第三章 LIONSの“音楽の歴史”


 そもそも歌好きな家族に囲まれて育ったLIONS。物心ついた時には牛乳瓶の口に向かって歌っていたようだ。テレビの無い時代のこと、ラジオからはいわゆる“流行歌”が一日中流れていたのだが、その中に、私の「音楽の歴史」を語る上でどうしても避けられない歌手がいた。

 5歳のころから母と姉が藤島桓夫さん(下注)の応援を始め、内幸町のNHKホール(当時)、ニッポン放送、文化放送のスタジオなどをよく訪れた。今のような立派なホールが無い時代で、地方でのリサイタルは街の映画館である。2本立ての映画(1本は藤島さん主演のいわゆる「歌謡映画」)を観たあとコンサートがあり、ヘンリーバンド・プレイならぬマネージャーやお付きの“ボーヤ”も熱演の寸劇があったものだ。
 玉置弘さんの『一週間のご無沙汰でした』で有名な「ロッテ歌のアルバム」は、代々木・山野ホールがメイン会場でよく出かけたし、レコーディングでは首相官邸近くのアオイスタジオ(当時)に何度かお邪魔している。藤島桓夫さんはファンを大変気遣う方で、いつも親子3人で出かける私たちに優しく接してくれた。楽屋を訪れるのは毎度のことで、雨の日などは最寄り駅まで車(日本車初の“2つ目セドリック)で送ってくれたりもした。「ファンの集い」では藤島さんに抱っこされて集合写真に納まっている。そして中野のご自宅には何度となくご招待いただいたものである。
 94年、藤島さんが病に倒れたあと銀座のギャラリーで遺作となった絵画を展示した際、私42歳の時であるが、ちょうど訪れた織井茂子さん(「君の名は」、「黒百合の歌」など)と昼食を共にするチャンスに恵まれた。歌も声も素晴らしい、まさに子供の頃から好きだった方であり大変ラッキーな出来事であった。
 要するに私の音楽の歴史は好むと好まざるとに関わらず、兎に角「歌謡曲」からスタートしたのである。

 小学上級生の頃になるとラジオからはテンポの良い、私には意味不明な歌が盛んに流れるようになった。やぁ!やぁ!やぁ!…。そう、ビートルズがやって来たのである。耳から入ったそのメロディはつい口から出てしまう。そんな心地よい旋律を持っていた。
 中学生になると国内では俳優・加山雄三さんが「歌手」としてブレイク。音楽好きの我が家には早速ギターやらウクレレやらが用意された。このあたりは末っ子の特権で、兄貴が買って来たものを有り難く使わせてもらうのであった。
 66629日、THE BEATLES来日。3日間5公演の武道館ライブに25,000人動員(アリーナ席は用意されなかった)。ところが、今になって聞くとテレビ中継を見た人は意外と少ない。皆さんはご覧になられたろうか?僅か30分のステージであった。当時、長髪が不潔とかエレキ・ギターは不良だとか、世の中では討論会まで開かれたご時勢であるが、我が家では家族揃ってテレビ中継を楽しんだものだ。良い家庭に生まれたと感謝である。
 そのビートルズが来日した中学3年の年末、たまたま見たテレビ番組「BEAT POPS」(フジTV、土曜日夕刻放送)で66年の年間順位を発表していた。1位はこの年に来日しているTHE BEATLESの「ミッシェル」であったが、その前に流れた2位の「黒くぬれ!」を聴いた時、『外国には凄い奴がいるもんだ』と文明開化のようなショックであった。ここからTHE ROLLING STONESを中心とした洋楽にハマリ込んで行くのである。

 何年か前のこと。ラジオ番組でTHE ALFEEの坂崎氏が「マミー・ブルー」を聞きたいけど『廃盤で手に入らない。お持ちの方があればもう一度聞きたい。』と話されたそうで、カミさんが「ある?」と…。勿論ありますよ!早速、ラジオ局に送付したのである。この当時(6770年)は、ベスト20のシングル盤をすべて揃えるのが楽しみで、小遣いはほとんどレコード盤に変わっていたのである。
 一方、私はシンセサイザーなどの電子楽器を嫌い、ビートルズ解散後に増殖した新しい音楽(テクノ・ポップ)などで、好んで聴いたものはまったく無い。そしてこの頃から不思議な魅力に取り付かれたのが吉田拓郎さんであり、友人が好んで聴いた“かぐや姫”であった。五輪真弓さんの歌のうまさ、そして声。中島みゆきさんファンから「暗いね〜」と言われながらもほとんどのアルバムを購入して聴いたものである。娘が小学生の時に「恋人よ」を歌っていて愕然としたものだが、車で聴いていたカセットテープを覚えてしまったようだ。
 2006年、吉田拓郎さん、かぐや姫の静岡・つま恋ライブには8枚のチケットを取ったと言う仲間に誘われたのだが、当日は夜勤。代わってもらえないこともないが、翌日の日曜日は真梨子さんのコンサートなのであった。その拓郎バンドのギタリストは元ヘンリーバンドの古川望さんで、この辺にも何かの因縁を感じるのである。
 加川良さんのアルバムも結構所持している。あの詩的な「下宿屋」にはかなり感動したものだ。最近のフォーク番組では懐かしく拝見した。小松崎さんが参加された05126日“高橋のぶとEndless Line”のライブが原宿Blue Jay Wayであったが、観客(応援)に加川さんの顔があり、終演後「加川さんですか?」と恐る恐る声を掛けると「そうです!」とあの声で明るく答え、手を差し延べてくれた。これも忘れられない一幕である。
 癒し系も好んで聴き、宗次郎さんのオカリナにはかなり…。コンサートにも出かけたことがある。ここでは、ヘンリーバンドの2代前のドラマー・松藤さんがパーカッションで出演されていた。小松崎さんの“癒し系”オリジナル・アルバムも揃っているし、ライブには可能な限り応援に出掛けている。

 その昔、カミさんの実家がある名古屋への道のり、東名高速で横に大きく「THE ALFEE」と書かれた真っ黒い大型トラックを見た。「あっ、アルフィーだ!」と言う私に「な〜に?知ってるの?」と、のたまったカミさん。それが今では大変なTHE ALFEEファンとなり、コンサート・チケットの確保に躍起となっているのだが、こんなカミさんなので私のマリーズツアーは極々安泰なのである。そもそも当時のアルフィーはフォーク系グループで、私が好きだったのである。
 17歳前後にはGS(グループサウンズ)の真似事も経験している。その名は“THE 2nd KISS”。ロックの有名グループ、KISS74年デビュー。こちらは60年代の話なのである。スパイダーズ、タイガース、ジャガーズ…。バンドの名前を決めるとき、メンバーがちょっと変わった「キッス」を提案したのだが却下され、もうちょっと捻って「セカンド」を付けたのであった。東京・三田、慶応大学近くのメンバー自宅で練習した。周りがお墓であったのが好都合である。
 20歳を過ぎてからは吉田拓郎さんに影響され、何処にでもギターを持って出かけるようになった。ブルース・ハープを咥えてギターの弾き語りにはまったのである。
 その後は、「第一章 LIONSの"真梨子さん応援ツアー"の歴史」に記した通り、もう真梨子さんのコンサートに出かけることだけが生き甲斐なのである。

 織井茂子さん、藤島桓夫さん、五輪真弓さん、そして橋真梨子さん。共通項は歌のうまさと魅力たっぷりの声…ということになる。いつか皆さんに話したことがあるが、音楽に関しては橋真梨子さんが「私の終着駅」であると言い放っている。もう他の歌手のファンに“なれる”自信が無いのである。



(注) 【藤島桓夫(ふじしま たけお)】 50年「あゝ東京へ汽車は行く」でデビュー。54年「初めて来た港」〜「かえりの港」〜「さよなら港」〜57「また来た港」までマドロス姿で歌う港シリーズを。その後も、「お月さん今晩は」(57年)、「月の法善寺横町」(60年)などが大ヒット。お茶漬け(関西では“おぶづけ”)が好きだと言うオブさんの愛称で親しまれ、94年に勲四等瑞宝章受章。同年、高血圧性脳出血で若くして惜しまれつつ亡くなった