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バレエの美神 『ジゼル』
2003年2月14日(金)〜16日(日) Bunkamura オーチャードホール


指揮 アンドレイ・アニハーノフ レニングラード国立歌劇管弦楽団

「ジゼル」第2幕より
イブリン・ハート ファルフ・ルジマートフ
ハンス:クリギン ミルタ:コロチコワ
レニングラード国立バレエ



何を今更とお思いでしょうが、やっぱり書いておきたくなったので書くことにしました。
今回のこの公演は映像に残っている、という点で舞台だけを観て書いているいつもの感想とは自ずと違うものになります。生の舞台と映像とはかなり隔たりがあるけれども、映像は繰り返し観る度に何らかの新しい発見があるのも事実。やはり映像があるのは嬉しいです。撮ってくれてありがとうNHK。
しかし、生舞台で受けた感動を映像を観ることによって、そのよってきたるところをクリアに解明できたかというと、それはやはり無理な相談だった。所詮映像は映像でしかないのだというそれもまた事実ではありました。

それでは感想まいります。いつものごとく思い入れ&妄想120%以上の文になると思うのでご注意ください。

舞台上手奥のアルブレヒトの出のシーン。暗い中で頭のところがきらりと光りいったい何かしら、と思っていたら帽子をかぶっていたのだった。帽子の装飾が少ないライトに反射して光ったのだ。帽子をかぶったアルブレヒトは、わたしは多分初見である。もしかしたら正装の意味もあるのかもしれない。それにしてもルジマトフの帽子姿の似合うことといったらどうだろう。頭が飛び抜けて小さいからなのかもしれないけれど。冬のレニングラード国立の「ジゼル」でもぜひとも帽子をかぶって欲しい。(うーん、帽子だけでもこんなに語ってしまったのことよ…笑)

百合の花束をかかえ、うつむいて一歩一歩ジゼルの墓に歩いていく姿も本当に美しい。そこだけでも何度でも観たいと思う。いつもはかなわないその思いが、今回可能なのが単純に嬉しい。
帽子をとり、百合の花束を置き、マントをとりジゼルの墓にお祈りをする。幻影のジゼルが現れては消えていくシーン。ルジマトフのアルブレヒトは何度も身体を弓なりに反らせて、右腕を高くあげてジゼルの魂を希求するかのようなポーズをとる。他のアルブレヒトがこんなポーズをとってるのはあまり記憶に無いなと思い、メゼンツェワとザクリンスキーのビデオ(これも大好き!)もついでに見てしまったりしたのだが、やはりそんなポーズはなかった。とするとあれはルジマトフオリジナルなのだろうか。切なくも美しいポーズ。次回もぜひ観てみたいが、相手がイブリンだったから自然とそんなポーズが出てきた、ということも大いに考えられることではある。なんといっても相手役ダンサーに合わせてどんどん踊りを変えていくルジマトフのことだから。

さてイブリンのジゼルだが、登場したときからアルブレヒトを許していたどころかアルブレヒトに対する深い愛に満ちていた。あの小さな身体から発せられた静かなしかし強い愛の情感は、舞台だけにとどまらず客席全てをおおい尽くしていたといっても過言ではないかもしれない。
わたしはあの舞台で、ジゼルとアルブレヒトが寄り添っただけで涙がこぼれるという自分でもびっくりするような体験をしたのだけれど、あれはいったい何だったのだろうか。今でもはっきりとはわからないが、ジゼルの愛がダイレクトに心に響いたからというのは、間違いなく一つの要因だと思う。

しかしルジマトフのアルブレヒトはそんなジゼルを抱き寄せながらも、悔恨に引き裂かれている。ジゼルを死なせてしまったのは、他ならぬ自分。たとえジゼル自身が許してくれても、自分が自分を許すことは金輪際ないこと。ジゼルが自分を許すことで一層自分自身の罪が許せなくなる、ルジマトフのアルブレヒトはそんな風に見える。ジゼルの愛を受け入れないのではなく、何もかも受け入れるからなお一層生きている生身の自分がつらく許せなくなる。ジゼルが自分を生かそうとしてくれている気持ちがわかればわかるほど、どうしていいかわからなくなる。しかしその迷いは表面に現れてはこない。深くアルブレヒトの心の内にあって、彼を支配し続ける。そうして常に愛と悔恨に引き裂かれてあるのだ。

二人が寄り添う姿に涙が出るのは、あるいは、もう二度と現実世界ではそうすることができないからだと思い知らされるからかもしれない。もちろん一番思い知らされているのはアルブレヒトで、その悲しみが伝わったのかもしれない。

わたしが今回このジゼルを観て、思ったことはアルブレヒトは、もしかしたら自分の命乞いをミルタにしているわけじゃないのじゃないか、ということ。それじゃあ、ジゼルのストーリーと違うと言われてしまうが、そう見えたのだ。
ジゼルのお墓参りに来る時点で危険はある程度承知のはず。この舞台に御付の人(名前あるんだっけ?)は出ていないけれど、全幕なら御付の人がお墓参りをするアルブレヒトを止めに来る。「あまりここにいると危険です、早く帰りましょう」と言わんばかりに。でもアルブレヒトは彼を追い返しているではないか。確かにもう少しここにいて、ジゼルを惜しんでいたい、という気持ちなのかもしれないけれど、ウィリに出会って踊り殺されてもいい、とどこかで思っていやしないだろうか。少なくともルジマトフのアルブレヒトはそういう風に見える。
なのでミルタに対するお願いは、自分はどうなってもいいからジゼルを許してやって欲しいというお願いなのではないか。そう、ジゼルは形の上では自分の世界の女王に逆らっていることになる。それがジゼルにとって良いことだとはとても思えない。だからアルブレヒトは懇願する。ジゼルを許してやって欲しいと。

これは映像を見て初めて気がついたことだけれど、ウィリに踊らされて最後の最後に倒れる時、ルジマトフのアルブレヒトは2本の指を天に掲げて誓いのポーズを一瞬とる。えっ!?と思った。舞台を観ていたときは全然気がつかなかったのだ(うーん、どこみてたんだろ、それとも涙で見えなかったのか)。
アルブレヒトはもうあそこの時点で死ぬつもりだったのだ。なのでその前にもう一度ジゼルへの愛を誓ったのだ。ジゼルへの愛は永遠であることをもう一度誓ってアルブレヒトは死んでいこうとしていたのだ。

しかし朝が来て自分は助かった。そして今度こそジゼルとの永遠の別れの時がやってくる。変わらぬ愛を降り注ぎ続けるジゼル。自分が死なせてしまった娘。二度と現実に抱きしめることはできない。ジゼルが去るとアルブレヒトの前には容赦のない現実がやってくる。多分そうしたところでどうしようもないとわかっていて、アルブレヒトはジゼルの墓にとりすがる。今の自分にはそうすることしかできないから。

このジゼルは実はアンコールまでが一つの作品のようになっていて(これも映像を見て思ったことではあるけれど)、アンコールの最初のうちルジマトフはまだまるっきりアルブレヒトのまま、観客に頭を下げている。隣にいるイブリンのジゼルを認識してないようにも見える。2回目か3回目ぐらいでイブリンがルジマトフの両手を取って自分の頭をルジマトフの胸に預けた時、このアルブレヒトはやっと自分のところにジゼルが帰ってきたとわかり、ルジマトフ自身に戻るのだ。そして、ああ、よかったと安堵したように微笑むのだ。

今回の「ジゼル」はイブリンの魂の踊りが、ルジマトフのこのアルブレヒトを引き出させたのだと思う。まさにこの時のこの二人でなければ、成し得なかった舞台。本当に一つの奇跡のようなものだ。だから舞台を観に行くのはやめられない。さあ、また奇跡を目撃しに行かなくては。近い未来にそれはきっと起こるから。
2003/06/28 Sat カオル