孤独の正体 


アレルギーが原因で孤独を感じたこと、
今までいっぱいありました。
きっとこれからもあるんやろうとも思います。

一度、考えたんです、何でこんなに孤独なんやろうって。
具体的にどういうことなんやろうって。

「普通ってなんやろう」のところでも書きましたが
アレルギーだと何かと人と「違う」人が多くなってしまいます。
「いっしょ」のいろんな喜びが共有できない。
自分だけが違うという事からくる不安、寂しさ・・。
そして、この気持ちを分かってもらえない・・・・・
そう思うときの孤独感ったら、ない。
追い討ちかけるような外野の言葉
「かわいそう」
「大きくなったら治るんでしょ?」
「そこまでしなきゃいけないの?」
知らんから、そんなこと言うねん、あんたらは。
そう思ってしまって、あとはぐっと我慢する。
我慢が膨らんで、一緒に孤独や不安も膨らむ。
それに、そう言われる事で、
親としての自分が責められているような気持ちにさえ、なってた。

ほんま、こういう気持ちからどうしたら解き放たれるんやろう。
何度もそう思いました。

アレルギーじゃない人が悪いんじゃない。
そんなこと、分かってるから余計に情けなくなったり。

できるだけ冷静になろうとして、とりあえずいろいろ考えてみました。

外野の言葉も気にしないでおこうと思ったって、
気になるときは気になってしまいますもの。
でも、何故かしら持ってしまうコンプレックスは置いておいて、
きちんとアレルギーについて、自分からも話せるようになりたいと思います。
きちんと話したら、分かってくれる人も、いるはず。
そう信じてたら温かい人がいっぱい見えてきました。
今では人の言葉を素直に「心配してくれて有難う」という気持ちで
自然に受け止められるようになって、
気持ちもだいぶかるーくなってきました。

「違う」という事実も、仕方ない。
ほかの人とは違う自分というものをちゃんと意識するのはとても難しいけど、
なんでもみんなと一緒であることも面白くないやんね。
違うもん同士の仲間っているのも、面白くっていけてると思う。
それに、はじめ人と「違う」ことで辛くても、
それによって、自分を確立する時期が早いかもしれない。
全く「いっしょ」がないわけじゃなくて
アレルギーを分かち合える人だっています。

除去食の考え方と一緒で
ないことばかりを悲しむんじゃなくて
代わりのものを捜して見つけられる楽しさ、貴重さを見つめられたら
それだけでもだいぶ孤独は埋まっていくような気がしてます。

「普通」の基準なんて、人それぞれ。
「いっしょ」だってそうやと思う。
梨奈の「普通」は
梨奈にとってなにより快適なものであって欲しい。
そして何が快適かを最終的に決めるのは梨奈自身だけど
身体や心が快適な状態を
「いっしょ」のために梨奈自身で崩して欲しくないとは思います。

難しいことは山積み。
何一つはっきりしていることはない。
まあ、人生ってこんなもんかな、とも思うけど。

理想を書いてみたところで時間はかかる。
自分で割り切ることもそうやし、
まわりに分かってもらう事だって、簡単じゃない、
でも、分かってくれる人は絶対にいると思うねん。

人は一人じゃ生きていけないってことは、ほんまやと思う。
孤独な状態なんて、すごくあかん状態やと思う。
ただでさえ心が崩れそうなものを抱え込んでいるならなおさら
孤独であってはあかん。

だから、食べ物とか、スキンケアとか、
そういうのもやらなあかんと思うけど、
常に心の中のケアのこと、家族みんなで考えていきたい。
そして寂しくないように、楽しく暮らせるように
どう考えて行動していけばいいか、
一生懸命、考えていきたいと思います。

どうか、梨奈がたくさんの友達や愛に囲まれて暮らせますように。

2002年2月


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