実録!『老人と海』訳者解説

石波杏




※本当に実録をもとにしている部分や、真面目な話に耐えられなくなってふざけている部分など、読みづらい箇所がしばしばありますがご了承ください。


-目次
 +居酒屋にて。
 +スタバにて。
 +再び居酒屋にて。



――居酒屋にて。

「あれ、そういえば『老人と海』訳してるとか言ってなかったっけ」
「『老人と海』じゃないよ! 断然『老人と海』じゃないんだよ! ヘミングウェイの代表作は『老人と海』じゃなく、『殺し屋たち』であり『キリマンジャロの雪』であり『清潔で明るい場所』なんだよ! 分かってんのか!」
「うるさいよ、隣の迷惑だよ」
「個人的には『善良なライオン』も大好きだ!」
「知らないよ。翻訳は終わったのかって」
「終わった。確かに終わった」
「どうだったの」
「大変だったよ〜。二〇一三年八月に訳し始めて、公開が二〇一五年七月だからね。一通り訳すのも大変だったけど推敲も同じくらい大変で、びっくりした」
「それは、ヘミングウェイだから? 緊密な文体とか言われるもんね」
「そういう本質的な問題よりも、単純に、ネット上で読める『老人と海』の日本語訳は今まで無かったから、私の訳が史上初なわけだよ」
「うん」
「ていうことは、石波訳によって初めて『老人と海』を読む人もいるし、その人はもう他の翻訳者の訳を読まないかもしれないわけでしょ」
「可能性としてはね」
「じゃあ責任重大じゃないか! だから今回は、自分の個性を出すとか考えず、独りよがりのこだわりに執着せず、とにかく『老人と海』をお届けすることに、専念しました」
「殊勝だね」
「でしょう」
「丁寧に解説とかも書いたの?」
「それなんだよ、解説の草稿は大量に、何種類も書いたんだけど、結果全くまとまらなくて、最低限の『謝辞』だけにした」
「へえ、自由に書けるからむしろ翻訳より楽そうなのに」
「いや、書きたいことが多すぎてダメだった。例えばこれ、最初に解説を書き始めたときの冒頭なんだけど」
「持ち歩いてるのかよ」

 キューバのフィデル・カストロ元議長は、最も好きな作家としてヘミングウェイを挙げ、『老人と海』を「傑作」と評価しながらも、次のように告白しています。「最初にこの小説を読んだとき、――たぶん、そのころ、わたしは、もう少し動きのあるもののほうが好きだったのだろうが――この作品の真価がよくわからなかった」(N・フエンテス『ヘミングウェイ キューバの日々』宮下嶺夫訳、三〇〇頁)。
 また、二〇一四年に『老人と海』の日本語訳を上梓した小川高義さんは、この作品を「若い時期にちらっと読んでそんなに面白いのかなと思って放っておいた」と語っています(『週刊読書人』二〇一四年一〇月二四日、二頁)。
 つまり、もしも若い読者が、誰の訳にせよ(あるいは原文にせよ)『老人と海』を初めて読んで「つまらなかった」と思ったとしても、その感想が今後大きく変わる可能性は決して低くない、ということです。
 個人的には、『老人と海』は素朴な読み方をしても(丁寧に読みさえすれば)十分面白い作品だと思うのですが、「退屈な小説」という感想を持つ人も皆無ではないようです。そこで、訳者として、右記の二人の話をお伝えしておきたいと思いました。もちろん、他の訳は面白かったのに石波訳は退屈だ、と思われてしまったなら、それは訳者の問題というほかありませんが、そうならないよう全力を尽くしたつもりです。

「どうだ」
「へー、カストロ議長はヘミングウェイ好きだったんだ」
「ちなみにサダム・フセインも『老人と海』を愛読してた。そして石原慎太郎もヘミングウェイが好きで…」
「で、この解説じゃダメだったの?」
「これってさあ、つまらないと思った人向けに書いてるわけよ」
「そうだね」
「だったら、こういう『君も成長したら分かるかもよ』的な話で終わるんじゃなくて、どこが面白いのかを自前で解説するべきじゃないかと思ったんだよね」
「なるほど」
「でも、どこが面白いかを解説するのが難しくて、挫折した」
「難しいの?」
「難しいなあ。まあ、読んだけど面白さが分からないって人へのアドバイスとして、『筋を追うだけじゃなく、ひとつひとつの描写を丁寧に読まないと』とか、そのくらいは言えるけど」
「ふーん」
「あと、まったく別の角度から書いたのがこれ」

 老人はライオンの夢を見ていた。
 と、物語は幕を閉じました。静かで暖かいラストです。
 さて、では、夢から覚めた老人は何をするのでしょうか。もちろん再び海に出るだろう、と私は思います。少年と一緒かもしれませんし、一人かもしれません。いずれにしても、漁師としての老人の日常は、ずっと変わりません。漁が上手く行っても行かなくても、自身の強さを証明し続けるために、彼は海に出続けるでしょう。
 そう考えると、この物語に語られた壮絶な戦いさえも、彼にとっては、繰り返される証明の一つでしかないことになります。大魚の骨を持ち帰った老人は村人から尊敬されるかもしれません。が、老人にとってそれは大した意味を持ちません。眠りから覚めて新しい日を迎えれば、また新たな証明への希望が、彼を駆り立てるからです。だからこそ老人は、死の淵で戦った後にも、今までと変わらずライオンの夢を見ています。『老人と海』に描かれているのは、非日常的な冒険であると同時に、戦い続ける老人の日常でもあるのです。その意味で私はこの小説に、たゆまず挑戦を続ける人間の、日常の尊さを感じます。

「いいじゃない、なんか、名作の解説っぽいし。正統派って感じ。『老人と海』って喪失の話だから、ネガティブに解釈する人も多いと思うけど、これは老人の強さを強調する文章で、いいと思うよ。これでいけるじゃん」
「うーん」
「ダメなの?」
「なんかねえ、この日常というのは、別の言い方をすると、労働でしょ。サンチャゴは別に勇者の冒険として魚と戦ったんじゃなくて、日々の労働の一環として、漁師の仕事として戦ってるわけよ。その日常の労働の尊さ、みたいな話だよね、この解説は」
「いいじゃない」
「最近、NHKの『プロフェッショナル仕事の流儀』を見た影響で、こんな文章を書いてしまったんじゃないだろうか」
「いや、知らないけど」
「なんかそんな感じがして」
「だからダメなの?」
「わりといいのはいいんだよ。自分が読んだときの素直な感想として、研究者や評論家がどう言ってるか全然知らない状態で読んで、『ああ、老人は戦いの前も後も同じ夢を見てるわけだから、この戦いが重大な転換点になるんじゃなくて、老人の日々は繰り返すんだな』って思ったから、その感想の表現になってると思うし」
「老人が死ぬまで繰り返す日常、と」
「もっと言うと、サンチャゴが死んだら少年が成長してるわけだから、小さな漁村でずっと続いていく日常だよね」
「なるほど。ちっぽけだけど、ドラマはあって、価値のある日常」
「あと、『老人と海』の名言、みたいにすごく言われる部分があるじゃん、ええと、石波訳で言うと…。『「だが人間は、負けるように造られてはいない」彼は言った。「打ち砕かれることはあっても、負けることはないんだ」』、という」
「有名だね。石波訳では、『打ち砕かれることはあっても』って訳されてるんだね」
「あ、その表現は『殺されることはあっても』と迷ったんだけどね。"A man can be destroyed but not defeated." ともかく、この部分が一番有名なわけよ」
「だね」
「でも自分としてはむしろ、『毎日が、新しい一日だ。』とか、『これまで彼が何千回も成し遂げてきた証明など、意味を持たない。』とかを上に置きたいんだよ」
「まあでもそこも割と有名だよね、"Every day is a new day." って」
「うん。で、この『毎日が新しい』って、二つの面があるわけ。まず一つは、『昨日までダメだったからって今日もダメとは限らないんだから、ゼロから新たな気持ちで頑張ろうぜ』っていうポジティブさ」
「うん」
「もう一つは、『今まで成功して結果を出してきたからって、今の俺には関係ないから、ゼロから新たな気持ちで頑張んなきゃ』っていう感じ」
「過去の栄光にあぐらをかかないというか」
「うん、で、そのサンチャゴの思想と、さっきの解説の、日常の戦いは繰り返すみたいな話って、ぴったりハマるでしょ」
「ああ、そうだね」
「だから自分としてはしっくり来る話なんだよ」
「じゃあやっぱり、これをもうちょい膨らませて、採用でいいじゃない」
「うーん」
「どこがダメなの」
「なんというか、道徳的と言うか、優等生的なんだよね」
「優等生っぽく書いたんじゃないの、文体といい」
「まあそうなんだけど。あと、これを言っちゃおしまいなんだけど、そもそも、こういう『私はこの物語をこう読みました』っていう文章が好きじゃないんだよ」
「書くのが?」
「いや、読むのも」
「でも研究文献とか結構読んだんでしょ?」
「普通の意味での解釈の論文はほとんど読んでない。だから、『参考文献一覧』では、ヘミングウェイ研究者が書いた重要な解説書が漏れてるんだよね。だからまあ、やっぱり、書いてみたもののしっくり来ないという感じだなあ。それにきっと、専門の人から見たら素朴すぎて素人っぽい解説に見えるだろうし」
「文学研究の文献って、解釈するものなんじゃないの? そういうのじゃないなら、どんなの読んだの?」
「その話は七分後にする! しばらく待ってくれ」
「いや別にしなくてもいいけど」
「さて、それで、いま読んでもらった解説ってさ、本文の『最後の一文』を元にして、全体の解釈につなげる、っていう形でしょ」
「そうだね」
「これとペアにして、本文の『最初の一文』を元に、翻訳の方針なんかを書けたら、全体としてかっこいい構成の解説になりそうじゃない」
「なるほどね」
「あまり好きじゃない『鑑賞の手引き』みたいな文章を丁寧に書くのがいいか、それとも翻訳のこだわりについて書きたいことを書いちゃうのがいいか、って元々悩んでたから、両方書けて綺麗にまとまったら理想なんだよ」
「じゃあ、最初の一文のほうも書いたの?」
「書くには書いた、けど、これちょっと長いんだよなあ」
「まあ読んでみるよ」

 彼は老いていた。
 と、物語は始まりますが、こうして物語を始めると決めたのは、ヘミングウェイではなく訳者です。原文の冒頭は「He was an old man who fished alone…」ですから、拙訳では冒頭で短く切って訳してあるわけです。福田恒存訳では「かれは年をとっていた」、谷阿休訳では「彼は老人であった」と訳されていますから、拙訳はこれらと同じ方向の訳し方を採用したことになります。
 しかし、この冒頭でいくかどうかは、最後まで悩みました。採用しなかった案は、次のようなものです。

「ある老人が、小さな船でメキシコ湾流に漕ぎ出し、独りで漁をしていた。」

形式的には原文からやや離れた訳文です(英文和訳のテストならバツ)。形式的に原文と異なるという意味では、次の小川高義訳も同様です。「老人は一人で小舟に乗ってメキシコ湾流へ漁に出る。」どういう理由でこうなっているのかは分かりませんが、小川訳の訳文が全体的にかなり周到に練られていることを考えれば、一定の根拠は必ずあるはずです。小川訳は(私の訳とは違って)、「he」の訳出を可能な限り減らす方針を取っている印象があるので、冒頭でも「彼は」としなかった、というのは根拠の一つではないかと考えます。
 一方、私の不採用案にも、結果的に不採用になったとはいえ、それを支持する根拠がもちろんあります。
 まず、「彼は老いていた」と文を短く切ってしまう訳し方は、小説の冒頭としてかっこいいのは間違いないのだけど、原文の雰囲気を正しく伝えているだろうか、という疑問があります。確かに、「簡潔な短い文で書く」というのはヘミングウェイの文体のひとつの大きな特徴で、『老人と海』でも堅持されていますが、冒頭で、あたかも「メロスは激怒した」のように使ってしまうと、逆に原文よりも格好つけた、気合を入れた感じが出てしまうのではないか、という気がするのです。ヘミングウェイの他の作品はともかく、『老人と海』はもっと素朴な文体で書かれているように私には思えます。
 また、一部の文学研究者は、『老人と海』の冒頭は寓話的だ、という指摘をしています。昔話のような語り始め方だ、というのです。その意見に賛成するなら、不採用案を積極的に支持する根拠が増えるでしょう。「ある老人が…」という冒頭は、「昔あるところに…」という昔話の語りを髣髴ほうふつとさせ、寓話的な印象を出せるからです。
 不採用案を支持する、より単純な理由として、原文の冒頭はそれほど極端な短文ではない、というものも挙げられます。野崎孝訳は次のような冒頭文で、先に挙げた小川訳よりも長くなっています。「彼はメキシコ湾流に独り小舟を浮べて魚をる年老いた漁師であるが、一匹もれない日が今日で八十四日も続いていた。」原文の一文を、日本語訳でも一文として訳しているわけです。ちなみに、柴田元幸さんが『老人と海』の冒頭1パラグラフのみを訳したことがありますが、その時の訳文も次のように、原文の一文を切らずに訳したものでした。「彼はメキシコ湾流に小舟を出して一人で釣りしている老人で、もう八十四日ずっと、一匹の魚もつかまえていなかった。」
 さて、しかし、結局のところ、不採用案は不採用となり、拙訳の冒頭は「彼は老いていた」という短い文になりました。根拠はいくつかありますが(以下空白)

「どうだ」
「うーん、小説の解説としてこういう話を長々とされても、まあ、好き嫌いは分かれるかもね」
「そうだよね。結局伝えたいのは、一行だけでも色々悩んでるので、全体としてはすごく悩んで頑張って訳しました、ということなんだけど」
「で、根拠は?」
「え?」
「いや、だから、この続きの一番大事なとこが書いてないじゃん。不採用案は不採用となって、短文の案が採用となった根拠は何なの?」
「うーん、いい質問だね」
「みんな疑問に思うでしょ」
「なんと言うか、翻訳において一番大事なのは、当然、原文にどう書いてあるのか、ということだよね」
「ひとまずはね」
「そして、その原文重視主義の立場から言えば、いま読んでもらった解説で書いたように、不採用案がベストだと思うんだよ」
「うん。にもかかわらず短文の案を採用したのは、なぜ?」
「一言で言えば、そっちのほうが、面白そう」
「面白そう?」
「いや正確に言うと、読者を惹きつけられそう、と思ったからかな」
「まあ、確かに、冒頭に短文というのは、インパクトはあるよね」
「理由はそれだけ」
「それだけかあ、なんか、この解説に書いてることはすごく理論派っぽいのに、最終的な決定理由は感覚的だね。それに、ヘミングウェイの名作なんだから、冒頭で頑張らなくても、読む気がある人はちゃんと読み進めてくれるんじゃないの」
「その通りだと思う。ただ、ここで想定されてる読者というのは、実は、『老人と海』を読んだことがない学生時代の自分自身なんだよ」
「ふーん?」
「で、学生時代の自分が、ネットで『老人と海』が無料公開されてると知ったら、まあとりあえず見に行くと思うんだよ」
「うん」
「それでアクセスして、少なくとも一行は読む。ただ、次の行に行くかどうかは、その冒頭にどれだけ『引き』があるかで決まっちゃうんだよね、きっと」
「そんなもんかな」
「私は元々小説を読むこと自体があまり得意じゃないんだ、話せば長くなるけど。だから、冒頭だけ読んで、何となく、最後まで読めそうな雰囲気を感じるかどうか、そこがすごく重要だから、自分が冒頭を書く時にはかなり気を遣うんだよ。採用案を採用した根拠は、そういうこと」
「うーん、いや、分かるよ。あの頃の自分に読ませたい、っていう。だけど、それならそれで、いま喋ったことを解説に書けば話はまとまるじゃん、なんで書かないの?」
「誤解されそうじゃない?」
「何を?」
「つまり、私がいま言ってることってこういうことでしょ。原文重視でいけば不採用案のほうが良いんだけど、冒頭インパクト重視のために採用案にしました、って」
「そうだね」
「そうじゃないんだよ!」
「急に大声を出すなよ。どういうことだよ」
「いやつまり、その言い方だと、あたかも、私の採用した案が、原文を軽視してるみたいじゃないか」
「まあ、そう見えるね」
「でもそうじゃなくて、不採用案も採用案も、どちらも決して原文を軽視なんてしてないんだよ。ただ、かなり細かい話として、強いて言えば不採用案のほうが原文に近い雰囲気で、でもそちらを取らなかった、というレベルの話なんだよ。それを原文軽視と見るのは間違いなんだよ」
「うん、言ってることは分かる」
「持久力が課題って言われてるプロサッカー選手を見て、あいつよりは俺のがスタミナあるわーって素人が言ったら間違いなんだよ、それと同じだよ」
「全然違うんじゃない?」
「ともかく、この解説では、不採用案を支持しうる根拠を前面に出しちゃったわけ。そのせいで、採用案について、なんか訳者が勝手なことをしてるように思われたらやだなあ、ってことだよ」
「ふつうの読者はそこまで深く考えないような気もするけどね」
「それを言い出すと、そもそも私の訳の解説なんて誰も読まない可能性もあるわけだから」
「まあね」
「そういうわけで、このパターンの解説も没になった」
「なるほど」
「…ふう」
「それで、解説のパターンは、出尽くしたの?」
「印刷してきてないけど、書いてみたけど没になったのは、客観的情報を提供する解説というのがあるね、正統派の」
「客観的情報って?」
「何年に書かれてどこに発表されたとか」
「ああ」
「何年にノーベル文学賞取りました、とか。あと実は元々、単独の小説じゃなくて海を舞台にした大作の一部として構想されたんだけど、結果的に、独立して発表されたんですよ、とか」
「えっ、そうなの? 大作の一部だったんだ。知らなかった」
「最初は、陸・海・空の長編三部の大構想があったらしくて、その『海』の中の一部が、このサンチャゴの話だったらしい」
「他の部分は書かなかったの?」
「ええと、『海』の部のうち、『老人と海』以外の部分は、『海流のなかの島々』っていうタイトルで出版された。でもそれはヘミングウェイの死後に遺稿を出版したものだから、ヘミングウェイ自身が納得いく形で完成させた作品じゃないけどね」
「へえ、そうなんだ。そういうエピソード、面白いじゃん」
「まあね」
「そういう解説、書けばいいのに。なんでダメなの」
「そういう客観的情報って、誰でも書けるっていうか、自分が書く必然性がなくない?」
「うーん、まあ」
「誰が書いても同じになる文章を書くのって辛いんだよね。だったら『ググってくれ』って書いておけばいいんじゃないかっていう」
「ググれば出てくるの? ウィキペディアに書いてあるかな?」
「あるんじゃないかな、分からないけど」
「でも、本文の後の解説でそういう情報が知れるのはいいと思うけどね」
「書くべきかもしれないけど、書いて楽しくはないから、試しに書いてはみてもあまり進まないんだよ」
「なるほどね。でも、作品の成立の背景とか、伝記的な情報とか、その時代のアメリカのこととか、そういう同じ素材を使って書いても人によってやっぱり上手い下手はあるじゃん。誰が書いても同じってことは無いじゃん」
「ある程度はね」
「だからそういう解説的な文章を、頑張って上手く、個性的に書いたらいいんじゃないの」
「まあ、分かるけど、能力的に無理かな」
「良さそうだけどなあ」
「ダメだねえ」
「ダメかあ」
「ただ、客観的情報にまつわる面白い話というのはあって」
「まつわる?」
「『海』の部は全部で四章に分かれてて、サンチャゴの話は四つ目の章だったんだけど、それを『老人と海』っていう独立した小説にする前は、サンチャゴの話の部分には『The Sea in Being』っていうタイトルがついてたんだよね」
「へえ、『存在する海』っていう感じ?」
「うん、だけど独立させるにあたってタイトルを付け直そうっていうんで、ヘミングウェイが悩んだ時に、思いついたうちの一つが『人間の尊厳』っていうんだよ」
「なんか、『老人と海』っていう題と印象が全然違うね」
「結果的にはもちろん、ヘミングウェイは『人間の尊厳』を却下したんだけど、却下の理由が、正確だがおおげさだ、って理由だったらしい。ちなみにこのエピソードは、ベイカーの書いたヘミングウェイの伝記に書いてあった」
「正確、なのか」
「そうなんだよね、よく『老人と海』の批評する人が、『この作品には人間の尊厳が描かれてる』とか言ってて、正直何言ってんのかなと私は思ってたんだけど、ヘミングウェイ本人が正確だっていうんじゃしょうがないよね」
「ふーん」
「と、いうような話になると、わりと面白いんで、ちょっと書きたくなる」
「書けばいいじゃん」
「けど、情報を単発で紹介したんじゃ単なるトリビアで終わっちゃうでしょ」
「いいと思うけど。『へぇ』って言える情報なら面白いし」
「いや、かっこよくまとめたいよ。この情報を起点にして作品を論じるんだよ」
「論じればいいじゃん」
「論じようとしたよ、でも、まとまらないよね」
「あまり、綺麗にまとめることにこだわらなくてもいい感じがするけどね。別に論文書くんじゃないんだから」
「いや、まとめなくちゃダメだよ」
「うーん、ダメなら、まあ、しょうがないね」
「しょうがない」
「そういうトリビアは大量にあるの?」
「そんなには無いかなあ。例えば、サンチャゴがオリオン座のリゲルを眺めるシーンがあるけど、実は9月のキューバからはリゲルは絶対見えない、みたいな話とかね」
「ふーん」
「どうでもいいか」
「まあね」
「福田恒存訳の初版では、シイラという意味の『dolphin』を『イルカ』と誤訳してたんで、老人がイルカを釣り上げて生で食べるというすごいことになってた、とか」
「それはすごいね」
「流石にイルカは食べないだろっていう」
「まあでも、日本でも地域によってはイルカを食べるらしいけどね、岩手とか静岡とかの、海の近くとか」
「生では食べないでしょ?」
「いや、イルカの刺身とかあるらしいよ」
「そうなのか! ケモノ臭くないのかな…。まあしかし、だとすると、誤訳もあながち異常な訳ではなかったのか」
「でも、シイラの体が金色に光るのを、イルカの体が金色に光ると訳したら、わりと異常だよ」
「そりゃそうか」
「擁護はできないだろうね」
「うん。ただ、一応言っておくと、確かに福田訳は当初誤訳が多くて、たくさん批判されてきたんだけど、やっぱり最初に訳すってのは後続の訳より遥かに大変だし、しかも福田訳の初版は一九五三年だからね。何だかんだ言って、偉大だよ。改訳を重ねて、今でも読める訳だし」
「他にも批判が色々あったんだ?」
「そう、だから批判の論文も色々読んで、あ、そうそう、だから、それもあるんだよ」
「何が?」
「いや、訳者解説の書き方のパターンを色々出してきたけど、これが最後のパターン。解説を、参考文献リストと一体化させちゃう」
「一体化ってどういうこと?」
「まず、翻訳を完成させる上で読んだ参考文献って、色々あるわけよ」
「うん」
「で、単に文献を並べて一覧にするんじゃなくて、文献についてのコメントを一つ一つ付けていくわけ」
「ああ、なるほど」
「そうすれば、文献へのコメントの中で、自分の翻訳についてとか、作品についてとか、色々語りたいことを語れて、文献紹介にもなって、一石二鳥かなと思ったんだよね」
「なるほどね」
「解説の文章の構成とかもあまり気にせず、並んだ順番にコメントすればいいし」
「でも、挫折したの?」
「いや、挫折というか、恐縮というか」
「何に恐縮したんだよ」
「参考文献って色々あるけど、一番重要なのは、論文とかじゃなくて、他の人が訳した『老人と海』本体なんだよ」
「ああ、そりゃそうだろうね」
「でも、他人の訳を並べて、この訳はこうで、その訳はああで、とか書いてると、なんか傲慢な気がして」
「それは、傲慢な内容のコメントをするからだろ」
「うーん」
「例えばどんなコメントがあるの」
「ちょっとこれを見てもらおうか」
「印刷したのはもう無いんじゃなかったのかよ」
「いや、ただの既訳リスト」

・福田恒存訳(1966)『老人と海』(新潮文庫、2003年改版)。
・林原耕三&坂本和男訳註(1972)『対訳ヘミングウェイ2老人と海』(南雲堂)。
・野崎孝訳(1977)「老人と海」、『集英社版世界文学全集77 老人と海他』(集英社)所収。
・谷阿休訳(1983)「老人と海」、朔風社編『ヘミングウェイ釣文学全集 下巻・海』(朔風社)所収。
・中山善之訳(2013)『老人と海』(柏艪舎)。
・小川高義訳(2014)『老人と海』(光文社古典新訳文庫)。
・宮永重良訳(2015)『新訳 老人と海』(文芸社)。

「こんなに訳があるんだね。新潮文庫と、光文社古典新訳文庫しか知らなかった」
「全七種。でも、私が訳し始めたときは谷訳までしか出てなかったから、全四種だったんだけどね」
「二〇一三年から毎年出てるんだ」
「著作権が切れたからね」
「へえ」
「で、例えば野崎訳なんだけど、野崎孝といえば米文学の大家で、有名な人だから、実物を入手するまでは結構期待してたんだよ」
「実際見たら、出来が悪かったの?」
「いや全然悪くない、けど、福田訳と表現が一致しすぎてる。福田訳を傍らにおいて、相当参考にしながら訳したんだと思う」
「ふーん、そんなことがあるんだ」
「特筆すべきは谷訳で、ちなみにこの谷阿休というのは群馬大の南谷覺正さんのペンネームなんだけど、谷訳は、『ヘミングウェイ釣文学全集』に収録されてるだけあって、釣り師向けの訳になってる」
「釣り用語とかが使われてるの?」
「そう。でも、ただ用語を使ってるだけじゃないんだよね。例えば、こういう部分がある。
 原文『the old man could not raise him an inch.』
 石波訳『老人には、一インチたりとも引き上げることはできなかった。』
 谷訳『ふけが取れたあとの綱はもはや一インチたりとも手繰れなかった。』
こうして見ると、石波訳は、まあ普通の訳だよね」
「そうだね」
「一方、谷訳では『ふけが取れたあとの』を補ってる」
「ふけってのは?」
「フケというのは、ラインの、まあ老人の場合はロープなんだけど、そのロープのたるみのこと。だからフケを取るというのは、ロープのたるみを取って、ぴーんと張らせること」
「じゃあ、たるみをなくした後は、引っ張れなかった、ということ?」
「そう。この場面はどういう場面かっていうと、老人がロープを引っ張ったら、まず一ヤード(約90センチ)くらい引っ張ることができて、さらに引っ張ったけど、一インチ(約2.5センチ)も動かせなかった、という場面なんだよ」
「ふんふん」
「でも、何も知らないで読むと変な感じがするわけだよ。だって、一ヤード引っ張れたのに、『一インチたりとも引き上げられない』って、矛盾してる気もするでしょ」
「うん」
「石波訳では原文のまま訳してるけど、谷訳はそこに対する説明を加えてるわけ。一ヤード引っ張れたのは、あくまで『ふけ』を取っただけであって、魚自体は全然動かせてないですよ、と。それで、『ふけが取れたあとの綱はもはや一インチたりとも手繰れなかった』と」
「なるほど」
「私はこういう、訳文の中で補足説明しちゃうというのは必然性があるとき以外やらないけど、参考として読む分には面白いよね」
「谷訳は釣りの知識をしっかり活かして訳してるんだね」
「そこはだから、私はカジキ釣りの経験なんて全く無いわけだから、他の人からしっかり学ばないといけないところなので、ありがたいね」
「経験が無いとやっぱり不利なの?」
「それはまあ、高見浩さんなんて、ヘミングウェイの『二つの心臓の大きな川』を訳すためにフライフィッシングに挑戦したらしいし、経験はあるにこしたことはないよね。私はたまたま小型船舶の操縦免許を持ってたりするので、船に乗ったことの無い人よりは多少ましだろうけど、カジキ釣りは映像でしか見たことないからね」
「ヘミングウェイは実際にカジキ釣りをやってたんでしょ」
「もちろん。で、この谷訳が収録されてる『ヘミングウェイ釣文学全集』の素晴らしいのは、『老人と海』という作品の、ポジションを考えさせられるんだよね」
「ポジション?」
「ふつう『老人と海』って、例えば『武器よさらば』とか『日はまた昇る』とか『がために鐘は鳴る』の隣に並ぶわけよ。ヘミングウェイの作品として」
「まあそうだろうね」
「場合によっては、『人間失格』と『こころ』の隣に並んじゃうわけよ」
「新潮文庫の売り上げランキングだね」
「その通り。だけど、この『釣文学全集』の目次を見ると、『老人と海』と並んでるのは、ヘミングウェイ自身が釣りについて書いた文章群なんだよね。釣り小説だけじゃなく、自分の釣り体験とか、釣りについての考えとか」
「へえ」
「当たり前のことなんだけど、ヘミングウェイにとって釣りというのは、小説の題材であるより先に、彼自身の人生にとって本当に重要で、大好きなことだったわけよ。そしてそれを題材として書いた『老人と海』は、やっぱり特別なものだったろうし、だとしたらその作品を読む読者としても、釣りの知識と経験が無いのでは、実は『老人と海』の核心は掴めないのかもしれないよね」
「いや、まあでもそういう限定を超えた魅力があるからこそ、広く読まれてるんだろうし、ノーベル賞も取れたんでしょ」
「それはもちろんそうだけどね。私が読んでも面白いんだし。ただ、この作品が釣文学であるということの意味はちゃんと考える必要はあるかなと。そして、谷訳はそういう意味で非常に重要な訳なんじゃないかなと。思うわけですよ」
「なるほどね」
「あと全然どうでもいいんだけど、谷訳だと、サンチャゴが『○○なんじゃよ』みたいに喋るのが面白い」
「漫画みたいだね」
「最初は驚いたけど、これはこれで味があるんだ」
「ふーん、読んでみたくなるね」
「うん、もし変わった訳で読みたいという人がいたら、断然これがおすすめ」
「他の訳は、オーソドックスなの?」
「うーん、まあ、それぞれ個性的ではあるけどね。うーん」
「語る気がしないの?」
「いや、一冊ずつやっていくと大変だなと思って」
「まあ、サワリだけでいいんじゃない」
「よし、どちらにせよ精読したのは福田訳と小川訳だから、他はちゃっちゃとやっちゃおう」
「うん」
「まず、林原&坂本訳。これは対訳形式なんで、かなり役には立った。ただ、対訳だけあって訳者の翻訳のポリシーみたいなものはそれほど感じないかなあ。対訳にしては結構、独立して読める訳文になるように気を遣ってる感じはするけど。ともかく、私にとっては役立ったので、ありがとうございましたと言いたいです」
「はあ」
「次に、中山訳。これは比較的、原文の表面的構造に忠実な訳。聞こえの悪い言い方をすれば、英文和訳的な部分が結構ある。場合によっては対訳本の訳文よりも英文和訳っぽさが残ってる」
「じゃあ読みにくいの?」
「と思うでしょ。だけど、そもそも『老人と海』は簡潔で素朴な文体だから、英文和訳的でもそれはそれでありなんだよ。自分ではやらないけど、この訳の個性として、面白いなと思う」
「へえ」
「次に、宮永訳。自費出版で知られる文芸社から出た訳」
「自費出版なのかな」
「さあ、それは知らない。訳者は、高校の英語の先生をやってた人らしい」
「ふーん」
「以上です」
「えっ、コメントは無いの?」
「いや、正直、なんだか良く分からなかった。」
「分からなかったっていうのは?」
「例えば、原文にない改行が、何の意味も無く大量に挿入されてる。ライトノベルより改行多いんじゃないかっていうくらい」
「それは、『ラノベっぽく訳そう』とか『改行増やして読みやすくしよう』とか、そういう方針なんじゃないの?」
「と思ったんだよ、私も。ところが、逆に原文の二段落を一段落にまとめてあったりもするし、全然読みやすくもなってないし、何だか分からない。あとは、こういうのとか」

「僕を引き離したのはパパなんだ。まだ子供だから、僕はパパに従わなくちゃならないんだ」
「分かっているとも」「それは全くもって当然のことさ」
「パパはあまり他人を信頼しないんだ」
「その通りだ」「でも俺達はそうじゃない、そうだろう」

「ん? 老人と少年の会話だけど…老人の台詞が分割されてる? 地の文が省略されてるのかな」
「なんだか分からない。老人が二人いるみたい」
「ただの誤植じゃないの?」
「そうかもしれないけど、こういうのが複数あって、全体的に意味不明なんだよ。訳者まえがきも、やたら強く『既訳』を批判してて、『既訳』の訳者に知識が無いせいで傑作を台無しにしてる、とか書いてあるんだけど、意味が分からないし」
「福田恒存訳を批判してるの?」
「それすら分からない」
「どういうこと?」
「だって、どの訳への批判なのか書いてないから」
「ふーん。妙だね」
「珍妙だよ。なので、特にコメントすることは無い。あ、でも、ついでなので一つ、いんたーてくすちゅありてぃの話をしておくと」
「何だって?」
「『老人と海』を研究者が読むときの、一つのよくある読み方として、サンチャゴをキリストになぞらえて読むってのがあるんだよね」
「ああ、光文社古典新訳文庫版の、解説に書いてあったね」
「あれ、光文社の小川訳、読んだの?」
「いや書店で見つけて、解説とあとがきだけ立ち読みした。面白かったよ」
「面白いよね。ちゃんとした解説もしつつ、個性も出しつつで」
「で、キリストがどうしたの?」
「サンチャゴのどこがキリストかって、色々ポイントはあるんだけど、一番キリストなのはここなんだよ」

「アイ!」彼は声に出してそう言った。この言葉は翻訳できない。きっと、両手を釘で貫かれ板に打ちつけられた時に、人が思わず発してしまうような声だ。

"Ay," he said aloud. There is no translation for this word and perhaps it is just a noise such as a man might make, involuntarily, feeling the nail go through his hands and into the wood.

「キリストがはりつけにされる場面を連想させる書き方をしてるわけね」
「いま引用したのは石波訳だけど、小川訳はもっとはっきりと、『両手に釘を打たれて磔にされる瞬間に』と訳してる。まあどちらにせよ、原文はどう見てもキリストの磔刑たっけいを読者に思い出させたい書き方としか思えない」
「そうだね。というか、そう読まないと意味が分からないよね。なんで突然釘が出てくるのか」
「ところが、ええと誰だっけ、その素人の方の訳では、『たぶん、不本意に、釘が自分の手を貫いたときに人が発するたぐいの音声だった』となってる。磔のことを意識していれば『不本意に』とは書かないだろうし、『hands』が複数形になってる意味にもおそらく気づいてない。それに、原文でわざわざ『into the wood』と書いてあるのを省いてしまってる。意味が分からなかったんだろうね」
「なるほど」
「で、別にいいんだよそれは」
「いや、結構重要なとこじゃないの」
「もちろん重要だけど、重要なとこで間違っちゃうことだって、あるじゃないか。人間だもの」
「う、うん」
「私だって、自分では無いと思ってるけど、きっと間違いはあるんだよ。不注意にしても無知にしても。翻訳ってそういうものなんだよ。だけど問題なのはね、この素人の人は、福田が無知なせいで原文が台無しだ、とか言って批判してるわけだよ」
「『既訳』はダメだ、って」
「そう。にもかかわらず、自分はごくごく基本的なことも何も知らず、全然訳せてないじゃないか! 既訳がある状況で、後出しジャンケンで楽な立場で訳していながら、先行訳を『知識が無い』と批判して、それでいて自分が一番知識が無いんじゃあ、話にならない、素人レベルというより素人未満だよ。だって素人は既訳批判なんてしないんだから!」
「まあ、そう興奮するなよ」
「いいか、一つだけ言っておく!」
「言ってもいいけど落ち着いて言えよ」
「この訳者はねえ」
「…」
「この人は、偉いねえ」
「はあ?」
「世間を見てみなさいよ。人の批判はするのに、自分では何もせず、根拠も出さず、ただただ人を馬鹿にし続けるような奴らばかりだよ」
「まあ、ネット上には多いね」
「amazonで翻訳書のレビューなんか見ても、『この翻訳は全然ダメだ、日本語になってない』とか悪口を並べるのに、どこがどうダメなのか具体例が一個も出てないような、どうしようもない批判ばっかりだよ。そんな中、この人は、自分もちゃんと土俵に乗ってる。たとえプロたちの訳には敵わないとしても、でもちゃんと自分の訳を作り上げて、公共的に批評可能な形で代案を提出して、プロと同じ土俵で戦ってる。これは立派だよ」
「なんか、コメントに困るけど、とりあえず君は何様なんだという感じはするね」
「否めない」
「謝罪すべきじゃないかな」
「申し訳ありませんでした」
「まあ…、ともかく、これで他の訳が片付いたわけだね」
「うん、残るは、新潮文庫の福田訳と、光文社の小川訳」
「どうよ」
「いま思い出したんだけど」
「何を?」
「ずいぶん前に、『七分待ちやがれ』みたいなことを自分が言った気がする」
「あ、確かに言ってた気がする。でも何を待たされたのか全く覚えてない」
「私も覚えてなかったんだけど思い出した。どんな論文を読んだのかって聞かれたんだった」
「ああ、そう、だっけ?」
「そうだよ。で、それにこれから答えます。文学研究の論文を読むのはあまり得意じゃないのに、参考文献の数が結構増えてしまったのは、『老人と海』にまつわる二つの問題に興味を持って深入りしたからなのでした。一つは、福田訳批判。二つ目は、マノーリンの年齢問題」
「あー」
「マノーリンの話は後でするので、七分待ってくれ」
「どうせまた忘れるけど」
「後で…、するのか。年齢の話、説明が面倒なんだよな」
「だから別にいいって」
「ともかく、まずするのは、福田訳批判の話。新潮文庫の福田恒存訳は、五〇年以上前から読まれ続けているけど、その一方、批判も多い」
「その批判を色々読んでたわけね」
「その通り」
「批判ていうのは、誤訳の指摘が多かったの? さっき言ってた、シイラをイルカと誤訳したとか」
「そうだね。あまりに誤訳があったので、福田訳は実は弟子が訳したんだろう、っていう説もあるくらい」
「へえ。どんな誤訳があるの?」
「いや、ここは、声を大にして言っておくと、いまの新潮文庫で出回ってる福田訳ではほぼ全ての誤りは訂正されてるんだよ。だから基本的に問題はないよ。当初ひどかった、というだけで」
「ほぼ、ということは今も多少は残ってるの?」
「いま手元にある、二〇〇三年改版の新潮文庫版で見ると、例えばスペイン語の『El Campeon』、つまりザ・チャンピオンを、『選手』と訳してるのは誤訳だろうね。あと『鮫はすばやくともに追った』(p.116)というのは、『ともに迫った』の誤植じゃないかな。あとはまあ、小川訳の解説が指摘してるように、『声に出して』を意味する『aloud』を福田訳は全て『大声で』と解釈してる問題がある。でも、aloud問題を除けば、拙訳を含め誰の訳にもありうる問題だよ」
「ふーん。じゃあ、他の訳にも、実はそういう誤りはあるんだね」
「うん、小川訳にも谷訳にも誤りはあって…、あ、じゃあ一つだけ、谷訳の誤りを指摘しておこうか。谷訳は、サメの種類を間違ってる」
「谷訳っていうのは…、『釣文学全集』のやつか」
「そう。サメの種名をちょっと誤解してる」
「サメって、デンツーソだかガラノーだか、そういうの?」
「そうそう、この物語には、サメが2種類でてくる。
(1)デントゥーソ(牙野郎)=アオザメ。賢く美しく残酷。
(2)ガラノー(まだら野郎)=シャベル鼻のサメ。腐肉をあさる。
この2つだ」
「うん」
「このガラノーのほうを指す『shovel-nosed sharks』を、谷訳は『撞木しゅもく鮫』と訳してる」
「それが間違いなの?」
「シュモクザメというのはどういうサメかというと、なんか、頭がカナヅチみたいな形で、F1のレーシングカーみたいな形の頭なんだけど、分かる?」
「ハンマーヘッドシャークのこと?」
「そうそう、その通り。そのカナヅチ頭のサメと、シャベル鼻のサメは、混同しそうだけど全然別なんだよ」
「シャベル鼻ってどういうことだろう」
「シャベルって、先が丸くて平べったくなってるでしょ。ああいう形の頭なんだよ。ハンマーヘッドみたいな奇抜な形じゃなくて、もっと普通にサメっぽい感じ」
「ふーん」
「で、なぜこれをいま話したかというと、ありがちな間違いなんだよね。『老人と海』の漫画版でも全く同じ間違いをしてる」
「漫画版なんてあるの? マンガで読破ってやつ?」
「いや、私の嫌いな『マンガで読破』シリーズじゃなくて、『ホーム社MANGABUNGO』シリーズってので、『そのさなえ』さんという人が漫画化してるんだけど」
「絵がハンマーヘッドシャークになってるわけね」
「そう。でもこの漫画は決して変なものじゃないから、全然批判するつもりはないんだけどね。ラストの解釈も、私の解釈とは全く逆だけど、なるほどっていう感じだし。とにかく、サメは間違えやすいので、一応ここで言っておきます」
「はい」
「で、ええと、なんだっけ」
「福田訳についてコメントするんじゃないの?」
「あ、そうか、うーん、どうしようかな。難しいなあ…」
「難しいのか」
「うーん」
「…」
「うーん」
「…」
「もう疲れたよお」
「何で急に疲れちゃったんだよ、じゃあもう、いいよ、続きはまた今度で。ちょうど飲み物も空だし、今回はおしまい」
「最後にひとこと」
「何?」
「ごちそうになりました」
「ワリカンだよ」

 続



――スタバにて。

「石波訳『老人と海』を、青空文庫に登録してもらえることになった」
「へー、良かったね」
「まあね。それで、青空文庫用に『作品について』という文章を書いたんだよ」

 中編小説 "The Old Man and the Sea" の全訳。原著の初出は、米国の雑誌『ライフ』の1952年9月1日号。大魚に挑む老漁師の戦いを通じて、人間の尊厳、自然の厳しさと美しさを描く。ヘミングウェイの特徴である簡潔な文体は貫かれているが、初期のように外面描写を徹底する姿勢は薄れ、老人の内的独白が多用されている。単行本は1952年9月8日にスクリブナーズ社から刊行され、翌年ピュリツァー賞を受賞。本作の成功が、ヘミングウェイのノーベル文学賞受賞につながった。
 翻訳はジョナサン・ケープ社版を底本とし、2015年7月に発表された。

「ふーん。辞書みたいな文章だね」
「まさに。できるだけ個性を殺した文体で書いたからね」
「しかも『人間の尊厳』って使ったんだね」
「前回話したけど、ヘミングウェイ自身が言ってるわけだからね」
「たったこれだけの長さの文章なのに、わざわざ初期ヘミングウェイの文体と『老人と海』の文体を比較してるのは、こだわりがあるの?」
「こだわりというか、そこは実は、福田恒存への批判なんだよ」
「そうなの? 福田訳は文体がダメだってこと?」
「いや違う。福田訳そのものへの批判じゃなくて、福田訳の後にくっついてる訳者解説への批判」
「ああ、なんか、アメリカ文学とヨーロッパ文学の違いとか、そういう話が書いてあったやつか。よく覚えてないけど、わりと面白かった気がする」
「そうそう、その解説が、かなり特殊な読み方をしてる解説なんだよ。『老人と海』について、例えばこう書いてる。『なんの感情的な抒情もなく、ハードボイルド・リアリズムは手堅く守られており、眼に見える外面的なもの以外はなにも描くまいと決心しているようです』。」
「ふーん」
「『老人と海』に叙情がない? 外面的なもの以外は描かない? どういうことだ?」
「まあ、普通に『老人と海』を読めば、老人の内面ばかり書いてあるように見えるよね」
「純粋に客観的な外面描写、とも福田は書いてる。こういう、非情な外面描写とかハードボイルドというのは、初期のヘミングウェイの作品、例えば『殺し屋たち』とか『武器よさらば』とかに強く見られる特徴なんだよ。ちなみに『武器よさらば』における外面描写については、村上春樹が、確かチャンドラーの『ロング・グッドバイ』の訳者解説で説明してる。で、まあ、ハードボイルドはともかくとしても、客観的な外面描写というのを『老人と海』の文体にあてはめるのはちょっと無理筋だ。と、私は思う。世間の読者がどう思ってるのかは知らないけどね」
「でも小川さんも触れてたような」
「小川高義さんが?」
「光文社版の解説に書いてなかったっけ」
「あっ、そうか、そうだそうだ、光文社の小川訳の、解説じゃなくあとがきのほうだね。『老人と海』が客観的な外面描写とは思えない、という趣旨のことが書いてある。深く論じてるわけじゃなくてさらっと触れてるだけだけど、それで私は励まされたんだ。それを読むまでは、もしかして多くの人が福田解説に賛成なのかなって思ってたから」
「でもさあ、『老人と海』に、老人の意識の流れ的な描写が多いのは、誰が見ても明らかじゃん。にもかかわらず福田さんはあくまで『客観的な外面描写』と言ってる、ということは、それが矛盾ではないという理屈があるんでしょ、きっと」
「福田解説には一応その説明もあるから、興味があったら読み直してみてくれ」
「いま説明しないの?」
「どう書いてあるかは説明できるけど、結果、私にはよく理解できないから」
「じゃ、後で読んでみるよ」
「うん。…ちなみに、ネットを見ると、この外面描写というのに触れてる人がたまにいるんだけど、たいがい肯定的というか、『老人と海』は徹底した外面描写の名作です、みたいなことを書いてるね」
「へえ、まあでも、訳者が解説にそう書いてるんだからそのまま信じちゃうのも分かるけどね」
「訳者解説だけじゃなくて、新潮文庫の裏表紙にまで書いてあるせいで、余計に読者に浸透してる気がするんだよ」
「ああ、裏表紙の、あらすじとか書いてあるところ?」
「そう。そのあらすじの最後の一文に、『徹底した外面描写を用い、大魚を相手にして雄々しく闘う老人の姿を通して自然の厳粛さと人間の勇気を謳う名作』と書いてある。ここを書いた編集者は、訳者解説をそのまま飲み込んだわけだね」
「まあ、編集者の立場上仕方ないんじゃないかな」
「いや、まあそれはいいとしても、このあらすじ、ひどいんだよ。外面描写の話とは別の話だけど」
「ひどいの?」
「ひどい」
「でも、『老人と海』って筋が単純だから、誰が要約しても大して変わりなさそうだけどな」
「いや、要約が下手とかそういうことじゃなくて、要約してしまってるのが問題なんだよ」
「?」
「つまり、この話のあらすじを書く場合、まず、不漁続きの老漁夫が一人で海に出て、って説明するでしょ」
「うん」
「で、例えば光文社版の裏表紙を見ると、物語の内容の紹介は、『巨大なカジキが仕掛けに食らいつき、三日にわたる壮絶な闘いが始まる……』までなんだよ」
「まあ、普通だね」
「普通はこうなんだよ。ところが新潮文庫版では、『死闘ののち老人は勝ったが、帰途サメに襲われ、舟にくくりつけた獲物はみるみる食いちぎられてゆく……』まで書いてあるんだよ」
「おー、なんというか、最後の『……』の意味がないくらい、最後まで書いてあるね」
「そうなんだよ。だって、獲物を食いちぎられたら後はもう、帰って寝るだけだよ」
「いやまあ、サメとの闘いもあるけどね」
「これ全部書いちゃうのはどうなのかなって。しかも、どこでも手に入る新潮文庫の裏表紙に書いちゃったら」
「うーん、でも、大衆的なエンターテイメント小説というか、推理小説なんかでは、確かに絶対やっちゃいけないことだろうけど、文学だからなあ」
「文学ならいいと思う?」
「なんというか、大衆小説だったら、『この先どんな展開になるのか』ってハラハラさせて、衝撃のラストが明らかになったりして、それを楽しむわけだから、そこを最初にネタバレしちゃったら台無しになるのは分かるんだけど、文学ってやっぱり、何度も読み返せるというか、話の結末まで知ってて読んでも意義があるものだよね。文学ってそうでなくちゃいけないと思うし、だから、物語の結末を明かすこと自体が悪いとは必ずしも言えないんじゃないかなあ」
「それは分かる。いや、つまり、文学は話の結末を知ってても楽しめるものだ、というのは分かる。もっと言うと、別に大衆小説だって、結末を知ってても楽しめるものはいくらでもある。そして『老人と海』についても、結末を知っててもその良さを味わうことはできる、というのは分かる」
「前回の話に出た、年を取ってから再読すると良さが分かるなんてのは、当然オチが分かってて読んでるわけだしね」
「そうだね。だけどここで問題なのは、だからといって、文学に、結末を知らずに読む楽しみが無いというわけではない、ということなんだよ」
「うん?」
「つまり、結末が分かってても楽しめる小説、というのがあったとして、そういう小説であっても、結末を知らずに初めて読むときには、初めての時ならではの楽しみがありうるでしょ」
「まあ、そうだね」
「事前情報なしで読む読者は、『老人はカジキに勝てるのかな、もしかして老人は海の上で死んじゃうのかな』とか、『カジキに勝って良かったな、帰ったら少年も喜ぶだろうな』とか、そういうことを考える余地があるんだよ」
「うん」
「ところが新潮文庫は、そういう読み方を読者からあらかじめ剥奪している。これは良くないぞ、という話」
「確かにそう言われるとそうかもしれない」
「だから私としては、新潮文庫は、訳者解説を普通の研究者が書き直して、裏表紙のあらすじも普通の編集者が書き直して、新しく出版し直すべきだと思います」
「解説は現行のままのほうが面白いんじゃない?」
「まあ解説はどっちでもいいです。ついでに新潮文庫は谷崎潤一郎作品の裏表紙も何とかしてください」
「知らないけど、それはともかく、福田訳の訳文自体はどうなの。言いたいことはないの?」
「いや、それで、前回詰まったんだよね」
「そうなんだよ」
「難しいな。うーん」
「名訳なの?」
「難しいね。小川訳との比較でいうとね、福田さんはわりと、福田の流暢な日本語に訳してる、って感じなんだよ。あまり迷いがない」
「ふーん。小川さんは?」
「私が小川訳を読む場合、原文があって自分の訳があって、その上で小川訳を読んでるわけ。だからこそすごく感じるんだと思うけど、訳文がとても練られてる感じがする」
「練られてるってのは?」
「原文をそのまま訳すと、日本語として座りが悪いな、とか、論理的なつながりがよく分からないな、とか、そういう箇所って必ずあるわけだよ。英語で読んでる分には問題ないのに、日本語にすると妙な感じになる」
「へえ」
「で、何も考えてない訳者は、何も考えずそのまま訳すから、座りの悪い、前後のつながりが分からない訳文になるわけ」
「うん」
「福田訳は、じゃあしっくり来る表現に置き換えて、つながるような接続詞をつけて、流れるように訳そう、という感じだけど、小川訳は、もっと粘るんだよね」
「粘る?」
「つまり、こう書き換えてしまえば簡単なんだけど、原文にこう書いてある以上、あまり勝手なことはしたくない。どうにかして上手い落としどころを見つけられないかなあ、って、粘るんだよ」
「なるほど」
「ただ、当然なんだけど、迷いが訳文に出てるわけじゃあない。さっき、福田訳は迷いがないと言ったけど、小川訳だって訳文自体には迷いはない。迷いのない原文を訳すのに、迷いが訳文に出ちゃったらダメな訳文になっちゃうからね。ただ小川訳は、整った訳文を作る上で、それを作る過程で、しっかり迷って吟味して、良い表現にたどりついたんだろうな、と思わされる箇所が結構あったんだ」
「へえ」
「もっと言うと、私が訳したときに、こういう訳はありうるけどちょっと自由すぎるかな、でも原文に近づけると分かりづらくて嫌だな、と悩んだところがあるでしょ。そこを後から小川訳で読んだときに、『そっち行ったか〜、分かる、分かるけど私はこっちに踏みとどまった!』みたいに一人でテンション上がったみたいなのはあるね。あ、でもそう考えると、小川訳も、粘るとはいえ原文の表現にはそれほど囚われてないんだよな、私が囚われてるほどには」
「面白いね。ぜひ、具体的に例文を出して説明してほしい」
「うーん、それが、メモとか取ってないんだよね」
「記憶にも無いの?」
「どの箇所でどう思ったとかは驚くほど覚えてないんだよ」
「そうかあ、残念」
「細かいとこはほんとに忘れてしまう。実は、いまこうして必死に喋ってるのは、忘れる前に伝えておこう、というのもあるんだよね。時間が経つと綺麗に忘れちゃうから。でも細かいことを覚えてないってことは、大きなこともちゃんと覚えてないかもしれないんだよね。だからもしかすると、いま言ったことも全部記憶違いなのかもしれない」
「全部ってことはないだろうけど」
「もう、私が、『老人と海』を訳したことも記憶違いかもしれない」
「いや…」
「あっ」
「えっ?」
「一つ、言っておかなくちゃいけない。小川訳はしっかり迷って練られてる、と言ったけど」
「うん」
「本当に小川さんが迷ったかどうかは知らないよ。小川さんが迷ったというのは、私じゃ迷わないとその表現まで辿り着かないという事実からの類推に過ぎないんで、もしかしたら、小川さんは大して迷わなくてもそういう表現がぽんぽん浮かんでくるのかもしれない。そこは別に本人に聞いたわけじゃないから、どれくらい悩んだり迷ったりしてるかは知りません」
「まあ、そりゃそうだ」
「でも確かに言えるのは、訳者として勝手なことをしない、ということと、ちゃんとした日本語を書く、ということを両方とも大事にするという点で、小川訳は相当な成功を収めている、ということだね、私の見る限り」
「なるほど」
「相対的な問題だけど、福田訳はやっぱり、『原文にこう書いてある』ということから自由なんじゃないかな、比較的。あとはまあ、単純に小川訳のほうが新しいわけだから、より良いのは当然なんだけどね」
「前の訳を踏まえて訳せるから?」
「それもあるけど、加えて、文章の新しさというか。例えば、小川訳の『親父』が、福田訳では『おとっつぁん』になってるのは、単純に『古い』っていうのが原因でしょ。訳者の能力とかよりも」
「それはそうだね」
「新しいって意味ではね、本当は石波訳は画期的に新鮮な訳になるはずだったんだよ。例えば些細なことのようだけど、私が翻訳を始めた時点で出てた四つの訳は、老人が引っ張るものを『綱』と訳してたからね。石波訳が初めて『ロープ』と訳すはずだったんだ」
「小川訳に、先を越されたわけだね」
「先を越されたね。まあ、そのおかげで私は、推敲する上で小川訳を参考にすることができたわけだから、結果的に翻訳のクオリティは上がったんだと思うけど」
「へえ」
「…福田訳と小川訳に言えるのは、このくらいかなあ」
「じゃあ、今までの話を踏まえて、石波訳はどうなの?」
「どうって」
「自由さとか、迷いとか、そういう観点から見たら、石波訳は」
「うーん、名訳と比べるのは気が引けるね」
「でも色々こだわりもあるでしょ」
「そりゃそうだけど。まあさっき使った言葉で言うと、意識したのはやっぱり、『訳者として勝手なことをしない』かつ『ちゃんとした日本語を書く』の両立、だね。あとはもう、全力を尽くした、としか言えないかなあ。あ、でも細かいことをいくつか言っておこうか」
「どうぞ。あっ」
「どうした?」
「いや、もうこんな時間だ。帰らなきゃ」
「そうなのか。じゃあちょっと待って、これ、貸すから、よかったら読んでみてよ」
「ああ、光文社版。そうだね、あと、石波訳もネットで見てみるよ」
「うん。ぜひ感想を聞きたい」
「分かった。じゃあまた」
「うん、また」

 続



――再び居酒屋にて。

「カルーアミルクのカルーアって何語ですか」
店「えっ…」
「いや何でもないです。レモンサワーで」
「生チューと、シーザーサラダと串焼き盛り合わせを下さい」
店「かしこまりましたー! 失礼します」
「ふう」
「店員さんに嫌がらせをするなよ」
「だってあんなに困惑した顔をするとは思わなかったんだよ。以後気をつけるよ」
「それはそうと、これ、小川訳、ありがとう。返すよ」
「ああ。読んだ?」
「ところどころ、石波訳と見比べながら読んでみた」
「どうだった?」
「三つ気になるところがあって」
「うん」
「三つとも石波訳批判なんだけど、いい?」
「もちろん。歓迎」
「批判その一。小川訳も石波訳も、こなれた日本語にはなってると思うんだけど、読み比べると、石波訳にはちょっと気になるというか、不自然ってほどじゃないけど、妙な部分がある気がするんだよ」
「うーん、例えば?」
「例えばというか一種類だけなんだけど、石波訳って、『老人は言った』とか『少年は言った』とか、『彼は考えた』とか『老人は思った』とか、多いよね」
「ああ! 多いね」
「ちょっと気になったんで小川訳でそういう部分を見てみたら、見事に全部、そういう表現が無いんだよ。例えば…ここ」

石波訳:おそらく、俺がほんの少しロープの張りを強めるだけで、奴は痛がって跳ね上がるだろう。彼は考えた。もう夜は明けたんだ、奴を跳ねさせてやろう。

小川訳:いまロープを引っ張ってやれば、苦しがって出てくるかもしれない。これだけ明るくなったのだから、そのように仕向けてもよい。(p.53)

「そうだね。小川訳では大抵こういうふうに、省略されてるね」
「当然これは、原文には『he thought』があるんでしょ?」
「もちろん。原文にあるから石波訳は律儀に全部訳してるんだよ」
「でも、原文にあるからって全部訳すのが本当に翻訳として良いことなのか、って思うんだよ。だって、そもそも日本語の普通の文章って、『彼は』とか『彼女は』とかをいちいち書かないことが多いでしょ。君の訳だって、『He is』を全部『彼は』とは訳してないでしょ?」
「もちろん、省いてることも多いね」
「だとしたら、原文で例えば『he thought』と書いてあっても、出てくるたび全部訳すんじゃなく、必要な時以外は省く小川訳のほうが、より自然な日本語になるんじゃないかな。老人の頭の中の独り言が出てくるたびに『彼はそう考えた』って、書かなくても分かるし」
「それは重要な問題だと思う。訳しながら、どうしようか結構考えた」
「考えた結果、訳すことにしたってこと?」
「そうだね」
「なぜ?」
「いやだって、ちょっと待って、いくつか答え方があるけど、まず」
「うん」
「とりあえずは、明らかに日本語として不自然というレベルではない以上、訳さない理由がない。原文にあるんだから。というか私の訳でも、流石に不自然かなと思うところは省いてるよ。でも基本的には訳してる。だって原文に書いてあって、なおかつ、訳出しても問題が起きないから」
「じゃあ、君からしたら、小川訳は省略すべきでない部分を不当に省略してるってこと?」
「いやいや、そんなことはなくて、そりゃ英語の『he』や『he thought』と、日本語の『彼は』とか『彼は考えた』では重みが変わってしまうのは分かるし、日本語では省いたほうが読みやすくなるという主張も意味は分かるから、省いたってそれはそれでいいんだよ」
「方針が違うということ?」
「まあつまり、小川訳が、『なくてもいいなら訳さない』である一方、石波訳は、『あってもいいなら訳す』という感じなんだよね。あとはそもそも、日本語の感覚が違う可能性も高いよね」
「君のほうが小川さんより、『彼は考えた』を許容する感覚を持ってるということ?」
「そうだね。哲学みたいな話になるけど、私がヘミングウェイを翻訳するというのは、もちろん、英語から日本語に訳すことなんだけど、もっと言うと、ヘミングウェイの言語から私の言語に訳すということでしょ」
「うん」
「だから、私の日本語訳というのは、私の日本語への訳だし、小川さんの日本語訳というのは小川さんの日本語への訳なんで、『自然さ』みたいなレベルでは違うのは当然なんだよね。違う言葉に訳してるんだから」
「まあ、分かる」
「今の話に即して言うと、確か…柳瀬尚紀さんが書いてたんだけど」
「フィネガンズウェイクを訳した人?」
「そう、その人。その柳瀬さんの翻訳指南みたいな本を学生のころ読んだんだけど、そこに、『彼は』とか『彼女は』とか『彼の』とかそういうのは省け、って話が書いてあるんだよ」
「へえ。まさに、小川訳の方針だね」
「まあだから、わりと穏当な考え方なんだけどね。で、そこで芥川龍之介がいくつか引用されてるんだよ。これらの芥川の文章みたいに、わざと代名詞を繰り返す特殊な文章もあるけど、そういう特殊なケースを除いては、日本語では普通『彼は』とかいちいち書かないよ、というわけ」
「うん」
「ところが、私の感覚では、そこで引かれてる芥川の文章は特殊じゃないんだよ。日本語小説におけるひとつの典型的な文体という感じで」
「なるほど」
「だからまあ、元々『彼は考えた』をより許容できる感覚の私が、原文にある表現はできるだけ訳文にも出現させたいという方針で訳した結果、石波訳のような形になった、ということだね。ただ、私の感覚はいつもあまり変わらない一方で、私の方針は作品によって変わるから、常に同じような方針を採るわけじゃないけどね」
「ふーん」
「小川は省くのになぜ石波は訳すのか、に対する第一の答えが、以上」
「なるほどね。じゃあ第二は?」
「第二は…、うーん。そもそも『老人と海』の原文には、『he said.』や『he thought.』が多いんだよね」
「へえ」
「明らかに多い、と私には見える」
「まあでも、老人の独り言と老人の思考の記述が多いわけだから、不思議ではない気もするね」
「いや、不思議だよ。だって、書かなくても分かるんだから」
「ああ、確かにね」
「しかも、ヘミングウェイというのは、まさにこういう『he said』みたいなのを省くのが大好きな人なんだよ、元々は」
「そうなの?」
「そう。私が勝手にそう感じてるだけじゃなく、複数の研究者がそう書いてる。私の好きな短編の『清潔で明るい場所』なんて、省きすぎて台詞だけたくさん並べてるせいで、どれが誰の台詞か分からなくなってるくらい」
「そうなんだ」
「で、そのヘミングウェイが晩年に書いた『老人と海』には、なぜか、『he said.』や『he thought.』が多い。文体上の特徴として誰か論じてるのかもしれないけど、残念ながら私はそういう論文を知らない。どこかにあるのかなあ」
「さあ」
「まあ見つかったとしても英語論文だろうから、私の力ではそう気軽には読めないんだけど。ともかく、原文には、そういう特徴があるように見える」
「うん」
「ということは、だよ。この、原文が持ってる特徴を、訳文に反映したければ、『彼は考えた』としっかり訳出するしかないでしょう」
「うーん、確かに」
「だからもし、この点で君が石波訳に違和感を覚えたとすれば、それは原文に存在する特徴に由来するというわけ。正確に言えば、原文に存在する特徴だと私が思ったものに、だけど」
「なるほどね」
「この特徴は、ネイティブが原文で読んでも感じる特徴だろうから、日本人が日本語訳で読んでも感じられたらいいよね、ということなんだよ」
「ネイティブに聞いたの?」
「いや、残念ながら私にはネイティブの知り合いが一人もいない。これは翻訳者としてすごく重大なハンデなんだけどね」
「じゃあ、ネイティブも感じるというのは君の推測なの?」
「まあそうなんだけど…、この、原文の引用を見てほしいんだよ。老人が戦いを終えて、村に到着する直前の部分」

The wind is our friend, anyway, he thought. Then he added, sometimes. And the great sea with our friends and our enemies. And bed, he thought. Bed is my friend. Just bed, he thought. Bed will be a great thing. It is easy when you are beaten, he thought. I never knew how easy it was. And what beat you, he thought. (強調は引用者による)

「たくさんあるね! 『he thought』が」
「これだけの長さのパラグラフに、なんと五回も『he thought』が出てくる。ちなみに、このパラグラフでさえ、小川訳は『he thought』にあたる表現を一回も使っていない」
「五回とも省いてるんだね」
「ちなみに、福田訳は、『とかれは思う』と繰り返し四回訳してる」
「なるほどね、これは確かに、さらっと見過ごせないね。いや、見過ごせないというか、あっても無くてもいい『he thought』ではない、って感じがするね」
「だとすれば、少なくともこのパラグラフでは、何らかの形で訳出したほうがいいんじゃないかと思うんだよ」
「石波訳では、律儀に五回訳してるの?」
「いや、一回は省いて、残り四回は微妙に表現を変えながら訳してるね」
「全部は訳さなかったんだ。どうして?」
「やっぱり、訳文があんまり不自然になっちゃまずいから、そこのバランスのぎりぎりのところで、四回にしたのかなあ。いやでも、いま原文読んでると、やっぱり五回訳すべきという気もしてきた」
「不自然になっても?」
「いやむしろ、中途半端に不自然さを隠しながらちょこちょこ出すんじゃなく、『he thought』をがっつり前面に出しちゃったほうがいい。ここでは文学的効果を意図して『he thought』を繰り返してるんだ、と読者に伝わる訳文を作る方向にしてしまったほうが、よさそうだ」
「よく分からないな」
「あ、これは抽象的に言っても伝わらないよね。具体的に訳文を見せないと。まあ、直したら見せるし、でもまた帰って検討したら直さないかもしれないけど」
「まあそれはどちらでもいいけどね」
「ついでに言っておくと、サンチャゴってそもそも、考えるのが好きな人なんだよね。ここに書いてあるけど」

しかし彼は、周囲のどんなことについても、考えるのが好きだった。読むものも無く、ラジオも無いので、ずっと考えていた。

「ああ、そうだね」
「だからやっぱり、『彼は考えた』を連発してもいいかなってのもあるんだよね。好きだからたくさん考えてますよって感じで」
「なるほどね」
「まあそんな感じだね、私の考えは。この『he thought』の話は、言っておきたかったから良かったよ」
「私も納得したよ」
「よかった。ただまあ、私と君が納得したところで、大して英語のできない日本人が理屈で話してるだけだから、本当はもっと英語の分かる人に教えを請いたいところだけどね」
「ネットで適当に聞けばいいんじゃないの?」
「でも、例えばヤフー知恵袋とかで日本人に日本語の語感について質問したとして、まともな答えが返ってこない可能性がわりとあることを考えると、適当なネイティブに聞いても、どうなのかなと思うよね」
「じゃあしょうがないね」
「しょうがない。まあだから、現時点では、今説明してきたようなことを回答としておくけど、いざとなれば素早く撤回する用意はあります」
「はい」
「で、ちょっと今ひとつ、話法に関して思い出したんで言っておきたいんだけど…」
店「失礼します! こちら生チューと、カルーアミルクと、シーザーサラダと串焼き盛り合わせになります」
「あれ」
店「それと、カルーアは、アラビア語でコーヒーを表す俗語『カフワ』から来てるそうです!」
「えっ、あっ、そうなんですね、アラビア語」
店「はい!(笑顔)」
「ありがとうございます」
店「とんでもないです! 失礼します」
「良かったじゃない、分かって」
「いや、まあ、カルーアの注文はしてないけどね」
「これは完全に、動揺させた君が悪いから、仕方ないね」
「まあいいか、嬉しそうだったし」
「そうだよ。きっとスマホで調べたんだよ。忙しいのに」
「そうだね。反省するよ」
「で、何か、思い出したんだっけ」
「?」
「話法について何か思い出したんでしょ」
「ああそうだ、話法ね。『老人と海』の文体上の特徴について書いてる人がいて…、えーと、日経新聞に、『半歩遅れの読書術』というコーナーがあるんだけど、そこで、野谷のや文昭さんが『小説の話法と効果』っていうタイトルで書いてたんだ」
「野谷さんというのは、文学の人なの?」
「ラテンアメリカ文学の研究者で、ボルヘスとかガルシア=マルケスとかバルガス=リョサとか、色々翻訳してる」
「へえ。で、『老人と海』を論じてるんだ」
「うん、『老人と海』についてこう書いてる」

筋を追うだけでは気づかないが、直接話法に加えて、間接話法、そして大量の自由間接話法が使われている。舟の上の老人の意識はもっぱらこの自由間接話法によっている。当然だ。やってきた鳥や格闘の相手のカジキマグロに話しかけても、答えてはくれないのだから、会話は独白にならざるをえない。だから三人称の語り手が、老人の様子や周囲の状況の描写を行うだけでなく、彼の手助けをして、昔黒人の腕相撲をした思い出や、ライオンがいるアフリカの海岸の夢の内容を読者に伝えるのだ。

「うーん」
「分かる?」
「分からない。自由間接話法って?」
「話法の説明は面倒だなあ。まあ、そうだなあ、うわああああ!」
「なんだなんだ」
「直接話法と間接話法はいいけど、自由間接話法の実例を作って説明する面倒くささを想像したら、嫌すぎて驚いちゃった」
「いや、そこを頑張れよ。というか直接と間接は私でも分かるし」
「じゃあ、自由間接話法は面倒だから、まあそういう話法があるとだけ思ってよ。知りたかったら、『自由間接話法』とか『描出話法』とかでググってよ」
「で、それが『老人と海』に使われてる、と」
「いや違う。使われてないんだよ」
「野谷さんの文章に書いてあるじゃん。大量に使われてるって」
「全く使われてない。大量に使われてるのは、自由間接話法じゃなく、自由直接話法」
「また新しいのが出てきた」
「自由直接話法は簡単に説明できるよ。『老人と海』って、老人の心の中の台詞がたくさん出てくるでしょ」
「そうだね。老人が考えてることをそのまま描写してる部分が多いよね」
「だけど、その心の中の台詞には、カギカッコがついてないでしょ」
「ああ、そうだね」
「例えばこう」

奴が眠ってくれたらいい。そうすれば俺も眠って、ライオンの夢を見られる。彼はそう思った。なぜ俺の夢にはライオンだけが残ったのだろう。考えるな、爺さん。彼は自分に言い聞かせた。板にもたれてゆっくり休んで、今は何も考えないのがいい。奴は動いている。お前は、なるべく動かないようにするんだ。

「確かに、カギカッコがついてないね」
「これ、どこが老人の思考でどこが地の文かっていうと、『彼はそう思った』と『彼は自分に言い聞かせた』だけが純粋な地の文で、それ以外は老人の思考なんだよ」
「そうだね」
「でもカギカッコをつけてないでしょ」
「うん」
「こういうふうに、カギカッコを、というか原文の場合はダブルクォーテーションだけど、そういう引用符を省いたり、『彼は言った』さえ省いたりして、台詞をそのまま地の文に書いちゃうのが、自由直接話法。厳密には、この老人の場合は台詞じゃなくて思考だから、また別の言い方をする場合もあるけど、まあ今はそれはいい」
「なるほど。じゃあ、『老人と海』には自由直接話法が大量に使われてるんだね」
「としか私には思えない。主語が『I』のままになってる時点で『間接』じゃないし。だけど、もしかしたら私の知識や考えが足りないだけで、実は何らかの意味で野谷さんが正しいのかもしれない。分かる人がいたらぜひ教えてほしいね」
「ふーん」
「まあこれは余談です。ちなみに、私の記憶が確かなら、ヘミングウェイの『清潔で明るい場所』には、自由間接話法が結構出てきてた、気がする」
「そうなんだ」
「それじゃあ次に行こう。君からの石波訳批判の、二つ目」
「批判その二、か。えーと、私は、翻訳の特徴って、会話文に出ると思うんだよ」
「それはあるね」
「で、小川訳を読んでみると思うのが、サンチャゴの言葉が、ぞんざいというか、丁寧じゃないよね」
「そうだね」
「具体的には…『だが、人間、負けるようにはできてねえ。ぶちのめされたって負けることはねえ』とか。石波訳とはかなり雰囲気が違う」
「そうだね。私の訳では、『だが人間は、負けるように造られてはいない』だからね」
「サンチャゴって、キューバの田舎の、漁村で暮らす貧しい漁師でしょ。しかも年寄りの。だったら、小川訳みたいに言葉遣いは雑なほうがリアルなんじゃないかな」
「うーん」
「そう思って石波訳と比べてみると、石波訳のほうが、品が良すぎるのかも、って思ったんだよ」
「なるほどね」
「どうよ」
「これはね、いい質問だね。タイミングが」
「どういうこと?」
「いま話法の話をしたばかりだからちょうど良い。ええと、私が小川訳のような言葉遣いで訳さないのには、消極的な理由と積極的な理由がある。まず消極的な理由としては、『言葉遣いを雑にしなきゃおかしいってわけじゃないんだから、普通の言葉遣いでも別によくない?』っていう」
「そりゃまあ、別にいいけど、小川訳のほうがもっといいんじゃないかと言ってるんだよ」
「分かる。君のその意見に対しては、積極的な理由のほうを説明しなくちゃいけないんだけど、それがまさに、自由直接話法だよ」
「カギカッコが無いってやつ? なんで?」
「つまりね、原文を読むと、どこまでが老人の語る台詞や思考で、どこからが語り手の語る『地の文』なのか、区別が曖昧なわけだよ。だって、老人の頭の中の言葉を、カッコなしで地の文に書いてあるんだから」
「まあ、そうだね」
「語り手の語りと、老人の思考とが、分離できない形で溶け合ってる。これを踏まえた上で、老人の会話文を訳そうとした場合、老人の台詞を雑な言葉遣いで訳すとなると、じゃあ地の文に溶け込んだ彼の台詞も雑にするのか、という問題が生じる」
「うーん、そういうことか」
「つまり、原文には三つのレベルがあるわけ。一つ目は、カッコで括られた老人の台詞。二つ目は、地の文の中に溶け込んだ、地の文として書かれた老人の台詞。三つ目は、語り手が語る、完全な地の文」
「うーん、いやちょっと待って。分かるんだけど、一応例文があったほうがいいな」
「ええと、じゃあ、ここでいいかな」

「もうちょっと食うんだ」老人は言った。「しっかり食らいつけ」
 そうだ、鉤の尖端がお前の心臓に突き刺さって、お前を殺してしまうくらいにな。

「このカギカッコに入ってる『もうちょっと食うんだ』と『しっかり食らいつけ』が一つ目のレベルでしょ。二行目は全部、地の文として書かれてる老人の思考だから、二つ目のレベル。残りの『老人は言った。』だけが、純粋な地の文で、三つ目のレベル。で、合ってるかな」
「合ってる。で、一つ目のレベルの台詞を、雑な言葉遣いで訳すとするでしょ。その場合、二つ目のレベルも雑にするの?」
「小川訳はしてないね」
「してない感じだよね。『〜じゃねえ』とか『〜だぜ』とかは、一つ目のレベルだけで使われてる。で、だけど、そうすると、一つ目のレベルと二つ目のレベルの台詞が、どちらも老人の台詞なのに、片方だけ雑な言葉遣いになっちゃうでしょ」
「うーん」
「かといって、二つ目のレベルの台詞まで雑な言葉遣いにしちゃうと、今度は、レベル二とレベル三の文体が違ってしまって、老人の思考が地の文に溶け込んでる感じがなくなってしまう。だからってレベル三の地の文を雑な言葉遣いにするわけにはいかない」
「うーん」
「従って、一つ目のレベルから三つ目のレベルまでを全て、あまり雑でない言葉遣いとするのがよい。以上」
「うーん」
「納得してないようだね」
「いや、言ってることは分かるけどね。だけど…。君の説明だと、老人が声に出してる台詞と、頭の中で考えてる思考とを、ごっちゃにしてるんじゃないかな」
「ごっちゃにというか、まあ同じように考えてるね」
「なんというか、もしこの話の原文が、レベル二とレベル三しかないなら、言葉遣いを変えられないのは分かるんだよ。だけど、声に出してる台詞は全部カギカッコがついて、レベル一になってるわけでしょ」
「そうだね」
「で、頭の中の思考は、全部レベル二の書き方なんでしょ。ていうことは、原文でも台詞と思考とを区別した書き方になってる。なら、それを、声に出して喋ったときはぞんざいな言葉遣いで、頭の中の言葉は特にそうしない、というふうに、訳し分けることは自然だと思うんだけどね」
「うーん、まあ、別にそういう訳し方が悪いとは全然思わないけど」
「じゃあ、どちらもありってことなのか」
「もちろん、私は小川訳の方針が間違ってるとは一切思ってないから。ただ私としては、声に出した台詞も含めてあんまり全体のトーンを変えたくなかったというのはあるかなあ、個人的な好みとして」
「あ、そもそも、レベル一とレベル二では原文でも言葉遣いが違うとか、そういうことはないの? レベル一だけ話し言葉っぽさが強いとか、なまってるとか」
「…無いと思う、多分」
「自信なさげだね」
「いや、それはだって完全に語学的な問題だからね。私の気づいてない部分で、原文にそういう傾向があるんだとしたら、私が原文を読めてないというしかない。そういうことが無いと祈るけど、あるなら教えてほしいね」
「うーん」
「とにかくまとめると、老人の台詞をどのくらい崩すかというのは、老人の台詞以外の部分との兼ね合いもあるのでそう簡単でもない、というのが私の考え」
「まあそれは分かったよ」
「あとまあ、サンチャゴがどういう人間か、というのは読者によって変わることだから、別に唯一の正解があるわけじゃないんで、言葉遣いも色々あっていいよね。私の訳のサンチャゴは、小川訳とか谷訳とか福田訳とは違うサンチャゴだってことで」
「なるほどね。どれが正しいとかじゃないんだね」
「違うだろ!」
「何だよ急に」
「君のことだからこう思ったんだろう。――なるほどそうか、訳者の数だけ解釈があるんだね。どれが正しいとか、どれが間違いとか、無いんだね。みんな違って、みんないい。ダイバーシティが、大事なんだね、って」
「ダメなの? 訳の数だけ解釈があるんでしょ」
「唯一の正解は無い。無数の正解がある。そこまでは正しい。でもそれは、不正解が無いことを含意しない。そうでしょう」
「よく分からない」
「じゃあいいよ」
「説明してよ」
「いや特にこの話は深まらないからいいや」
「勝手だなあ」
「まあそう言わずに。石波訳批判を続けてよ」
「仕方ないな。じゃあ、えーと、いくつめだっけ」
「その三かな」
「批判その三。小川訳には注釈が一つもない。石波訳にはいくつもある。そこは小川訳のほうがいい。と、思った」
「ああ、そこかあ」
「小川訳は、注釈をつけなくても読者が分かるような努力をして訳文を作ってるわけでしょ。石波訳はそこを妥協して、注釈で処理してるよね。福田訳もだけど」
「うーん」
「だって、当たり前だけど、原文には注釈はついてないわけじゃん。それを訳すんだから、訳文にも注釈はついてないほうが、絶対いいでしょ」
「そう思う?」
「思うよ。思わないの?」
「まあ、これも、検討した結果、注釈つきで訳すほうを選んだんだよね」
「てことは、注釈なしでも訳せるけどそうしなかったってこと?」
「そう」
「なぜ?」
「うーん。注釈なしって、そんなに嬉しいかなあ」
「物語に入り込んでる時に注釈があると、なんか引き戻されるというか、邪魔でしょ」
「どうだろうなあ。古い文庫本なんかで、注釈が全部巻末にあったりするとすごく面倒で嫌だけど、ページの隅とか文中にカッコ書きされてる注が少しあるくらいなら、全然邪魔って気がしないんだよなあ。むしろ有難いくらいで。まあでも最初に言っておくと、私も注釈を少なくする努力はしていて、全部でたった三つしかつけてない。うち二つは言語の問題。具体的には…」

(1)「ケ・ヴァ(※とんでもない)」少年は言った。「そりゃ、なかなかの漁師はいっぱいいるし(略)」
(2)カタルーニャ製のコルデル(※ロープのこと)を二〇〇尋分

「スペイン語だね」
「『老人と海』は、舞台がキューバだからたまにスペイン語が出てくるよね。だからどうしても、注釈の必要が出てくる」
「ここは、小川訳ではどうなの?」
「こんな感じだよ」

(1#)「ちがう。うまい人はたくさんいて、名人もいるけど(略)」
(2#)カタロニア産のロープを二百尋ばかり

「なるほどね」
「小川訳では、この二箇所については、原文がスペイン語になってるってことが全く分からない」
「分からないと、まずいかな?」
「まあ、分からないからどうした、と言われれば、別にどうもしないんで、だから分からなくてもいいと言えばいいんだけどね。でも私としては、あえてヘミングウェイがそこだけスペイン語を使ったわけだから、それが分かるようにしたかったんだよ」
「でもスペイン語になってるのってこの二箇所だけじゃないでしょ」
「うん。ここ以外を石波訳がどう訳してるかというと、ルビで処理してる。例えば、『酒屋ボデガ』とか。小川訳も同じだね」
「でも、じゃあ全部ルビで処理すればいいんじゃないの。なぜ二箇所だけ注にしたの?」
「もしルビにするとしたら、どうする?」
「『ケ・ヴァとんでもない』、それと、『コルデルロープ』、でいいんじゃない」
「嫌だなあ」
「どうして?」
「だって、『酒屋ボデガ』とか、他にスペイン語じゃない例では『手鉤ギャフ』とか『レイピア』とか、書いてるんだよ」
「ん? だから?」
「つまり、本文のほうに意味を表す漢字、ルビのほうに原語の読み、を書いてるんだよ。なのに『コルデルロープ』じゃ、本文が原語で、ルビが意味で、逆になっちゃうじゃないか」
「じゃあ逆さにすればいいだけでしょ。『ロープコルデル』にすれば」
「カタカナにカタカナでルビを振るの自体が嫌だなあ。というか、そうまでしたらもう注釈つけてるのと変わらないんだよ。だったら、素直に括弧書きで注釈をつけちゃったほうがシンプルですっきりしてる感じがする」
「『とんでもないケ・ヴァ』、もダメなの?」
「注にしたほうが落ち着く」
「私はそうは思わないけど、まあ訳者がそう感じるなら仕方ないか」
「で、注はあと一つある」

(3)船のすぐそばを漂うカツオノエボシだけだ(※カツオノエボシとは電気クラゲのこと。老人はこれを「悪い水」という意味のスペイン語で「アグア・マーラ」と呼ぶ)。

「そうそう、これが一番気になったんだよ。妙に長文だし」
「注をつけずにはどうにもならなかったんだよなあ。カツオノエボシを説明なしで出すのはちょっとハードルが高いし。あと、この直後に老人が『アグア・マーラか』って言う台詞があるんだけど、流石にそれを『アグア・マーラ(※悪い水)か』ってすると注釈が邪魔だから、この一箇所にまとめて書いたんだよ」
「小川訳ではどうしてるんだっけ」
「そもそも小川訳では、カツオノエボシとは訳さず『電気クラゲ』と訳してるから、説明なしでも感覚的に伝わる。それで台詞のほうは、『悪い水アグア・マラ』ってルビ処理だね」
「やっぱり小川訳のほうが綺麗に見えるな」
「うーん。でも普通に訳せばカツオノエボシなんだよなあ。それと、どうでもいいこだわりなのかもしれないけど、電気クラゲっていう訳はなんか嫌なんだよ」
「どういうこと?」
「カツオノエボシは、ミズクラゲみたいないわゆる普通のクラゲとはだいぶ違う生物だし、電気ウナギや電気ナマズみたいに発電してるわけでもないし。やっぱり電気クラゲじゃなくカツオノエボシと呼んでやりたいね。毎年初夏になるとテレビのニュースで、『海に行くときはこいつに注意』みたいな話題をやってるけど、ちゃんとカツオノエボシっていう名前で出てくるし」
「じゃあ、カツオノエボシと訳して、なおかつ注釈なしにする方法は無いの?」
「ある。訳文のなかで説明しちゃうという手はある。でも、あまり好きじゃないなあ。そもそもさあ、ネイティブが原文を読むのと同じように、日本の読者が日本語訳を読める、そういう訳が理想だ、というのが間違いだと思うんだよね。翻訳を読む人は、翻訳だと分かってて読むわけだから」
「うーん。まあ、繰り返しになるけど、感覚の違いだね」
「そうなんだろうね。あ、でももちろん、これが子供向けだったり、読み聞かせ用だったりしたら、絶対に注釈なしで訳すけどね。私の訳はそういうのじゃないから、この程度注釈があっても全く問題ないと思う」
「君がそう思う、ということは分かったよ」
「うん。さて…、批判はまだあるんだっけ」
「いや、三つで終わり」
「そうか。『he thought』問題と、老人の口調問題と、注釈問題か。指摘してもらってすごく参考になったよ。君に説明してみて、正しいかどうかはともかく自分の意見を整理できたし」
「それは良かった。小川訳と読み比べた甲斐があったね」
「うん。じゃあ、『老人と海』については、ひと月前に君と話し始めてから色々と話してきたけど、こんなところで一段落かな」
「あれ、確か前に、マノーリンの年齢の話するって言ってなかった?」
「ああ…、忘れてた」
「別に、したくなければしなくてもいいけど」
「うーん、まあでも、少しだけ話しておこう」
「うん」
「えーと…、でも君は、小川訳の解説も読んだわけでしょ」
「読んだ」
「そしたら、この問題がどういう問題かは分かってるよね」
「大体ね」
「じゃあ君がまずそれを説明してよ。その間に私はこの、3杯目のカルーアミルクを飲み終えるから」
「いつの間にそんなに飲んでるんだよ」
「そしてこのガトーショコラを食べ終えるから」
「甘ったるいなあ。ウーロンハイと冷奴にしなよ。太るよ」
「なんてことを!」
「どう考えても高カロリーでしょ」
「現実から目を背けるためにお酒を飲んでるのに、お酒をやめさせるために現実を見せるなんて! パラドクスか!」
「いやパラドクスではないし、お酒をやめさせてないだろ、ウーロンハイもお酒だし」
「正論を吐くなあ」
「とにかく、それはどうでもいいから、マノーリンのことは君が自分で、必要な範囲で説明しなよ」
「仕方ないね」
「どうぞ」
「多分だらだらした、締まりのない話になるから適当に聞き流してね。えーと。『老人と海』に登場する少年マノーリン、彼については、実は『少年』ではなくて二十二歳の若者だ、という説がある。何を根拠にそう言うかっていうと、少年の台詞でこういうのがある」

「大シスラーの親父は貧乏じゃなかったね。あの親父さんは、僕くらいの頃には大リーグでプレーしてたんだよ」

"The great Sisler's father was never poor and he, the father, was playing in the big leagues when he was my age."

「うん」
「ここで、大シスラーの親父、というのはジョージシスラーのこと。そうすると、ここを普通に読むと、ジョージシスラーは、マノーリンくらいの頃にはもうメジャーリーガーだった、という話になる。ところが、ジョージシスラーがメジャーリーガーになった年齢は二十二歳。ということは、マノーリンは二十二歳以上ということになる」
「そうなんだよね」
「一方、ここで無理をして、『あの親父さんは、[息子が]僕くらいの頃には、もう大リーグでプレーしてたんだ』と解釈する説もある」
「無理やりだね」
「そう。原文をネイティブが読む場合でも、普通はしない解釈。で、そうすると、ジョージシスラーは息子が十歳の時まではメジャーでプレーしてるから、マノーリンは十歳以下ということになる」
「うん」
「さあ実際どうなんでしょうね、という話」
「いま思ったんだけど…、例えば、ある翻訳者が、マノーリンを二十二歳と解釈したとするじゃん」
「うん」
「その場合、『少年は言った』っていう文はどう訳すの?」
「ああ、そうか、その件は小川訳の解説には書いてなかったね。この『少年』というのは、原文では『boy』なんだよ」
「じゃあ『少年』って訳すしかないじゃん」
「いやいや、『boy』には、『青年』とか『若者』っていう意味もあるでしょう。だから、二十二歳説を取った場合、『青年は言った』みたいに訳すことになるんだろうね」
「そうなんだ。うーん、私は原文を読んでないけど、でも二十二歳というのは考えにくいし、十歳もちょっと小さすぎる感じだなあ。君の訳のマノーリンは、その両方の説の中間の年齢に思えるけど、どうなの?」
「まあ、普通に考えれば中間になるよね。ちなみに石波訳では、十二歳、十三歳くらいを想定して訳してます」
「うん、そういう感じがする」
「まず、おそらく確実に言えることは、テキストの中にはマノーリンの年齢を確定する根拠は無い、ということだね。だって、『僕くらいの頃には大リーグで…』っていう台詞自体、マノーリンがそう言ってるだけなんで、別にマノーリンの言ってることが全部正しいと思う必要はないわけだから」
「そりゃそうだ」
「小川さんの訳者解説でも、大事なのは作品から受ける印象であって、一箇所の数字だけでマノーリンの年齢を決めるべきではない、っていう趣旨のことが書いてあるね。それで、小川さんとしては『十代の前半に絞り込みたいような気がしている』って」
「うん」
「ちなみに中山善之さんの訳の訳者あとがきでは、この問題について軽く触れて、『向こうの人は数字に大まかな点があるので、十五、六歳くらいの感じで訳を進めた』と書いてる」
「なるほどね」
「で、この問題については英語で書かれた論文がいくつもあって、当初私はそういうのを読まないといけないと思って頑張ってたんだけど、実は日本語ですっきりサーベイしてくれてる論文があるんだよね。それが、この前田論文」

・前田一平(2012)「マノリンは二十二歳―欲望のテキスト『老人と海』」、日本ヘミングウェイ協会編『アーネスト・ヘミングウェイ 21世紀から読む作家の地平』(臨川書店)所収。

「ふーん」
「しかも前田論文は、二十二歳説を採用してる。この論文は色々な意味で面白いんで、詳しく紹介しようかと思ったけど、考えてみると、こういうのは、興味がある人が勝手に読んだらいいね」
「いや、紹介してくれよ」
「読みたきゃ読んでよ。ただ一つ注意しておくと、前田さんはわりと『老人と海』を否定したい人というか、あえて『老人と海』を、嫌な作品、かつ失敗作として読んでるので、作品を神聖視したい人には薦めないけど」
「ふーん」
「あっ」
「どうした」
「まっっったくどうでもいいことだけど、思い出してしまったので言うよ。前田論文では、マノーリンが老人に私淑してる、と書いてあるけどこれは全く誤りなので、よろしく」
「よろしくと言われても」
「まあ、私の言いたいことはこれくらいだね」
「いやちょっと待って、君は、マノーリンを十三歳くらいの少年として訳したんでしょ?」
「そうだよ」
「その理由は何なの? 原文の印象?」
「それもある。けど、それ以上に重要なのは、どちらで訳したほうが、『老人と海』という作品がより魅力的になるか、という問題だね」
「つまり、マノーリンが二十二歳の『老人と海』よりも、十三歳の『老人と海』のほうが、作品として魅力的だから、ってことか」
「別に十三歳にこだわってはいないけどね。青年か少年かという問いで少年を選んだ理由は、そういうことだね。作家研究でもテクスト論的根拠でもなく、物語の魅力。『老人と少年の絆』って、なんかいいじゃないか。っていう単純な理由だね」
「じゃあ、もしもの話だけど、ヘミングウェイの未発見の書簡か何かが見つかって、実はヘミングウェイはマノーリンを青年と考えてた、って判明したらどうする?」
「どうもしないんじゃないかな、うーん。まあそもそも、文学作品の内容と現実の著者の意図とは別物だから…。それに、ヘミングウェイの意図が新たに判明しても、原文が変わるわけじゃないからなあ。原文自体が、実は改竄されたもので、オリジナル版ではもっとマノーリンが青年っぽく書かれてたとか、そうなったら話は別だけど、だけどそしたらそもそもそれは私が訳した『老人と海』とは別の作品なわけだから、まさに話は別だよね」
「何だかよく分からないな」
「まあともかく、ヘミングウェイが本当のところ何を考えていたかなんて誰にも分からないけど、私としては、彼の書いた原文が日本語でも最大限魅力的なものになるように訳した、ということだよ。こう言ってしまうと、あまりにも当たり前のことしか言ってない感じもするけどね」
「そうなのかあ」
「うーん、案の定、だらだらした締まりの無い話になってしまった」
「まあ最初からそうだと思うけど」
「ここで引き締め直すために、話を変えよう」
「引き締まるかなあ」
「これを読んでくれ」
「また何か印刷してきたの?」
「書きかけて挫折した『訳者解説』草稿の中から、ちょっと変わってるのを見つけたから、印刷してみた。短いけど」

 アニメオタクって目の大きい女の子が好きだよね、と女子高生が言うのを聞いた。もう十年くらい前の話だ。この意見には一面の真理がある。月野うさぎも、リナ・インバースも、獅堂光も確かに目が大きい(最近のアニメはよく知らないが、鹿目まどかもやはり大きい)。では、彼女の発言は正しかったのだろうか。正しくない。なぜなら、彼女がそのとき見ていた絵は、貞本義行が描いた綾波レイだったからだ。貞本の描く女性の目は、まあ実物の日本人と比べれば多少大きいかもしれないが、イラストとしてはごく普通の部類である。これを「目の大きいオタク受けする絵」としてしまったら、少年漫画・少女漫画のほとんど全てがオタク絵になってしまう。おそらく、彼女は「アニメオタクは目の大きい女の子が好き」ということをどこかで聞き、しかしその具体的な意味を理解せず、理解しないままにその聞きかじりの知識を通して綾波の絵を見た結果、的外れな感想を言ってしまったのだろう。そもそも、目が大きいのは少女漫画の伝統であって、『キャンディ・キャンディ』だって『ベルサイユのばら』だって登場人物の目は大きいのだ。
 さて、ヘミングウェイって、純粋に客観的な外面描写を用いて書くよね、と言ったのは、女子高生ではなく福田恒存である。新潮文庫版『老人と海』の巻末解説にそう書いてあるし、編集部もそれを真に受けて、文庫本の裏表紙に「徹底した外面描写」と書いている。ヘミングウェイの文体の解説としては、その意見には一面の真理がある。「殺し屋たち」をはじめとする初期の傑作群には、まさにその説明が当てはまるからだ。しかしもちろん、福田は正しくない。なぜなら、『老人と海』は純粋に客観的な外面描写によっては書かれていないからだ。この当然の反論に対して、福田は次のように弁明している。(以下空白)

「うーん」
「つまらない?」
「残念ながら、アニメキャラの例が全然分からないな」
「そんなはずないでしょ、同じ世代なんだから」
「セーラームーンしか分からないな」
「綾波は?」
「聞いたことはあるような…」
「とんでもない奴だな」
「でも結局これ、福田さんの弁明は書かれてないし、実質的なことは何も論じられてないよね」
「その通りだよ。もういいよ」
「いじけるなよ」
「もう寝るよ」
「寝るなよ」
「じゃあまた話を変えて、何の関係もない、重要な話をするけど」
「きっと重要じゃないんだろうな」
「老人は死ぬのかな?」
「はあ? どういうこと?」
「昨日、そのさなえさんのマンガ版『老人と海』を読み直してみたんだけど」
「うん」
「少年が、老人に『色々用意しとくから手を治しといてよ』みたいに話して、老人の小屋を出るとこがあるじゃない」
「ああ、ラストのところね」
「それで、少年が泣きながら小屋を離れるんだけど、マンガ版ではここで、少年が、『サンチャゴは………/もう………』って泣きながら走っていくんだよ」
「へえ。原作にない描写があるんだ」
「『もう』ってのは、もうダメだってことだよね。少なくとも漁には出られない」
「そうなんだろうね」
「そうなのかな?」
「違うの?」
「いや、実際サンチャゴは漁に出られずにこのまま死ぬのかなって」
「うーん、まあ君が前に言ってた、繰り返す日常って話とは全く違う解釈だね」
「うん。老人はまだまだ死なないと思う。でも実は私も、原文のほうを読むたびに、老人はこの後死ぬのかなって思う部分が一つあるんだよ」
「どこ?」
「ラストの老人と少年の会話の中で、こういうのがあるよね」

「用意は全部やっておくよ」少年は言った。「サンチャゴは手を治して」
「手の治し方は分かってる。だが、夜中に変なものを吐き出して、胸の中がおかしくなったような気がしたんだ」
「それも治しておいて」少年は言った。「横になってなよ。後で綺麗なシャツを持ってくる。食べ物もね」

「ああ、あったね」
「死ぬ感じしない?」
「うーん、そうとも限らないと思う」
「『夜中に変なものを吐き出して』っていうのは、サメとの闘いが全て終わった直後の、この部分を指してると思うんだけど」

 老人は息をするのもやっとだった。口の中は妙な味がした。銅のようで、甘い。一瞬それが不安になったが、長続きはしなかった。
 彼は海に唾を吐き、言った。「食え、ガラノー。人間を殺した夢でも見ていろ」

「ああ」
「ここでも、少年との会話でも、あまり深刻な書かれ方はしてないじゃない?」
「そうだね、さらっとしてるね」
「症状があった時も、不安は長続きしなかったわけだし、少年に話した時も、少年が全然深刻に受け取ってないでしょ」
「うん」
「逆に怖いよね」
「そう?」
「というか、これが本当にただ一瞬気分が悪くなっただけなんだとしたら、こんなの書く必要なくない? なんか、当人たちはそれほど深刻に受け取っていなかったけど、『この老人の小さな異変が、忍び寄る死の前兆だとは、この時の彼らには知るよしも無かった…』みたいなことなのかなと思って」
「安っぽいなあ」
「いや、今の表現は安っぽいけど、でもそういうのを匂わせてる感はあるよね」
「でもマンガ版の解釈はそれとはまた違うでしょ。マンガ版の少年は、老人の今後を理解してるんだから」
「ああそうか。むしろ、もうダメだと理解してるからこそ、少年はあまり深刻に取り合わず、あえて明るく振舞ってるということか」
「うん。でも別に、解釈は人それぞれだから、どちらの読みもできる、でいいと思うけど」
「うーん。老人がもうダメなんだとするとさあ、最後の観光客のくだりは印象が変わるよね」
「ああ、カジキをサメと勘違いしちゃうやつ」
「老人は、壮大な闘いに全力をつぎ込んで、再起不能になっているんだよ。にもかかわらず、他人からはその凄さが全く理解されないんだよ。そして虚しく死んでいくんだよ」
「いやいや、話はそこで終わらないでしょ」
「なんで?」
「その後だよ。ライオンの夢を見るじゃないか」
「ああ、もちろんそうだけど、うーん。そうだなあ、確かになあ。虚しくはないな。隣に少年もいるし」
「小川さんの解説が参考になるんじゃないの。これ」

大方の見解とは違うかもしれないが、訳者は『老人と海』が崇高な悲劇で終わるとは思わない。とんちんかんな観光客の誤解で落ちをつけるのも、この作品にはふさわしい。まだ老人は眠っている。もう気が済んだ、という心地よい眠りではあるまいか……。

「これさあ…」
「納得いかない?」
「いい解説だな!」
「そうだね」
「もう気が済んだ、っていうのは、これまでは自分の強さを証明し続けなければならないという意地があったけど、気が済んだ、という意味だよね、これは」
「うん」
「うん。いやあでも私はやっぱり、気が済んだと一時は思っても、また戦いたくなると思うなあ、サンチャゴは」
「どうだろうね」
「まあ、ちょっとここは何とも言えないな。解釈は保留」
「いいんじゃない。また何年も経ったら、何か違うことを考えるかもしれないし」
「現時点の考えとしては、でも、やっぱりサンチャゴがこのまま死ぬことはないし、また漁に出るだろう、ってことで」
「うん」
「しかしあれだね、こういう基本的な解釈について、今頃になって初めて真剣に考えるというのも、なんというか、私がいかにこういう読み方が苦手か分かるね。学校の『国語』っぽく物語を読むことがいかに苦手か」
「国語っぽい?」
「なんか、このあと主人公はどうなったのか考えてみましょう、とかありそうじゃん」
「ああ、そうかもね」
「小学校で『老人と海』の授業やったらわりと成立しそうだしね」
「面白いかもね」
「まあ、どうでもいいけどね…」
「そう?」
「…」
「そうかもね」
「…」
「もしもし?」
「…はい、こちらぽんぽこ商事です」
「はあ?」
「いや、話は変わるけど、龍口直太郎っていう人がいてね、新潮文庫の『ティファニーで朝食を』を訳したことで有名な人なんだけど、まあ龍口訳はずいぶん評判が悪くて、村上春樹訳に置き換わったんだけど、実はその龍口さんが、『老人と海』の福田訳について批判する文章を書いてて、誤訳批判なんだけど。それで福田訳に対して、『あんまり気の毒で訳文の引用が心苦しい』なんて言いながら、誤訳を厳しく糾弾してるんだよね」
「急にべらべら喋り出したね」
「ところが困ったことに、そこが誤訳じゃなくて、龍口さんがちゃんと読めてないだけなんだよ」
「へえ」
「そういうのは怖いよね」
「そういう的外れな批判をされるのが怖いってこと?」
「逆。自分が調子に乗って他の人の、まあ翻訳に限らないけど他の人を批判して、でも実は自分が間違ってました、というのは」
「ああ、そうだね、じゃあ、偉そうなことは言わないほうがいいね」
「その通りだけど、慎重な物言いというのはつまらないよね、読者から見ても。感情的なだけの文章は嫌だけど、率直で威勢がいい意見のほうが、読んでて面白いというのはあるよ。小谷野敦さんとか面白いじゃん」
「確かにね」
「じゃあどうすればいいんだよ!」
「知らないよ。間違った批判をしなきゃいいんだろ」
「無理を言うなよ。私の発言の七割は間違いだと言われてるんだから」
「だったらもう、自分の批判だけしてりゃいいじゃない。そしたら誰も文句言わないよ」
「一理ある」
「じゃあ、石波訳のここがダメだ、という話、どうぞ」
「まずですね。訳は非常にいいです」
「批判をしろよ」
「いや、世間から見て本当にいいかどうかは、私が決めることじゃなくて世間が決めることなわけで、何とも言いようが無いし、じゃあ訳者自身から見ていいかどうかというと、いいと思ってるからこう訳してるんだよ、って話でしょう。ダメと思う部分があったら既に修正してるし」
「まあそれは分かるけどね。訳した本人がいい訳だと思ってないなら、発表するなよってことだよね」
「そんなことないだろ!」
「なんだよ、面倒くさいな」
「著作権が切れてる原文を趣味で訳してみた人が、プロの訳には及びませんがせっかくなのでネットで公開してみます、って公開したって、いいじゃないか」
「そうだけど、君はそうじゃないんでしょ」
「『老人と海』に関してはね。ついでに言っておくと、私は『老人と海』の翻訳を無報酬でやって、ネットに公開してるので、まあアマチュア仕事と言われればそうなんだけど、ある意味では、プロの仕事よりアマチュアの仕事のほうが優れてる点もあるからね」
「どういうこと?」
「プロとしての仕事には納期がある。だから、クライアントの求める納期までの範囲で最善の仕事をするしかない。アマチュアはそこで妥協しない。無限に推敲できる」
「まあ…、言いたいことは分かるけどね。でも、時間をかければいいってもんでもないでしょ。適切に推敲する能力が無ければ意味ないし。時間をかけたせいで逆にダメになることもあるだろうし」
「あと、アマチュアには愛がある。お金をもらえないのに翻訳しちゃうほどの愛がある」
「まあ、プロにだって愛はあるだろうけど。というかプロというのは翻訳でお金を稼げるようになっちゃうくらい翻訳を愛してるわけだからむしろずっと凄いんじゃないのと言いたくなるけど、まあ、言いたいことは分かるよ」
「どちらにしても、プロ翻訳者は、しばらくしたら絶滅するわけだよ。人工知能に負けるようになるから。そうすると人間の翻訳者はアマチュアだけになるよね。まあ、私はそれまで生きてないかもしれないけど」
「そういう話は、私には分からないな」
「じゃあ、話を元に戻すと…」
「うん」
「フセインが『老人と海』を愛読してたというのは、CIAの報告書に書いてあるんだよ」
「どこまで戻るんだよ。フセインの話聞いたの先月だよ」
「じゃあそれは置いといて、石波訳のダメなとこの話に戻ると、本体はいいんだけど、参考文献一覧がダメだね」
「本文の後に並べてあるやつ? 何でダメなの?」
「アメリカ文学を訳すための参考文献が、なんで日本語文献ばかりなんだよ」
「ダメなの?」
「いや日本語文献をたくさん読むのはいいんだよ。日本語に訳してるんだから。だけど、もっと英語を読まなきゃダメでしょうが」
「じゃあ読めばいいじゃないか」
「私はとにかく外国語を読むのが遅いんだよ! 原文を訳すの自体も遅いのに、海外の論文まで漏れなく読んでたら一生終わらないじゃないか!」
「偉そうに言うなよ、ダメな話を」
「でも院生のときに先生から言われたんだよ。君は外国語を読むのが遅いって言うけど、外国語に限らず、きっと日本語を読むのも遅いでしょう、って」
「悲しいね」
「いや別にバカにされたんじゃなくて。続けて言われたんだよ。遅く読む人にしか見えないものがありますよ、って」
「ふーん、いい話だね。妄想?」
「妄想でも創作でもなくて、実話だよ。その先生は文学じゃなく哲学の、現象学の先生だったけどね。まあ、とにかく、私は外国語の研究文献はあまり読んでないんだよ、能力的な問題で。そもそも私は大学で海外文学を専攻したわけでもないし、そういう専門的なトレーニングを受けた経験は無いから、その辺の研究の知識については疎い。必要な範囲では色々付け焼き刃で勉強したけど、決定的に足りない部分はあると思います」
「一言で言うと、勉強不足ということだね」
「なんで勉強不足を責められなきゃいけないんだよ! 訳文自体を見ろよ!」
「自分で言ったんじゃないか」
「もちろん勉強不足のせいで翻訳に問題があったら大問題だけど、勉強不足そのものは別にどうでもいいことなんだよ。で、だけど実際勉強不足なので、問題があったら御教示下さい、という話です」
「まあ、君がこうして色々話してくれたことについても、詳しい人が見たら問題があるかもしれないよね」
「別にどうでもいいんだけどね。この会話が低レベルでも、訳文が低レベルじゃなければいいわけだから」
「どうでもいいの?」
「ただ、何というか、それこそ氷山理論なわけよ」
「氷山?」
「ヘミングウェイに言わせると、作家が書いたことは八分の一でしかなくて、残り八分の七は、水面下にある。水面から出ている氷山は、『氷山の一角』であって、氷山全体の八分の一でしかない、というわけだよ」
「ふーん」
「場合によっては、翻訳もそれと同じだと思うんだよね。訳文に直接盛り込めることというのは、訳者が知ってることや考えたことの八分の一でしかなくて、残り八分の七は水面下にあって、だけどその八分の七があるからこそ、八分の一が書けるんだよ」
「なるほどね」
「で、私がこうしてべらべら喋ってるのは、その八分の七を、出来る限りここで出しておこうというわけ」
「うん」
「ということはつまり、訳者がどれほど学びどれほど考えて訳したか、ということを発表してるんだけど、逆に言えば、どの程度までしか学ばず、どの程度までしか考えていないかが、露わになってるわけだよね」
「そうだね」
「訳文だけ出しておけば問題ないかもしれないのに、八分の七を発表したせいで、バカにされて、訳文にまでケチがつくことがあるとしたら、バカバカしいことだね」
「じゃあ出さなきゃいいんじゃないの」
「記録しておかなかったら全部忘れちゃうでしょうが」
「記録だけして発表しなきゃいいじゃん」
「発表の予定が無かったら、記録するモチベーションが上がらないでしょうが」
「じゃ好きにしなよ」
「そうするとしよう」
「じゃあ…、最後に、何か締めくくりの一言を」
「そうですね、まあこの対話を公開しておいたところで、全部読む人はほとんどいないとは思うけど、ともかく読んでくれる人に感謝したいというのが一番ですね。翻訳にしても、この対話にしても、それ以外の文章にしても。あとまあ諸々の方面への感謝は、『老人と海』の訳文の後につけた『謝辞』に書いた通り、諸々あります。ひとつ付け加えておくと、今回の『老人と海』の訳文と、この対話とを合わせると、いまの私の全力の到達点がだいたい分かってしまうので、まあ問題がなければいいなとは思うんだけど、その一方、何年かしてからふと自分で読み直したときに、青いなあ、愚かだなあ、と言えるとしたら、それはそれでとてもいいことなので、まあ自分なりに頑張っていきたいなと、そういう所存ですね。あ、そうそう、それと実は、根本的すぎてあまり触れなかった問題なんですけど、そもそも私は単純に英語を読む力がきわめて貧弱なので、何とかして自分なりに強化していきたいですね、はい。以上です」
「ごめん、せっかくまとめてくれたのに申し訳ないんだけど」
「何?」
「なんていうか、良質な翻訳を読者に提供すべく今後とも頑張っていきます、みたいな雰囲気だけど」
「うん」
「読者のために翻訳をしてるの?」
「いや、今のは流れ上、つい優等生的なことを言っちゃっただけで、別に慈善事業をやってるつもりはないよ。まあ、『老人と海』に関してはかなり、読者に届けるということを意識した、とは言えるけど」
「じゃあ、慈善事業でもないのに、必死で苦労して翻訳してるのは、どうして?」
「そりゃ楽しいからだろうね。趣味で苦労して山登りをする人とか、趣味で苦労してマラソンする人と変わらないんじゃないかな。まあ、もっと正確に言うと、楽しいことをしたいし、かっこいいことをしたいし、何かを頑張りたいし、頑張りを形として残したいし、成長したいし、できれば誰かを喜ばせたいし、…っていう色々な願望の、最大公約数というか、奇跡的に重なる部分が、私にとっては翻訳だったんだろうね。というか、つい自分語りをしてしまったけど、こんなことはもっと何十年も続けてる人が言うべきことであって、私なんかが言うのは間抜けでしかないけどね。でも、私がいま文芸翻訳をしてるのは、まあ、そういうことなんだろうね」
「なるほど」
「では以上。言いたいことはほぼ言い尽くしたので、おしまいです」
「ほぼ?」
「そこ突っ込むと終わらないから」
「そう、じゃ、また機会があったら」
「うん。また」

 完




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執筆:2015年7月〜
ネット公開:2015年10月12日
最終更新:2021年09月27日