普通ということ
普通とちがう。
娘が食物アレルギーであることで、
「この子は普通とちがう」と思うのは辛いことです。
友達と一緒に遊んでいておやつをシェアできないこと、
友達の食べこぼしや手に残った食べ物のかすを気にして、
ハラハラしながら子供を遊ばせながら、
やっぱりみんなと一緒じゃないことを痛感してしまう。
このときの『普通』って、みんなと一緒という意味なんですね。
やっぱりみんなと一緒じゃないってことを認識すると孤独を感じます。
娘が「ワンワン」と同じくらいに最初に言えた言葉は「いっしょ」。
テレビに写ったんと同じモノを持ってたら嬉しそうにテレビの前まで持ってきて
「いっしょっ」って言う。
私もそういうの、子供のとき、めっちゃ嬉しかった経験がある。
仲良しの友達とお揃いのものを使うとか、
恋人同士がペアルックするとか、
「いっしょ」にはいろんな嬉しい気持ちが共存してる。
なのに「私だけ違う」って思うことはやっぱりしんどい。
私やったら親やから「うちの子が、違う」と思うのが辛い。
子供同士で遊ばせててつるつる肌の子ばかりだと
傷だらけやったりブツブツや赤みがあったりする我が子の違いがよく分かる。
外に出て外食してる親子を見ると、
「普通やったらああやって家族で気軽に外食してたんやろうな」
なんて、やっぱり考えてしまって寂しい気持ちにもなる。
親が辛いんやから、本人が社会生活したら、もっと辛い気持ちになるんやろうとか
考えただけで涙が出そうになる。
最近はファッションとかもみんな一緒で流行ばかり追いかけるとか
携帯やメールばかりして寂しさを紛らわすとか、
そういう「いっしょ」を求める孤独な人が多い世の中なんやと認識してる。
その一方で
娘はアレルギーのおかげで小さいうちは辛い思いをしても、
その分、自分の個性をしっかり自分で認識できる人間になる可能性は
しっかり秘めているんじゃないかって思えるようになった。
人の辛い気持ちなんかを分かってあげられる可能性も
しっかり秘めてるとも。
強いやさしい子になって欲しい。
娘が生まれる前から願っていたこと。
「みんなと違うこと」でその願いに向かって近道ができるかもしれない。
というか、そう思いたい。
そうなるように、手を貸してあげたいと思う。
そして、自分達なりの「普通」を見つけていきたい。
自分が快適と思う、そんな日常を。
2001年12月
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