は莫大なものになってしまいプログラムエリアに収まらなくなってしまう。
 絵のクオリティーとデータの量は反比例するのであった。現在のように大容量の高速メディ アがあるならばGV−RAMをそっくりそのまま保存しておけば良いのであろうが、当時記録の標準はカセットテープであった。しかもデータの転送速度は 1200ボーが標準(今のモデム以下の速度)であったのだ。
こんなもんでGV−RAMを保存した日にゃ記録だけで30分は確定である。しかも、現在の ようにネットワークがあるわけでもなく、CD−ROMのような製造原価の安い記録媒体があったわけでもないため、少ないデータ量でCGを再現できる Line文によるCGが主流となっていた訳である。
 そのうちに5.25インチのミニフロッピーディスク[2D−320KBが主流であった](ちなみに現在主流の3.5インチのフロッピーディスクは、正式にはマイクロフ ロッピーディスクと言うのだ)が普及し、GV−RAMを直接操作するツール が登場してからはLine文を使ったCGは姿を消していった。
 こうして、しばらくの間はグラフィッカーとして活動をしていた。

 その後、私はまたプログラミングの世界に戻ってい た、それは同人活動の世界に足を踏み入れてしまっていたからである。CG集を出すために、プログラムを組む必要があったのだ。
 内容は簡単なものであったのだがオールアセンブラという条件があった。CG集のエンディ ングに使用するスタッフロールを出すだけの至極簡単なものであったのだが、オールアセンブラというのは非常に厳しいものであった。
なせならば、アセンブラはBASICと違いコンパイラ言語であったからだ、なにかミスがあ ると即、「暴走」、インタープリタ言語に比べてプログラムミスに弱いのだ。
 この頃に、プログラミングで影響を受けたのが、あの森田将棋のプログラマ、森田和郎氏で ある(その当時だと、森田オセロの森田和郎が正しいのだ が、現時点で有名な方とした)。アルゴリズムの鬼と言われた森田氏のプログ ラム技術を真似て作成したプログラムは更にデバッグ作業を難解にしたのであった。自分自身を書き換えながら実行するプログラムや命令のクロック数を極限に まで減らすため代用命令による記述をするために更に難解な物となっていったのだ。
 
 

パソコン通信との出会い

 そうこうしているうちにパソコン通信というものが始 まった、はじめて接続したのはNECのPC−VANであった。
ただ、一般ユーザーとしてではない。まだPC−VANが一般に開放されていないときにPC −VANに接続していた、それも馴染みのマイコンショップでのコネのおかげだ・・・。
 NECは、まず系列のマイコンショップにNEC商品の受注と在庫確認用に回線を開放し た、もちろんBBSなんてものはないしCHATもできない代物であったが、私には通信によるネットワークはこれからのものであることを実感させるもので あった。
 この後、PC−VAN等が一般に普及したが、毎月の通信費用の捻出ができない私はしばら く通信の世界から遠ざかっていた。その後、毎月の費用が捻出できる環境が整ったこともあって通信の世界に復帰した。
復帰先はもちろん草の根ネットである。

 当時、20近いネットに席を置いていたが、ある日を 境にそのネット数は減少した、それはなぜか・・・。自分で草の根ネットの運営を始めたからだ。
当初はネット運営をする予定もなかったのだが、DTMボード新設をめぐって、なかなか設置 を認めない管理グループに痺れを切らし、始めてしまえっ!と始めたのが「なっとうくらぶ」である。
 その後、ボード新設を申請したBBSでもボードが設置された(新設されたボードのサブ ボードオペに任命された)がネットを始めてしまった自分には他のネットのボード管理をしている暇さえなかった。

 パソコン通信によるコミュニケーションは回線を通じ たものだけにはとどまらなかった。
数ヶ月に一度のオフラインミーティングの企画・進行など、オンライン・オフラインで多忙な 日々が続いた。
最盛期には会員数は200名近くに達し、BBS内の書き込みも1日平均200〜300、休 日には1000近い書き込みがあるのもざらであった。すべての書き込みに目を通し、必要なものにはレスポンスを書き込みしていた、その合間をぬってDTM やCGをしていたのだ。
 そうこうしているうちに、SysOpを代行する人物が現れた、オラのホームページ領域ま で侵食してしまうほどのパワーを持つ、藤ノ宮だ(笑)。こうして、BBS機材はおろか電話回線までをすべて無償貸与してBBS運営を引き継いだ。とりあえ ず、彼女はシステム系には詳しくないため、メンテナンスについてSubOpとして残りサポートすることで、私はSysOpという重圧から開放された (笑)。

 しかし、そうこうしているうちにパソコン通信の勢い も陰りが見えてきた。Windowsの普及で、より手軽なGUI環境で取り扱えるインターネットの影響が出始めたのである。1日の書き込みも0件という日 も目立ち始めた。
 今のところ、藤ノ宮にまかせているBBSの運営をやめる予定はない、最後まで生き残った 草の根BBSにでもなってやろうかという気があるからだ(笑)。こうしてこれからも、昔ながらのパソコン通信は続くのであった。(2003.6.28に10年の運用に終止符を打ちました)

PC達の行方

 さて、現在使用している機器達の行方であるが、現在 も現役で稼動しているマシンは少ないのが現実だ。詳しくはMai☆のプロフィールを参照していただければ幸いだが、現在所有しているマシンのうち毎日稼動 しているマシンはわずか3台のみだ。それもすべてノーパソばかりである。
PC−9801NA/CはBBSのアクセス用に、PC−9801NX/CはBBSとして藤 ノ宮のところで、そしてThinPadはインターネット用としてだ。
 あとのデスクトップ機はめったに稼動することはない、CGを書くかMOの整理をするか、 暇つぶしにゲームをするときにしか動かない。MZ−731なんか屋根裏の倉庫にダンボール箱に梱包されたままである。その他のノーパソは、PC− 9801NS/Rが仕事の休憩時間中にパソ通の未読整理に使われるくらいである。あとのPC−9801NS/Eは、RBBSに使用されていたが、周りの局 が代替えルートも確保せずに急にやめてしまったため陸の孤島となってしまい、現在は稼動していない。スタンドアロンで運用するにも近くにNNCがないため 遠いところからの接続はできないため運用できない状態である。

 さて、しかしインターネットアクセスには 486dx2−50MHzというのは非常につらいものがある。このPC道を記述するだけでも3日はかかった。最初からテキストエディタで編集していればこ んな苦労はしなかったのだろうけど(笑)、なんせ、文字を入力し終わったら、打ち込んだ文字列が表示されるという状態で、イライラが募るばかりだ (T_T)へ〜ん。予定としては今後のことも考えてデスクトップ機を製作したいのだが費用の捻出ができないのだ(滅)
 現在、貰い物パーツや掘り出し物パーツで組み立てを行っているがこちらもなかなか進まな い。田舎ではなかなか安いものが出回らないのだ。いらないケースやCPUやマザボ、その他パーツがあったら誰かくれ〜。
こうして、まだまだ続くのであった・・・。

 と書いた矢先(といっても結構後の話しだが)、モバ イルPentiumII−333MHz搭載のノーパソが導入された。SONYのVAIOノートZ505DXである。LAN(100Base−TX)を搭載 し、XGA対応LCD、6.4GBHDDという今までのPCを彷彿する内容の装備である(当然基準はわが家だ(笑))。TP−230Csよりも軽いので持 ち歩いても腕が痺れることはなくなった(笑)。購入後数日で、(激)妖しいマシンに変身したのは言うまでもない。見たい人は、うちのオフ会(オフライン ミーティング[OFM])に来てくれ!。
 

(つづく)

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