新国立バレエ『マノン』全3幕

2003年11月3日(月)
新国立劇場オペラ劇場

音楽 ジュール・マスネ
振付 サー・ケネス・マクミラン
指揮 バリー・ワーズワース 東京フィルハーモニー交響楽団
マノン…クレールマリ・オスタ
デ・グリュー…デニス・マトヴィエンコ
レスコー…小嶋直也
ムッシューG.M.…ゲンナーディ・イリイン
レスコーの恋人…湯川麻美子
看守…イルギス・ガリムーリン
「マノン」全幕の生舞台は初見です。寝室のパ・ド・ドウと沼地のパ・ド・ドウは、世界バレエフェスティバルで観ていました。フェリ&マラーホフ、ギエム&ニコラです。抜粋のパ・ド・ドウを観るたびに、これだけじゃ全然つまらないじゃないか、フェリもギエムも素晴らしいけれど、短すぎるし、踊っていないし(沼地)なんとかしてくれ、といつも思っていました。
後にロイヤル・バレエの映像をみることができたわけですが、うーん、やっぱりわたしの好みのバレエではないな、そうだろうとは思っていたけれど、やっぱり全幕みても好きになれない。というのが率直な感想でした。
「マノン」の対極にあるような、ワイノーネン版「くるみ割り人形」を愛するわたしには、「マノン」をみる目が所詮ないのね、という感じでもありました。
なのに何故、新国立バレエの全幕公演を観に行く気になったのか、新国立ファンには大変失礼ながら、キャンデロロのアイスショーが近い日程であったから、なのでした。地方人としては、一回上京したらなるべく効率よく首都圏でしかみられないものをみたい、という切実な思いがありまして、キャンデロロ公演と新国立公演のどちらか一方しかみられない日程だったら、わたしは上京していなかったわけですね。ようするに新国立バレエは観られればよかったのであって、演目は特になんでもよかったのです。キャストにも全然こだわりがなかったので、仕事との兼ね合いを考えて、仕事をなるべく休まない日程を選択した結果自然に最終日を観る事になったわけです。
しかし結果的にこれが大当たり。目や耳からうろこがたくさん落ちる(笑)大変良い経験をしました。では当日レポです。

ルジマートフ公演とは違うので、いたって普通に会場に向かいます。新国立劇場は二度目ですが、なかなかステキな劇場です。クロークの場所もわかりやすいし(地方からくる大荷物持ちには嬉しい)硝子張りの広い通路も気分いいです。(愛知芸術劇場はクロークの位置が失敗してるからなあ、まったくなんであんなところにあるのか)パンフレットも小型なのがいいです。 
平常な気分で着席、でもやっぱりはじめてみる舞台なので、ワクワクという感じでした。そして音楽が始まります。出だしあたりでおや?と思いました。「マノン」の音楽ってこんなに綺麗な曲だったっけ?なんだかすごく気持ちいいんですけど、今まで世界バレエ・フェスで聴いていた、薄っぺらくてあまり上手くない演奏はなんだったのだろうとこのあたりから、うろこが落ち始めるわけですね。
小嶋さんのレスコー舞台睥睨シーンが終わり、雑踏シーンがはじまります。いろいろ噂には聞いていたけれど、本当に新国立バレエのみなさんが、生き生きと楽しそうに街の人々を演じていて、映像と生舞台はやっぱりまったく別物だということを実感。伝わってくるものの大きさが全然違うのです(当たり前だけれど)。そして実物を目の当たりにしたロイヤルの舞台美術の美しいこと。もちろん御伽噺のように美しいわけではないですが、人間臭いドラマが展開されているのに、セットは美しい。マノンという物語が持つ陰影を反映させたと思われるセット。こういうのこそロイヤル・バレエの真骨頂の一つであり、他のどこのバレエ団も真似できないでしょうね。

さてマノン登場、オスタは持ち味であるコケティッシュな感じがマノンに良く合っていて、なかなか良い登場シーンでした。レスコーとは仲良し兄妹な様子。そして雑踏の中に何気に混ざってくるマトヴィエンコ@神学生デグリュー。本を片手に若々しくて朴訥な様子の彼は、猥雑な雑踏のなかではいかにも目立つ存在。何故デグリューはこんなところに紛れ込んでしまったのでしょうね。来なければ、マノンとも出会わなかったし、神学生として勉学に励みゆくゆくは牧師さまになってまっとうな人生が歩めただろうに。しかし、彼は来てしまった。そしてマノンと会ってしまった。
マノンと出会って、さあどうしたらいいのだろうと彼は考えたに違いないです。この場を逃したら彼女に近づくことは出来ないかもしれない、でマトヴィ@デグリューはわざと彼女にぶつかる、というなんとも不器用なでも効果的な荒業にでるわけです。このあたりからマトヴィの不器用、でも思いはめちゃくちゃ純粋というデグリュー像にやられ始めるのですね(笑)。思いのたけを吐露するようなヴァリエーションも熱っぽく、全身で表現していて素晴らしかったです。少しぐらいふらついてもそれは、マノンへの思いがほとばしってるせい、という良い風に解釈ができてしまうほど。
マノンにとっても彼は非常に新鮮に映ったに違いない、自分の周りにいなかったタイプだし、今まで男にはたくさん言い寄られたけれど、自分から好ましいと思えたのはこの不器用そうなデグリューが初めて、といった感じ。
思えばマノンという女も決して器用な女じゃないわけです。自分が何故か男にもててしまうということは経験上わかっていても、自分からそれを利用しようとすることはない。兄に言われて初めてやってみる、やってみるとなかなか楽しいかも、といったところかな。わたしが観たオスタのマノンはそんな感じにみえました。

2幕のパーティーシーン。小嶋@レスコーのあまりにも上手な踊りに唖然。酔っ払いなのになんて綺麗なダンスか、と思って観ていましたが、小嶋さんに限ってはここのダンス、もしかしたら酔っ払っていないのかもと勘ぐることも可能だなと思いました。ここのレスコーは酔っ払っていてそれをダンスで表現するわけですが、ダンサー本人はもちろん酔っ払ってなどいないわけです。で酔っ払いを演技する。しかし小嶋さんは踊りが上手いので酔いたくても酔えていない人、なのに酔っ払いのふりを無理してする人のようにみえてしまう。うーむむ、こんな文章で言いたいことが伝わっているのか、はなはだ不安ですが、ようするにここでのレスコーが少し寂しそうにみえる、という意見にわたしも賛成なのでした。パーティーというのは華やかさの奥になにかしら、寂しさや悲しさがあるものなのかもしれません。厚木さんの素晴らしいダンスもとてもよかった。しかし彼女は娼婦なわけで、もちろん今の自分の地位にも仕事にも誇りを持ってることはわかるのだけれど、娼婦にならざるを得なかったことをふと考えてしまうと、なんとなく悲しくなる。
こんな考え方は日本人的かもしれませんが、「マノン」という作品が持つ一つの深みだと思ったりするのでした。

さて、デグリューとマノンの愛のゆくえですが、デグリューが看守を殺してしまう時点で、もうどこにも行き場がなくなってしまうわけです。
マノンにしろデグリューにしろお互いを愛すること、それしかできない、それ以外の能力は皆無といってもいいところにわたしは深く感じいりました。特にマトヴィエンコのダンスがそのあたりを説得して余りある素晴らしさでした。愛すれば愛するほど、はたからみている目にはどんどん不幸になっていく。でもそうすることしかできないのだから、デグリューはとにかく愛だけをささげ尽くす。第三者からみて不幸にみえていても、本人は多分不幸ではないのだ、それで結局不幸だと思っていた二人のことが、最後にはうらやましくみえてくるという逆転を引き起こすわけです。
愛する人ときたことも無い恐ろしげな沼地をさまよう、自分は高熱だ、でも目の前にいる人は自分への愛をずーっとささやき続けてくれている、もうすぐ死んでしまうかもしれない身も心もボロボロのわたしに…、どうしてこんなところにいるのか、二人でどこに行こうとしているのか全然わからない、でももういい、わたしにはデグリューがいる、デグリューがいてくれるだけで、最高に幸せ…、マトヴィの渾身の演技を受けてオスタのマノンはこんな感じだったのではないかとわたしは思いました。

そしてこのクライマックスをもう一方でささえてくれたのが、東フィルの素晴らしい演奏でした。あの音楽なくしては、わたしもここまで二人にのめり込めなかったのではないかと思っています。
もちろん新国立バレエの脇を固めるみなさんも素晴らしかった。良い舞台を観たな〜という充実感いっぱいの「マノン」初生舞台観劇でした。

カオル  DATE :: 2003/11/23 Sun