第二章 LIONSの生い立ち


 1951年4月 LIONSは東京・池袋に生まれた。4人兄弟の末っ子である。10歳違いの"おねえちゃん"、8歳上の"あんちゃん"、そして3つ上の"おにいちゃん"、我が家では全てが"ちゃん"である。
 亡くなって久しい俳優・多々良純さんのお母さんに取り上げられたそうだ。

 あんちゃんは歌手・橋幸夫さんと同級生で、橋さんがブレイクした時には雑誌社が家にインタビューに来た。家の前が小学校である。おとうちゃんは寿司職人で、運動会・遠足といえば弁当は決まって自慢の海苔巻きの折り詰めであった。

 家の前から富士山が見える。昭和30年当時、付近には畑や空き地がたくさんあり、また立教大学が間近で遊び場には事欠かなかった。

  広場に穴を掘った。
  頑張って大きい穴を掘った。
  ・・・落とそうと思った。
 普段一緒に遊ばない子を呼びに行った・・・。

  広場に土俵を作った。
  四角く掘って中央に盛った。
 相撲を取った。投げ飛ばされた。

  工事現場にコンクリ工事に使う板が山積みになっていた。
  真ん中をくり抜いた。
 夜、懐中電灯とお菓子を持って集まった。

  立教大学の授業を窓から覗いた。
  先生の目が光った。
  長島選手、杉浦投手の時代、立教が東京六大学リーグで優勝した。
 提灯行列に出かけた。

 馬術部の連中が馬に乗って家の前を通る。決まって糞が山盛りだ。

  5円払って国電のキップを買った。
  池袋から山手線の外回りに乗った。
 隣の目白駅まで1時間の電車旅行だ。

  デパートに預けてあるおもちゃで遊んだ。
  西武デパートの屋上はヘリポートになっていた。
 乗ることは出来なかったが。

 まぁ、LIONSは、こんな幼少時代を送ったのである。

 家の前から見える富士山の下半分を隠しているのが中学校である。陸上部で長距離をやった。軽快車という自転車を買って貰った。ドロップハンドルの3段ギア付だ。当時はまだ珍しい自慢の自転車だった。

 高校時代はサイクリング、山歩き、キャンプに励んだ。自転車で甲州街道をひた走り、高尾山付近の大垂水峠を越えて相模湖まで行った。
 深夜2時に出発して葉山まで泳ぎに行った。新宿三丁目の交差点で信号待ちをした時、交番のお巡りさんに職務質問をされた。「こんな遅く何処行くの」(自分では「こんなに早く」と思っている)

 東京の奥座敷・奥多摩は私の庭である。いつも4時22分・池袋始発の山手線に乗って新宿に向かった。
青梅線終点の奥多摩駅(当時は氷川駅)近くの農家の庭先から尾根に取り付く。
 丹沢山塊はちょっと遠い離宮である。冬の何十日も雨のない時期に歩いた。水場が枯れていた。塔ノ岳山頂の小屋で水請いしたが、貴重品は簡単にくれない。布バケツとハンマーを借りて沢の氷を取りに行った。バケツ一杯の氷で水筒一杯の水をくれる。
 厚さ20センチはあろうかという氷である。ハンマーが弾き返された。躍起になって我を忘れたその時、足だけが勝手に崖下を目指した。両手両足を跳ね上げた無様な格好でどれ程滑ったであろうか。友人は「もうダメか」と思ったそうだ。
 水は貴重で大変旨いものである。

 大人になった。自分ではそう思っていた。自動車を買った。友人の家業が車の何でも屋さん、新車、中古車、板金、修理、点検、保険もどうぞ。程度の良い中古のコロナセダンであった。いいのが出たから見に来い。と言われ見に行ったら乗って帰れと言う。
 家に電話した。今から車を持って帰るから・・・。驚いたのはおかあちゃんだ。翌日にはブロック塀を壊して何とか駐車スペースが出来た。
 半年後、11万円で買ったコロナを13万円で下取りに新車のカリーナセダンを買った。友人3人組みで遠くに行こうと決めた。候補地は伊勢・伊良湖周遊。
 当時、文通していたお嬢さんに話した。名古屋を素通りしてはいけないと言う。両親の了解を貰ったので泊まっていけと言う。
泊めて貰った。
 21時、国道1号線を西に向かった。平塚あたりのボーリング場と静岡付近で迷い込んだ石垣いちごのある海岸で休憩した。名古屋には朝の5時に着いた。まだ早かろうと近くの河原に車を乗り入れ居眠りした。
 この時お世話になったお嬢さんは、今もめしの世話をしてくれる。