発行所:聞光寺発行人:釋温成寺報

第85号 2014/4/1発行

第84号

如来法中無有選択吉日良辰 如来の法の中に吉日り良辰を選ぶことなし

私の生き方は

東日本大震災から3年が経ちましたけれど、復興による明るさはあまり感じられません。

そんな状況なのに、6年後の東京オリンピック・パラリンピック開幕に向けての計画が大きく叫ばれるようになっています。

東日本復興は、応援歌は聞こえるけれども応援団は背中を向けて6年後の東京を食い物にして太ろうとしているように感じられてなりません。復興のお金はどこで使われているのでしょうか。

まだ、もしもの時の備えも美しい海の日本をなくして、経済を大きくする為だけに高い堤防を作り復興資金が使われている。

20メートルの高さの堤防をだれが喜ぶのですか。

たくさんの危険なごみを捨てなければならないゴミ箱が用意されないのに、引き続きゴミを出そうとすることが、美しい日本を作ることになるのでしょうか。

経済が大切なのはわかるけれど、皆が仲良くできない経済活動ならば早く止めたほうがいいのではないでしょうか。

日本食が世界文化遺産になったのは、仏教を中心に凡夫が娑婆を生きてゆく為に、長い時間をかけて、皆で仲良くしてゆく為に、長い時間をかけて、皆で仲良くしてゆく知恵から生まれた食文化が、世界の人達に感動を与えていた事の証明ではないでしょうか。

反対に最近おかしく思うことがあります。それは、全国的に「家族葬」が流行ってきている事なのです。

家族だけで大切な亡き人と最後の時を過ごして終わりにする事は、亡き人との最後の別れとするならば、亡き人に失礼に当たるのではないでしょうか。

亡き人が大切ならば、その大切な人がどんなご縁をもって生きてきたのか、そしてそこで生まれた心で私達を包んで下さった事を思う時、亡き人と最後の別れをしたいと思っておられる方々が沢山おられるし、亡き人自身が会いたいと思っておられるであろう事を考えなくてはならないのでしょうか。

葬儀の大きさに関係なく、大切な人が亡くなられた事を皆に知らせる事が大切な事ではないでしょうか。

現代の私達の周りでは、命を軽んじているように簡単に人を殺そうとする事件が毎日のように起きておりますが、身に降りかからないので、自身の問題になってこないのは何故なのでしょうか。

大切な人達の最後の姿(死)に出会うことをしなくなってきていることや、私に命を下さった亡き父母や祖父母と出会う時間を持たなくなってきた事が、他の命はもちろんの事、自身の命さえもおろそかにしているように思われます。

現代の家族構成が、少子化もあって小さな単位であり、グローバル化しているので親・子・孫がめったに交わらないような生活の為、命の歴史や尊さが見えなくなっているのではないでしょうか。

昔のような大所帯では、嫌な事も沢山あるだろうけれども、それ以上に自分では感じられなかった多くのことを、教えて頂く事ができると思います。

まずは、亡き父母や先祖様を、そして自分の身のまわりの、親子兄弟そして親戚との関係を大慈にする事を考えましょう。

そして、地域の人達とも声を掛け合える間柄になる事はもちろんですが、地域のいたずらっこでも注意をする事が出来るような関係を、あらためて作り出すように考えなければならないのではないでしょうか。

本当は、世界中の人と仲良くならなければ意味はないのですが、まずご縁の大きいところから始めましょう。

聞光寺親睦旅行

東日本大震災の状況は、3年前から復興されてゆく状況を映像などで見ていますが、実際に全体を見ることがありませんでしたし、今そこで頑張っておられる人のお話を直接聞く機会もなかったのではないでしょうか。

中越・中越沖地震を経験して、頑張って立ち上がってきた私達が、今度は応援団として、何ができるかを見聞きしようと思い東北への親睦旅行を考えました。

福島・二本松の真行寺様において、ご住職より福島の現況等のお話しをお願いし、三陸では、津波災害の現地で震災の語り部をされておられる方から、お話しを聞きながら見学等をする計画を立てました。

暑くなるまでの爽やかな時に、少し楽しい時間を作りませんか?

たくさんの方のご参加をお待ちしております。

詳しい日程等については参加申し込みのついた別紙をお読みください。

※詳細はこちらをごらんください >>

亡き人が働いている

最近90歳以上のお年寄りのご葬儀が多くなりました。

100歳の大台は、人間にとって難しい事なのでしょうね。

そんなご葬儀の中で、よく聞こえてくる会話があります。それは

「よくあうようになったなぁ。黒い服の着ている時ばっかりだよなぁ。」

黒い服であっても、ご縁の深い人達と会えるのだから喜ばなくてはならないでしょう。

普段でも親睦をはからなければならない関係なのに、日々の生活の中でお粗末にしてきていた事を、大切な人の死によって、ご縁深き人たちが集まられ、親睦が深められる事の有難さを噛みしめる時間として大切にしたいものです。

また、亡くなられてもなお私にまでなってきて下さって、現に働いて下さっておられる事を感謝しつつ、我が命も同じ質を持った命である事を見つめる機会にもしていかなければならないのでしょう。

編集後記

1年を通して沢山の色々な行事が柏崎刈羽の真宗寺院にはありますが、どのお寺も参詣や参加者が少なく、どうしたら皆さんが足を運んで下さるか思案しておられます。

いろいろな楽しみが多くある現代では、お寺には喜べる事がなくなってしまったのでしょうか。

いや無くなったのではなく、皆さんに伝える方法が変わってしまい、その方法を探しているのです。

もう少し長い目で見るように、我慢して足を運んでください。

合掌