(本当の)賢者の贈り物
The Gift of the (Real) Magi
オー・ヘンリ&石波杏
オー・ヘンリの「賢者の贈り物」は、庶民的な名作として有名ですが、私は初めて読んだときから、「終わりの部分に納得がいかないなあ」と思っていました。これが他の作家だったら、「まあでもこういうものなんだろう」と思うところですが、オー・ヘンリにはそういう神聖視は似つかわしくありません。柴田元幸さんが、ヘンリー・ジェイムズをフランス料理に、オー・ヘンリをファーストフードに喩えたのは、とても上手い比喩ではないでしょうか(角川文庫『つまみぐい文学食堂』)。ファーストフードを楽しむのに、うるさくマナーを気にしても仕方ありません。そういうわけで私は、「賢者の贈り物」に、勝手に加筆修正してみました。多くの人のお口に合うかどうかは分かりませんが、私の口には、原作よりこのほうが美味しく感じるのです。
一ドルと、八七セント。それで全部。しかも小銭だらけでした。
野菜や肉や缶詰を買うたびごとに、恥ずかしいほど値切りに値切って、一枚二枚と貯めた小銭です。デラは三回数え直しました。一ドルと八七セント。明日はクリスマスなのに。
どう考えたって、今のデラにできるのは、すり切れた小さなソファに倒れこんで泣き出すことくらいです。ですからデラは、ソファに倒れこんで泣き出しました。
ああ、人生は、大泣きと、すすり泣きと、微笑みとで出来ているんだ、それで一番多いのは、すすり泣きなんだ。デラはそんなことを考えました。
この家の主婦であるデラが落ち着くのを待つ間に(今は大泣きの段階ですが、これからだんだん次の段階に移りますからね)、家について紹介しましょう。
家具付きアパートで、家賃は週八ドル。口にできないほどひどい、という訳ではありませんが、もし「アパート」という言葉で呼ばれていなかったら、住人は浮浪者と間違われて警官に追い払われていたかもしれません。
玄関の下には、どこからも手紙の来ない郵便受けと、誰の指でも鳴らせない呼び鈴。それと、「ミスター・ジェームズ・デリンガム・ヤング」という名札が貼ってありました。
その名前の持ち主が週三〇ドル稼いでいた黄金時代には、「デリンガム」の名札もそよ風に吹かれて元気に暴れていました。ところが今、収入は二〇ドルに減り、「デリンガム」もぼやけてきて、「デリンガムはちょっと長すぎるんじゃないか、もっとつつましく控えめに、『D』の一文字だけでいいんじゃないか」と文字たちが真剣に話し合っているようでした。
それでも、ジェームズ・デリンガム・ヤング氏が二階の部屋に帰ってくると、先ほど紹介した「デラ」ことジェームズ・デリンガム・ヤング夫人が出迎えて、夫を「ジム」と呼びながら、しっかりハグするのでした。素晴らしいことです。
さて、デラは泣きやむと、化粧を直しました。そして窓ぎわに立って、灰色の裏庭にある灰色のフェンスの上を灰色の猫が歩いていくのを、ぼんやり眺めました。
明日はクリスマスなのに、ジムにプレゼントを買うお金はたったの一ドル八七セント。何ヶ月も必死で節約してきたのに、こんな結果だなんて。
週二〇ドルでは何もできません。支出は予想以上でした。そういうものです。ジムにプレゼントを買うのに、たった一ドル八七セント。大切なジムなのに。
どんな素敵なものをプレゼントしようかと計画を練った時間は、彼女にとってとても幸せなものでした。何か、素晴らしくて、貴重で、品があって、ジムが持つのにふさわしいものを贈りたかったのです。
部屋の窓と窓の間には、姿見がありました。週八ドルのアパートにありそうな程度の鏡です。縦長の断片になった像を素早く見て、自分の全身を把握できるのは、よほど細くてすばしこい人だけでしょう。でもデラはスレンダーだったので、その技を身につけていました。
デラは急に、窓のほうから向きを変え、鏡の前に立ちました。その眼はきらきら輝いていましたが、顔は二〇秒間まっ青でした。彼女は手早く髪をほどいて下ろし、まっすぐ垂らしました。
ジェームズ・デリンガム・ヤング家には、大いに誇れる持ち物が二つありました。
一つは、ジムの金の懐中時計。おじいさんから代々受け継がれたものです。
もう一つは、デラの髪の毛でした。
もしもシバの女王がお隣に住んでいたとして、ある日デラが髪を乾かすために窓から外に垂らしたら、それだけで女王陛下の宝石も財宝も価値がなくなってしまうでしょう。もしもソロモン王がアパートの管理人で、宝物を地下室に詰め込んであったとしても、ジムがそこを通りかかって時計を出すのを見たら、王様は自分のひげを引っ張って悔しがるでしょう。
さて、デラの美しい髪は、栗色の滝のように輝き、波のようにうねって、彼女のまわりに垂れていました。それはデラのひざまで届く長さで、まるで着物のようでした。
デラは少しいらいらした様子で、すばやく髪をまとめました。
そしていったん動きを止め、一分間、ためらっていましたが、やがて一滴、二滴と涙がこぼれ、すり切れた赤いカーペットを濡らしました。
それからデラは、くたびれた茶色のジャケットを着て、くたびれた茶色の帽子をかぶりました。スカートをひるがえし、眼には涙の鮮やかなきらめきを浮かべたまま、ドアから出て、通りへと階段を降りました。
彼女が立ち止まった所には、看板が掲げられていました。
『マダム・ソフロニーの店/ヘアグッズ各種取扱』。
デラは階段を駆けのぼり、息を切らしながらも、心を落ち着かせました。マダムは、色白で体が大きく、冷ややかで、とても「ソフロニー」という感じではありません。
「私の髪を、買ってもらえますか?」デラはたずねました。
「買いますよ」マダムは答えます。「帽子を取って、ちょっと見せてみなさいな」
茶色の滝が、さらさらと揺れ落ちました。
「二〇ドル」マダムは、慣れた手つきで髪を持ち上げながら言いました。
「すぐに下さい」デラは言いました。
ああ、それからの二時間は、薔薇色の翼に乗って軽やかに過ぎていきました。いえ、そんな使い古しのたとえは忘れて下さい。デラは、ジムへのプレゼントを探してお店をまわっていました。
ついに、デラは見つけました。
間違いなく、他の誰でもないジムのために作られたものでした。デラはあらゆる店をくまなく見てまわりましたが、どのお店にもそんな素晴らしいものは無かったのです。
それは、プラチナの時計チェーンでした。
デザインはシンプルで洗練されていて、見せかけの装飾など無く、もの自体に価値があることがはっきり分かりました。良いものとはそうあるべきでしょう。チェーンはあの時計にふさわしいものでした。デラはそれを見たとたん、これはジムのものでなければいけない、と確信したのでした。
そのチェーンはジムに似ていました。落ち着いているけれど、価値がある。その表現は、どちらにも当てはまります。
チェーンは二一ドルでしたから、デラは残りの七八セントを持って、急いで家に帰りました。時計にこのチェーンをつければ、ジムは誰の前でも堂々と時間を気にかけることができるでしょう。時計は立派でしたが、チェーンではなく革ひもをつけていたので、ジムはこっそりと時計を見ることがあったのです。
家に着いた時にはデラの興奮は少し落ち着いていて、代わりに慎重さと理性が働き出しました。ヘアアイロンを出してガスに点火し、自分の愛に寛大さをプラスしたことで生まれたダメージを、回復する作業を始めます。こういうのはいつでも大変な仕事なのですよ、本当に。大仕事です。
四〇分もたつと、デラの頭は小さく巻いたカールで覆われました。まるで、ずる休みの男子小学生みたいな頭です。デラは鏡に映った自分を、長い時間、注意深く、鑑定師みたいに眺めました。
「ジムが驚いて私を殺さなければの話だけど」デラは独り言を言いました。「見てすぐに、コニーアイランドのショーに出てくるコーラスガールみたいだって言われるかな。だって、何ができたっていうの? たった一ドル八七セントで、何ができたの?」
夜七時には、コーヒーが用意できて、フライパンはストーブの上に載り、ばら肉を焼く準備もできました。
ジムは決して遅れませんでした。デラは、時計チェーンを二重に巻いて手に握り、いつもジムが入ってくるドアの近くのテーブルの、はしっこに座りました。それからすぐに、ジムが階段を上る足音が聞こえると、デラは一瞬青くなりました。ふだんからちょっとしたことでも口の中でお祈りを唱える癖があったデラは、こうささやきました。「お願い、神様。今の私もかわいいって、ジムに思わせて下さい」。
ドアが開き、ジムが中に入り、ドアが閉まりました。ジムは少しやつれて見えました。まだ二二歳なのに、かわいそうな人。彼は家庭を背負っているのです。新しいコートが必要だし、手袋もしていません。
中に入ったジムは、そこで立ち止まりました。獲物の鳥の匂いに気づいた猟犬のように、じっとしていました。ジムの眼はデラに釘付けになって、その眼はデラには読み取れない表情をしていたので、デラは怖くなりました。それは、怒りでもなく、驚きでもなく、非難でもなく、恐れでもなく、デラが覚悟していたどんな感情とも違うものでした。
ジムは、その奇妙な表情を浮かべた顔で、じっと彼女を見つめていました。
デラはテーブルから離れて、ジムのそばに行きました。
「ジム、ねえ」デラは泣いていました。「そんなふうに見ないで。髪は切って、売ってしまったの。プレゼントなしでクリスマスを過ごすなんてできないから。また伸びるもの、怒らないよね? それしかなかったの。私の髪はすごく早く伸びるし。『メリークリスマス』って言って。ジム、楽しく過ごそう? まだジムは、私のプレゼントが、どんなに素敵なものか、――どんなにきれいで、素敵なものか、分からないでしょう?」
「髪を、切っちゃったの?」ジムはぎこちなく聞きました。一生懸命考えても、この明らかな事実を飲み込めないようでした。
「切って、売ったの」デラは言いました。「でも、前と同じように、私のこと好きでいて。髪がなくても、私は私でしょう?」
ジムは何か探すように部屋を見回しました。
「髪がもう無いって言うの?」ジムは、間の抜けた口調で言いました。
「探さなくてもいいの」デラは言いました。「売っちゃったの。本当なの。売ったから、なくなったの。ねえ、クリスマス・イブだよ。許して。どうしてもジムにプレゼントをあげたかったの。神様は私たちの頭の毛までもみな数えて下さっているって、聖書にはあるけど」デラは急に、真面目な優しい声になって続けました。「でも私からジムへの愛の深さは、誰にも測れない。ジム、肉を火にかけてもいい?」
ぼうっとしていたジムは、すぐにハッとして、愛するデラを抱きしめました。
「デラ、勘違いしないで。」ジムは言いました。「髪形を変えたとか、顔を剃ったとか、シャンプーをしたとか、そんなことでデラを嫌いになんかならない。ただ、この包みを開ければ、ぼくがどうしてさっきあんなに戸惑ったのか、デラにも分かるよ」
デラはジムから小さな包みを受け取りました。白い指がもどかしげに、ひもを切り、包装紙を開きます。デラは喜びの叫びを上げ、次の瞬間には、ああ、その喜びはすぐに嘆きと涙へと変わったのです。ジムは、あらゆる方法でデラを慰めなければいけなくなりました。
包みの中身は、「くし」でした。頭の横と後ろから髪に挿せる飾りぐしのセットで、デラはそれをブロードウェイのショーウィンドウで見てからずっと憧れていたのです。宝石のふち取りがついた、本物のベッコウ製の美しいくし。売ってしまった美しい髪に挿すにはぴったりの色合いでした。
高価なものだと知っていましたから、デラは今まで、自分のものにしたいなどとは思いもせず、ただただ憧れていたのです。それが今、彼女のものになりました。でも、憧れの飾りぐしが輝くはずのふさふさとした髪は、もう無いのでした。
しかし、デラはそのくしを抱きしめました。そしてようやく、うるんだ眼を上げて、微笑みながら言いました。「ジム、私の髪は、すごく早く伸びるの!」
それからデラは、やけどした猫のように飛び上がって叫びました。「あっ!」
ジムはまだ、デラからの美しいプレゼントを見ていないのです。デラは手を広げて、ジムにそれを差し出しました。プラチナの鈍い光は、熱心に輝くデラの魂を反射してきらめいているようでした。
「素敵でしょう、ジム? 街中を探して見つけたの。一日に何十回も時間を見たくなりそう。時計を貸して。どんなふうになるか、見たいから」
ジムはそれには従わず、ソファに腰を下ろして、頭の後ろに両手を回しながら微笑みました。
「ねえ、デラ」彼は言います。「時計は売っちゃったんだ、くしを買うためにね。デラの髪が伸びるのが楽しみだな。さあ、遅くなる前に夕飯にしよう。肉を火にかけてよ」
「えっ!」今度はデラが驚く番でした。「あの時計が無いの? ジムの宝物が?」
ジムは少しだけ困ったような、悲しそうな笑顔でうなずきました。「ごめんね、どうしてもこのくしを買って、デラを喜ばせたかったんだ。でも、ぼくが馬鹿だったかもしれない。前もって相談すればよかったんだ。驚かせようとして、結局、デラのプレゼントまで無駄にしてしまった」
「ううん」デラは、小さな声でそれだけ言い、うつむいて黙っていました。彼女の眼からは、涙がこぼれてきました。ジムの隣に座り、彼に寄り添うと、ジムはデラの肩を優しく抱きました。
デラはぽろぽろと泣き続けました。涙が止まりませんでした。
でもそれは、悲しみの涙ではありません。
彼女の胸は、不思議な温かさで満たされているのでした。