心を養う

FEEDING THE MIND

ルイス・キャロル Lewis Carroll

石波杏訳 Kyo Ishinami





 本を「心の栄養」にたとえた読書論です。講演の原稿として書かれました。「本をたくさん読みましょう」という月並みなお説教ではなく、「心の暴飲暴食」に注意して一冊一冊をきちんと消化することの大切さが説かれています。(訳者より)




 朝食、昼食、夕食。極端な場合なら、朝食、昼食、夕食、お茶、夜食、そして寝る前には温かい飲み物を一杯。こんなに大切に養われているなんて、体は幸せです! 同じようなことを、誰が心のためにしているでしょうか。どうしてこんなに違うのでしょうか。心と体、そんなにも体のほうが大事なのでしょうか。
 決してそんなことはありません。しかし、生きるということは、体を養うことにかかっています。私たちは、たとえ心が完全に腹ぺこ状態で放置されていても、動物としては生きていけるのです(人としてはともかく)。だから、もし体が全く放置されている場合、不快や苦痛といったひどい結果が生じて、私たちはすぐ自分の義務を思い出すようになっています。それが自然の定めです。さらに、生きる上で必要な機能のうちいくつかについては、選択の余地を残さずに、自然が全部やってくれます。もし私たちが消化や血液循環を自分で管理していたら、多くの人が大変な目にあうでしょう。「しまった!」誰かが叫びます。「今朝は心臓のねじ巻きを忘れていた! この三時間止まったままだった!」なんて。一方では友達が言います。「今日の午後は君と散歩には行けないよ。少なくとも十一回分、ご飯を消化しなくちゃ。忙しくて先週から延ばし延ばしにしていたら、医者から言われたんだ、これ以上ためておいたらどうなっても知らないぞ、って。」
 さて、体を放置すると、その結果は明らかに、目に見えたり感じられたりします。もしも、心についても同じように見たり触ったりできるとしたら、一部の人にとっては望ましいのかもしれません。そして、そう、医者に診せて脈を取ってもらえるとしたら。
「おや、最近この心はどうしたんだろうね。どういう栄養を与えているんだ? 青ざめて見えるし、脈もずいぶん遅い。」
「ええとですね、先生、最近はきちんとした食べ物を取ってないんです。昨日は砂糖菓子をたくさんあげました。」
「砂糖菓子! どんな種類の?」
「ええと、なぞなぞをひと袋です。」
「やれやれ、思った通りだ。では覚えておきなさい。そんな馬鹿げたことを続けていたら、歯を全部だめにしてしまって、精神的な消化不良で寝込むことになるぞ。何日かは最も易しい読み物以外食べてはいけない。大事にしなさい。小説はもってのほかだ!」

 体に食べ物や薬を与える上で、多くの人が色々な苦労を重ねてきました。それならば、そのときのルールを、心にもあてはめてみる価値があるのではないでしょうか。
 まずは、心にとって適切な種類の食べ物を与えることから始めましょう。体に合うか合わないかは、経験からすぐに学べますから、美味しそうなプディングやパイを我慢するのはさほど難しくありません。記憶のなかでそういう食べ物と消化不良の不快な症状とが結びついていれば、それらの名前を聞いただけで、大黄ダイオウとか酸化マグネシウムとかの胃薬を思い出さずにはいられなくなるのです。ところが、私たちが読みたがる文章の一部が消化に悪いということを理解するには、とても多くの経験が必要です。健康によくない小説を何度も何度も食べて、そのたび必ず起こるのが、気力の衰弱、仕事へのやる気喪失、生きることへの疲れ。それらは、心の見る悪夢によるのです。
 次に、健康によい食べ物を適切な量だけ与えることを心がけなくてはなりません。心の暴飲暴食、つまり読み過ぎは、危険な習慣です。消化力を弱めますし、食欲がなくなることもあるからです。ご存知の通り、パンはおいしくて健康にもよい食べ物ですが、一度に食パンを二きんも三斤も食べようとする人はいませんよね。
 ある医者が、単なる食べすぎと運動不足の患者に対してこんなことを言っていました。「栄養過剰摂取の初発症状は、脂肪組織の沈着である」。この長ったらしい大層な言葉が、増えていく脂肪の重荷を抱えた不健康な男を大いに励ましたことは、間違いありません。
 現実に、いわば「心の肥満」とでも言うべきものが、存在するのではないでしょうか。私は実際、そういう人に一度や二度会ったことがあるように思えるのです。太った心は、ゆったり歩きの会話にさえついていけず、怪我が怖くて論理の垣根を飛び越えることもできず、いつも狭い議論にはまり込んで身動きが取れません。要するに、ただ世の中をよたよた歩いていく以外何もできないほどに、無力なのです。

 さて、当然ながら、健康によい物で適切な量であっても、一度に食べる種類が多すぎるのはいけません。のどが渇いた人に、ビールかリンゴ酒、あるいは冷めた紅茶でもいいでしょう、一クォート差し出してみなさい。きっと感謝されるはずです(冷めた紅茶はそれほどでもないかもしれませんが)。でも、もしあなたが、ビールをコップ一杯、リンゴ酒をコップ一杯、そして冷めた紅茶を一杯、熱い紅茶を一杯、コーヒーを一杯、ココアを一杯、同じように、牛乳、水、ブランデーの水割り、バターミルク、これらを全部お盆に載せて出したら、出された彼はいったいどんな気分になるでしょうか。量を合計すれば同じ一クォートになるかもしれませんが、のどの渇いた干し草農家にとって、それは同じことだと言えるでしょうか。

 ここまでで私たちは、心の食べ物について、種類・量・バラエティの問題を片づけました。残っているのは、食事と食事の間に適切な間隔を置かねばならないということ、そして、きちんと食べ物を消化するためには、よく噛まずに慌てて飲み込んではいけないということです。どちらも体を養うときのルールですが、心にもそのままあてはまるのです。
 まずは間隔について。間隔が絶対に必要という点では体と同様ですが、唯一違うのは、体が次の食事を取るまでに三〜四時間の休憩を要するのに対して、心は多くの場合三〜四分でよい、という点です。必要な間隔は、ふつう考えられているものよりずっと少ないと私は思っています。さらに、ひとつのテーマについて何時間も考え続けなければならない方に、私の経験からぜひおすすめしたいのは、休憩を取ってみるということです。例えば一時間ごとに五分だけ考えるのをやめ、その五分間は完全に気持ちを切り替えることにして、全く違うことに心を向けるのです。その短い時間の休憩で、心は驚くほどエネルギーと柔軟性とを取り戻します。
 次に、食べ物をよく噛むことについて。これに対応する心の作用は、単に、読んだものについて考えるということです。これは心にとって、作者が書いた内容をただ受け身で取り入れるよりもずっと大変な仕事です。とても大変な仕事ですから、詩人のコールリッジが言うように、心はしばしばそんな厄介ごとを「怒りと共に拒絶」します。とても大変なので私たちはそれをすっかり放棄して、既に溜まっている未消化物の上に新たな食べ物を注ぎ込み続け、とうとう心は不幸にもその洪水ですっかり沈没してしまうのです。しかし、大変な仕事ほど大きな価値がありますし、間違いなく、大きな成果を得られるものです。あるテーマについてしっかりと考える一時間は、ただ読むだけの二〜三時間と同じくらいの価値があるのです(考えるための機会としては、独りで散歩するのも良いですね)。さらに、ちょっと考えて頂きたいのは、読んだ本をきちんと消化することのもう一つの効果です。心の中のテーマを整理して、いわば「ラベル貼り」をしておくことで、必要なときにすぐ参照できるようになるのです。サム・スリックは、その生涯にいくつかの外国語を学んだものの、どういうわけか心の中で「一つ一つを分別しておけなかった」そうです。本から本へと、消化や整理を待つことなしに慌てて読み進む多くの心は、そういう状態に陥ってしまいます。そして不幸なその心の持ち主は、現実の自分自身が、友人たちの間での評判からかけ離れてしまっていると悟るのです。
「本当に完璧な読書家だ。さあ、どんな問題でも彼に聞いてみるといい。彼を困らせることなんてできないからね。」
 では、完璧な読書家の彼に質問してみましょう。何か、例えば、英国史のことを(彼はマコーレーの歴史書をちょうど読み終えたようですから)。彼は親切そうに微笑み、全てを知っているようなそぶりをしつつ、答えを探しに心の中に沈み込んでいくのです。浮上したときには、それらしい情報を持ち切れないほど手にしています。が、よく調べてみると別の世紀の話だったりして、再び仕事にかかります。今度の獲物はもっと本物らしい情報です。ところが運の悪いことに、他の物まで絡まって一緒くたに出てきました。政治経済の話、数学の法則、弟のところの子供たちの年齢、グレイの『哀歌エレジー』の一節。求める情報は、これら全ての中に絶望的にねじれ絡まっています。そうこうする間にも、みんなは彼の答えを待っています。沈黙が続くにつれてだんだん気まずくなっていき、我らが読書家たる友人はついに、中途半端な答えを、どもりながら話すしかなくなりました。これが全くもって不明瞭かつ不十分、そのへんの学校の生徒でさえもっとマシだったでしょう。以上の全ては、彼が知識をきちんと仕分けてラベルを貼る作業をしなかったために起きたのです。

 皆さんは、無鉄砲なやり方で心に栄養を与えている不幸な犠牲者を、ひと目で見分けられますか? 怪しいな、と気づくでしょうか。図書室を暗い顔で歩き回る彼を見てください。あの皿この皿と味見を、いや失礼、あの本この本と味見を続け、しかしどれにも集中することはないのです。まずは小説をひと口。こりゃダメだ、ふん! 先週ずっと食べていましたから、その味にはすっかり飽きています。それから科学をひと切れ。結果がどうなるかはすぐ分かるでしょう。もちろん、そんな人の歯には硬すぎます。と、こんなふうに、全く飽き飽きしたひと巡り。それは昨日も試みた(そして失敗した)ことであり、また明くる日もきっと、試みて、そして失敗するのです。
 オリバー・ウェンデル・ホームズ氏は、『朝食中の教授』というとても面白い本のなかで、若者と年寄りとを見分ける方法について書いています。「決定実験は次のようなものだ。ディナーのちょうど十分前に、問題の人物に大きめのパンを与えてみなさい。もしこれをためらいなく受け取ってかじりつけば、彼が若いという事実が立証される」。彼によれば、人間は「若ければ、昼でも夜でもいつでも何でも食べる」のです。
 だからヒトの心の食欲の健康度を調べるためには、短く上手く書けているが刺激的でない、一般的なテーマについて論じた文章を、要するに「心のパン」を、手渡してやればいいのです。もし、強く興味を持ってしっかり集中して読んでいるようなら、そして読んだ後にそのテーマについての質問に答えられるのなら、その心は最高の活動状態にあります。もし、本を丁重に机上に戻すとか、しばらく適当にめくってから「こんなつまらない本は読んでいられないよ! 『謎の殺人事件』の二巻を取ってくれないか?」と言うようなら、心の消化に何か問題があると確信できるでしょう。

 この文章が、読書という大事なテーマについて、何か役に立つヒントを皆さんに提供できたなら、そして、皆さんの行く手に待っている良い本たちを「読み、選び、学び、自分の中で消化する」ことが、それぞれの関心事であるのと同時に義務でもあるのだと分かって頂けたなら、私の目的は達成されたと言えましょう。





●訳者補遺

 この作品は、ルイス・キャロルによる講演原稿「FEEDING THE MIND」を全訳したものです。講演は1884年に英国アルフレトンの牧師館で地域の人々に向けて行われ、原稿はキャロル没後の1907年に出版されました。



底本:Carroll, Lewis. [1907] FEEDING THE MIND. London: CHATTO & WINDUS.
底本の言語:英語
※底本は「プロジェクト・グーテンベルク」や「インターネット・アーカイブ」において無料で閲覧できます。
※本作品は「クリエイティブ・コモンズ 表示 2.1 日本 ライセンス」の下に提供されています。 クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
2012年8月11日翻訳初稿完成
2012年12月20日最終更新

図書カード(青空文庫)
縦書きで読める「えあ草紙」
テキストファイル(zip圧縮)へ

訳者ウェブサイトのホームへ