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ルジマトフのすべて

2002年7月16日(火)17(水) 新宿文化センター


今回の「放蕩息子」上演は様々な困難を乗り越えて実現されたものだそうです。「放蕩息子」に限らず舞台上演における権利≠ノ係わる問題は、非常に難しいものがあるとは思うのですが、わたしが少し感じたのは、舞台芸術というものをそんなに権利でがんじがらめに縛りつけてはたしていいものか、ということです。芸術の質の保護を目的とした権利が、結果的にはその作品の上演機会を大幅に奪い、観客がその作品に触れる機会を減らすことになっているのではないか?舞台芸術にとってそれが本当にいいことだとは、わたしには到底思えないのです。踊りたいと願うダンサー、見たいと思う観客にもう少し寛容であってもいいのではないか。
とまあ以上は、一観客のたわ言ですので、読み流しておいていただけますようお願いいたします。

 
第1部 

「眠りの森の美女」よりグラン・パ・ド・ドウ
クチュルク ミハリョフ 
 
16日はアダージョで二人の呼吸があっていなくて、なんだかな〜な気分でした。「眠り」は派手なパ・ド・ドウではないので最初のアダージョが命だとわたしは思っています。初日、一演目目、とプレッシャーはあるでしょうが、このお二人もソリスト経験が長くなってきたし、もうそろそろきちんと決めていただきたいものです。 


「ラ・シルフィード」よりグラン・パ・ド・ドウ
シェスタコワ シャドルーヒン レニングラード国立バレエ 

シェスタコワは控え目ではありましたが愛らしいシルフィードでした。シャドルーヒンのジェームズはちょっと足捌きが重かったかな。ブルノンヴィルのあの振付を完璧に踊るのは難しいのでしょうが。 


「海賊」よりグラン・パ・ド・ドウ
ペレン シヴァコフ 

うー、ペレン…。シェスタコワがシルフィードで舞台いっぱい愛らしさを振りまいたあとで、ペレンの無表情はあまりにも不自然で落差を激しく感じてしまいました。踊ることがそんなに楽しくないのかしらと疑ってしまう(違うとは思うけどさ)。反対にシヴァコフはなかなかの出来。ジャンプもピルエットも、えっ?彼ってこんなに踊れたかしら?すごいじゃーん!と嬉しい驚き。シヴァコフの踊りからは、踊っていて楽しいぞーオーラをビシバシ感じました。(ねえ、普通「海賊」ってそういう演目じゃないか)
しかし、残念ながらシヴァコフは初日が一番の出来でして、日を追うごとにお疲れの色が(笑)。っていうか踊らせすぎなのよね。一日に「海賊」と「ドン・キ」のパ・ド・ドウ両方踊らせるってのはどうよ?「記憶のかけら」にもいたし。


「アルビノーニのアダージョ
ルジマトフ

病明けのルジマトフ、なんか、見る前からのドキドキが普段より一層激しかったです(笑)。暗い舞台の上で後ろに立つダンサーに肩をつかまれスポットライトを浴びる最初、ずた袋のようなダブダブ衣装がルジマトフの身体の細さを一層強調して痛々しくも美しかった。お顔も一回り小さくなったように見えました。
若い頃のこの踊りを見た時は、ただ鋭く激しく、そして叩き付けるような憤りとやり場のない怒りを強く感じましたが、今回は違っていました。単純に昔は衣装を脱ぎ捨ててからの激しい踊りが印象的だったのに対し、今回は真中の激しいダンス(ルジマトフ特有の鋭さにはやはり胸をつかれましたが)より最初と最後、後ろに立つ男達に肩をつかまれ、引きずられる踊りとも言えないシーンが非常に心に残りました。最後に再び肩を掴まれるシーンでは、一瞬驚愕の表情を見せます。しかしすぐ後に諦観者のそれへと変化し(その表情のなんと純粋で美しいことか)、身体を男達にゆだねます。ただ、諦め受け入れるのではない、真実を見極め、全てを受け入れることができる強さと潔さをルジマトフのダンスから感じました。今回の「アルビノーニのアダージョ」は静謐で美しいものでした。今再びこの作品を見ることができて本当によかったと思います。(「ばらの精」も今踊るとどんな風なのかちょっと見たかったですけどね〜)

第2部

「春の水」
エフセーエワ マスロボエフ

エフセーエワちゃん、目の上に薄緑のアイシャドーを思いっきりのせてました。そりゃあないだろうと舞台に思いっきり突っ込みをいれました(笑)。多分、水の精(でいいのかどうかはわからないけど)の感じを出したかったのだろうとは思うんだけどさ。そういうのって化粧で表現するものではないでしょう。ロットバルトが悪魔らしく化粧するのとは違うと思うの(笑)。でも踊りは好きなので、これからにいろいろ期待しています。 


「記憶のかけら」
音楽 J・ブレル 振付 N・カバンヤエフ 
ルジマトフ クチュルク ギリョワ コシュビラ プハチョフ シヴァコフ 

新作、モダンというわけで変なのだったらやだな〜、と少し懸念しておりましたが、まあ許せる範囲かな(ってえらそーな)。すごく新味があって衝撃的ってわけではないけれどそれほど悪くもない小品といったところ。シャンソンの歌にのってルジマトフが踊るのを見るのは、ちょっといいかもと思いました。これは、題材的にそれほど軽やかではないけれど(どうやら舞台が病院、精神科病棟?)力を抜き加減で踊っている感じが悪くなかったし、そういう作品がもっと見てみたいなあと思いました。


「白の組曲」より 音楽 ラロ 振付 リファール
ジュド ルブロ 

初見です。ジュド、素晴らしかった。本当にエレガントでした。気品があり流麗。こういうダンスはやっぱり誰にでも踊れるものじゃないです。ジュドのようなダンサーが踊るのであれば、ぜひとも全体を見てみたいです。 


「ドン・キホーテ」 
ステパノワ シヴァコフ 

「レニングラード国立バレエ 華麗なるクラシックバレエ・ハイライト」の方の感想以上に書くことがないので、そちらをご参照ください。


第3部

「放蕩息子」

音楽 プロコフィエフ 振付 バランシン
ルジマトフ マハリナ シードロフ ボルドー・オペラ座バレエ

聖書(ルカ伝「放蕩息子の帰還」)より題材をとった作品。放蕩息子は慈しんでくれる家族のもとから旅立ったが、全てを失い傷ついたはてに家に戻り、父に受け入れられるという物語。

冒頭、父親への反発が描かれる。押さえつけようとする父の大きな手から逃れ出ようとする息子。文字通り頭を押さえつけようとする父から無理やり身体を引き剥がす振付になっていて、ああ、そんなにあなたは外の世界に憧れているのねと息子の気持がよく伝わってくる。ルジマトフの息子は真剣だし、父親を軽んじている風ではもちろんなく、純粋に家を飛び出したがっている。ルジマトフの息子は映像にあるバリシニコフに比べて、あまりにも純粋なイメージが勝っているように見える。バリシニコフにはもともと良い意味での不良少年のような感じがあって、続く放蕩ぶりもよくわかるのだけれど、ルジマトフの場合は放蕩したくて家を出るわけではなく、とにかく一度家族のもとを離れてみたいという若者なら誰でも一度は強烈に感じる思いに従ったのだというふうに見える。父はそんな息子を止めるすべはない。父役のシードロフは重みがあり、息子が旅先で受けるであろう災厄を予見しているかのような雰囲気が秀逸。
二場、息子は連れの二人と酒場で遊んで盛り上がる。この程度で放蕩といえるのかどうか多いに疑問(笑)。続いてシレーンが登場して息子が魅惑されるわけだが、この誘惑するものとされるものの関係が、今回ちょっと緊密さに欠けたかなと少し残念だった。やはり、やや準備不足な感じがしないでもなかった。マハリナにはもっともっと尊大で圧倒的な魅力を感じさせて欲しかったし、ルジマトフももっと翻弄される息子の演技を見せて欲しかった。そう「シェラザード」の二人に比べると物足りなかったというのが正直なところ。多分、ゾベイダに比べてより象徴的なシレーンは、かなり難しい役なのだと思う。しかしこの「放蕩息子」の鍵はシレーンにあるのは間違いがないので、もう少し役を深めて欲しいです。
しかし、最後連れの二人にも裏切られ、身包み剥がされるシーン。いや、こういうところのルジマトフの美しさは罪ですね〜(笑)。縦に長く置いたテーブルに張り付けにされ、顔をそむけ、男達の手がいくつもその身体に伸ばされる(っておっと書いてて、ヤ〇〇小説のワンシーンかよ、と思っちゃった〜、ああ、わけわからない方はすみません、一部わかる方、ウケていただけるとわたし的には嬉しいです、爆)有名なところ。痛々しくも美しい、もっと見ていたいと思わせてしまう。シレーンは張り付けになった息子のところに最後にやってきて、大切な黄金のメダル(これって息子にとって何かの象徴になってるのかな)を奪っていくが、初日はシレーンが来る前、衣装を剥がされるシーンでどうやらこのメダルも取れてしまったようで、ルジマトフの胸には何もなかった。わたしは、ここでシレーンがメダルを奪って行くということを忘れて見ていたので、(マハリナがルジマトフの胸から何やら大事そうなものを奪っていったな、鬼気迫る感じだったから、もしかしたら魂のかけらでも取ったのかしら?)と、後で考えると笑える見方をなんだか自然にしてしまったわけだが、二日目にちゃんとメダルを取っていった時よりも何もなかった初日の方が、迫力があってゾクゾクした。
さて三場。杖をつきながら、ボロを被ってのルジマトフ息子の帰還。一歩進んでは、がくりと膝をつき、力尽きそうになりながら道を辿る。やっとのことでなつかしい家の門を見つけるが、彼の心は恐れおののいているかのよう。とうとう最後の気力も尽き果てて門の前で倒れてしまう。やがて妹達が気がついて、彼を家に入れるが息子は父に許されないのではないかとずっとおののいている。しかし、父は息子を受け入れ許す。
ここでの父は絶対的普遍的な愛を持った人であり、全てを許す人である。題材を取った聖書を読んでいないため意味する教義がわからず(どなたか教えていただけると嬉しいです)だめなのだが、息子は文字通り父の胸へと帰る。ずるずると父の首へと這い登り、縋り付いて身体を丸めてぶら下がる様は、まるで赤ん坊に戻っていくかのようにも見える。傷ついた魂がもう一度そこで生まれ変わるということなのだろうか。本当に小さく見えたルジマトフの丸めた身体を思い浮べていたら、今ふとそんなことを思った。
ルジマトフの「放蕩息子」は純粋な魂が、自由を求め外の世界に飛び出したのはいいけれど、俗なもの悪しきものの洗礼を受け、打ちのめされて父の元へと帰る、というふうで舞台の物語は実際ここまでで終わっているけれども、この息子は今回の放蕩を通して、持ち前の純粋さに強靭さを備えた新たな魂を手に入れるのではないか、と予感させる。それはもしかしたら、彼の人生そのもののようでもあるのかもしれない。

「放蕩息子」に関してはよくよく思い返してみての感想であります。実は初日見終わった後すぐは、あまりピンとこなかったのですよねえ。「うーん…」とか思ってて。しかしいざ感想を書き始めると、もしかしてこういうことなのかも、という新たな発見がいろいろあって、やっぱりルジマトフの舞台感想を書くということは、苦しいけれども楽しいことだわと今回もしみじみ思いました。

追記 父親役がステキだったシードロフさんは、実はわたしがさんざんコケにした「スポーツのワルツ」の振付家なんでした。でもやっぱりあれは認められない〜(笑)。

☆カオル
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