結婚式――“死が二人を分かつまで”
Marriage Service
“Till death us do part.”
ルイス・キャロル Lewis Carroll
石波杏訳 Kyo Ishinami
「死が二人を分かつまで……共に過ごし、愛し、慈しみ、(女性の場合)従う」ことを誓う。そう誓った者が離婚後に再び結婚することは罪である、と主張する人々は、確かに彼らに有利な「ア・プリオリ」な論拠を持っている。私はここで、普遍的法則にも例外があるという見解を支持すると思われる2つのポイントを指摘したい。
結婚が無効と宣言される事例は、そうした例外とは言い難いだろう。なぜなら(これには多くの人が同意すると思うが)、誓いを立てた時点で既にその履行が不可能な状況だった場合(例えば重婚の場合)、神の目から見れば、それは誓いではなく、いかなる義務も伴うものではないからだ。そのような場合でさえ誓いは拘束力を持つという極端な考え方をする人はいるかもしれない。そういう人達は、もしも詐欺師が「王位の正当な継承者」を僭称して私を騙し、私が彼に忠誠を誓ってしまった場合にも、その忠誠から逃れることはできないと主張するだろう。しかし、そのような主張はほとんど議論に値しない。
2つのポイントのうち、1つ目は次のようなものだ。ある誓いが相互義務であり、両当事者がそれを遵守することによってのみ目的が達成される場合、当事者の一方が遵守しなければ他方は解放される、というものである。このことを適切に示す例を挙げよう。敵国を通過する2人の旅行者が、互いに助け合い、食料や武器などを提供しあうことを誓った例である。
もし一方が他方を裏切り、彼の命を狙う策略を企てたとしても、他方は依然として相手に食料と武器を供給する義務があるなどと主張するのは、極端な詭弁家に違いない。このことを結婚の場合に当てはめると、次の主張は非常に説得力のあるものだと思われる。すなわち、共に過ごし、愛し、慈しむという誓いには、双方がその誓いを立てたという前提があるのであり、一方が誓いを守ることをやめた時にはそれは意味をなさなくなるのであり、したがって、一方のその行為(それはもちろん誓いへの違反であり罪である)によって他方はそれ以上の義務から解放される、という主張だ。
2つ目のポイントは、1つ目を別の言葉に置き換えただけとも言えるだろう。それは、誓いを果たすことが不可能となった場合、その誓いはもはや拘束力を持たない、というものだ。――言い換えれば、神の目から見れば、私たちができないことを行わないのは罪ではないということである。婚姻契約の2人の当事者のうち一方がこれを破り、共に過ごし愛し慈しむことをやめた場合には、他方がこれらのことを続けるのは不可能と思える。少なくとも、共に過ごし慈しむことは不可能であるし、愛することも(誓いにおいて意図された意味では)不可能だろう。
しかし批判者たちはこう主張するかもしれない。少なくとも他方が再婚を控えることは可能であり、その限りにおいて誓いを履行する義務は依然としてある、と。それによって誓いの目的はどの程度達成されるのですか、と問うのは公正な質問であるように思える。答えは間違いなく、[目的達成のために]何の影響もありえない、というものだ。これを踏まえれば、解決すべきなのは次のことだけだろう。すなわち、どうすれば神の御意志が最も実現されるのか、である。AとBは相互義務を負った。Aは(疑いなく罪深いことに)、これを履行せず破棄した。したがってBがこれ以上義務を果たすことは不可能となった。Bには2つの選択肢がある。――1つ目は、生涯にわたって(あるいは少なくともAの死までは)未婚を貫く、たとえそれがAに何の影響も及ぼさなくとも。――2つ目は、誓いは終了したとみなして、再婚が許されると考える。後者の選択肢が神を怒らせると言われるべきものだとは、私には思えない。
夫あるいは妻の死後であっても全ての再婚に反対すると言う人々は、聖書にも常識にも反する見解を持っているのではないだろうか。