ある自虐者の告白

 ――『リトル・ドリット』より

The History of a Self-Tormentor

チャールズ・ディケンズ Charles Dickens

石波杏訳




 不幸なことに、私は馬鹿ではありません。ずいぶん幼い頃から、周囲の人が私に隠していることを、見抜いてしまっていました。いつも真理を見抜くなんてことをせず、いつも騙されていられたなら、私は穏やかな人生を送れたことでしょう。世の中の馬鹿と同じように。

 私は子供時代を、祖母役の人と過ごしました。つまり、私の祖母を演じ、私の祖母を自称する女性と過ごしたのです。彼女にはそんな資格は無かったのですが、私は――その程度には馬鹿だったのですね――、彼女を信じきっていました。その家には、彼女の家族の子供たちと、それとは別の子供たちがいました。女の子ばかり、私を入れて計十人。私たちはみんな一緒に暮らしていて、一緒に教育されました。

 その少女たちが、私をはっきり見下していると分かり始めたのは、私が十二歳くらいの頃です。私は孤児だと告げられました。他に孤児は一人もいませんでした。そして私は、皆が自分に良くしてくれるのは傲慢な同情と優越感からだと、理解してしまったのです(馬鹿でないことの最初の不幸)。私はこのことを、すぐに真実だと思い込んだわけではありません。何度も皆を試してみたのです。私には、彼女たちを怒らせることはほとんどできませんでした。たまに誰かを怒らせることに成功しても、一時間もすると決まって向こうからやってきて、仲直りを申し出るのでした。私はそんな実験を何回も何回も試しましたが、私から仲直りを言い出すのを相手がずっと待っていることは一度もありませんでした。皆はいつだって私を許したのです。それは自惚れであり、恩着せがましい親切でした。大人のような子供たち!

 その少女たちの中の一人が、私の親友でした。その愚かな子には不釣合いなほどに、私は彼女を情熱的に愛しました。子供の頃のこととはいえ、思い出すだけで恥ずかしくなるほどです。彼女は、世に言う優しさとか愛情とかそういうものを持っている人でした。まわりの誰にでもかわいい顔立ちで笑顔をふりまける人で、実際ふりまいていました。彼女が私をわざと傷つけ苛立たせようとしていたなんて、私以外の誰も気づかなかったでしょう!

 にもかかわらず、私はその卑しい少女を愛しました。その愛は、私の人生に嵐をもたらしました。「彼女をいじめた」と言われ、説教され罰を受けたのです。彼女のちょっとした裏切りを責めたり、彼女の本心が読めたと言って泣かせたりしたからでした。それでも、私は彼女を誠実に愛していました。あるとき、休暇に彼女の家に遊びに行ったことがありました。

 家での彼女の振る舞いは、学校にいるとき以上にひどいものでした。彼女には従兄弟や知り合いがたくさんいて、私たちは彼女の家や他の人の家でダンスをして遊んだのですが、家でも外でも、彼女は私の愛を苦しめました。耐えられないほどでした。彼女のもくろみは、全ての人を彼女のとりこにすること、――それによって、私を激しい嫉妬に追い込むことでした。全ての人になれなれしく親しげに振舞うこと、――それによって、私をねたみで狂わせることなのです。夜、寝室に二人きりになると、私は彼女の卑劣さを非難しました。私は全てを見通していました。彼女はいつまでも泣き続け、私のことをひどいと言うのでした。そういうときはいつも、私は彼女を朝まで抱いていました。彼女への愛は変わりませんでした。時には、こんなに苦しむくらいなら彼女を抱きしめたまま川底に飛び込んで、二人とも死んでしまった後までずっと彼女を抱きしめていたい、とさえ考えました。

 終わりはやってきます。私は安心しました。彼女の家族の中に、私を気に入らない叔母がいました。家族の中で私を好む人間なんて一人もいなかったでしょう。でも私は、皆に気に入られたいなんて思いませんでした。一人の少女だけに熱中していたからです。叔母は、若い女で、私のことをいつも真剣な眼で警戒していました。遠慮の無い人で、大っぴらに私を同情の眼で見ていました。いま話したような夜が明けた朝、朝食の前に、私が温室に入って行くと、既にシャーロットが(これが私の不実な幼い友達の名前です)、そこに来ていました。そして、その叔母がシャーロットに私の話をしているのが聞こえたのです。私は植物の陰に立ち止まり、それに耳を傾けました。

 叔母は言いました。「ウェイドさんに苦労させられて、死んでしまうわよ、シャーロット。このままじゃいけないわ」、これは私が聞いたそのままの言葉です。

 では彼女は何と答えたか。彼女はこう言ったでしょうか。「むしろ彼女のほうよ、私に苦しめられて死にそうなのは。私こそ、彼女を悩ませる死刑執行人なの。それなのに彼女は毎晩、私に誠実な愛を誓ってくれるのよ。私が加害者であることを、彼女は知っているのに」、と。違います。この時の、忘れられない初めての体験は、私がかねてから見破っていた彼女の正体とぴったり符号しました。そして、私が経験してきた全てとも符号しました。彼女は涙をこぼし、むせび始めました(叔母の共感を得るためです)。そしてこう言ったのです。「叔母さま、あの子は不幸な性格なの。私だけじゃなく学校の女子たちも、いい方向に変わるように努力してるのよ。皆で頑張ってるんだから。」

 すると、叔母は彼女を優しくなでました。まるで、卑しい嘘ではなく何か尊いことを彼女が言ったかのようでした。さらに叔母は、忌まわしい茶番を続けます。「でも、何ごとにも常識的な限度というものがあるでしょう。ねえ、あの不幸でかわいそうな子のせいで、あなたは不必要に苦しみ続けることになるのよ。努力に見合うような、幸せな結果にはならないわ。」

 その、不幸でかわいそうな子は、物陰から歩み出ました。そして、読者の予想通り、「家に帰らせて」と言いました。どちらにも、誰にも、「家に帰らせてちょうだい。でなければ一人で何十時間でも歩いて帰るから!」という以外の言葉を発することはありませんでした。私は家に帰ると、祖母役の人にむかって言いました。「あの子が帰って来ないうちに、他の誰も帰ってこないうちに、どこか他の学校に転校させて。そうしないと、腹黒い人たちの顔を見るのが嫌で、暖炉に飛び込んで目を潰すしかないわ。」

 そして私は、少し年上の女子たちの学校に入りましたが、何も変わりませんでした。美しい言葉と、美しい見せかけ。私は、皆がそういう言葉の裏で私を軽視していることを見通さずにはいられませんでした。何も変わっていません。そこを卒業するまでに分かったのは、自分には祖母はおらず、見覚えのある親戚も一切いない、ということです。その知識を光として掲げ、私は自分の過去と未来とを見渡しました。その結果、新たにいくつも照らし出されたのは、思いやりをもって私を気にかけるふりをして、私の上に立った気でいる人々です。

 私の僅かな財産については、ある実業家に管理を任せていた。私は、住み込みの家庭教師として働くことになっており、実際そうなったので、貧しい貴族の家庭に入りました。そこには二人の娘――小さな子たちです――がいたのですが、両親は、できるなら一人の教師だけで育てたいと望んでいました。母親は若くて綺麗でした。当初から、彼女はとても細やかな気配りをもって私に接しました。私は憤りを抑えていたものの、彼女の真意はよく分かっていました。彼女は私の御主人様であって、もし彼女の気が変われば召使いに対して違う扱い方もできる、そう考えて楽しんでいるにすぎないのです。

 今、私は怒らなかったと言ったし、実際、怒りませんでした。しかし、彼女の腹の内を知っているのだということを、彼女のご機嫌取りをしないことで示しました。ワインを勧められれば、私は水を飲みました。食卓に何か高級なものが出されると、彼女はいつもその皿を私の近くに置きましたが、私はいつもそれをお断りして、離れた皿のものを食べました。恩を着せようという目論見を失敗させることで、私はきっぱりと仕返しをし、自分の独立を守ったのです。

 私は子供たちを愛しました。内気だけれど、たいてい私のそばにいたがる子たちでした。しかし、その家には乳母がいました。赤い顔の女で、いつもわざとらしく陽気で明るいふりをする人間です。二人の世話をしていて、私が来るまでは二人の愛情を独占していました。この女の存在を除けば、私は、自分の運命に安住することができたかもしれません。子供たちの前でいつも私と張り合おうとする彼女の巧妙なやり口は、私以外の多くの人間の目をくらましたようですが、私には最初から全て分かっていました。彼女は、私の部屋を掃除するとか、私の用事を聞くとか、私の洋服の手入れをするとか、そうした口実を作って(そういうことを忙しそうにやっていたのです)、いつでも私のそばに来ました。様々なずるいやり口の中でも一番彼女のずる賢さが出ていたのは、見せかけだけ、子供たちを私になつかせようとすることです。彼女は二人を連れて来て、優しげな言葉で促すのでした。「やさしいウェイド先生のところに、すてきなウェイド先生のところに、きれいなウェイド先生のところに行ってきなさいな。先生は二人が大好きなんですよ。先生は賢くて、たくさん本を読んでいるから、私なんかよりよほど面白くてためになるお話をしてくれますよ。先生のお話を聞いてらっしゃい!」 このようなふざけた計略のせいで心がイライラしているときに、私が子供たちの注意を引くことなど、どうしてできるでしょうか。子供たちがその純粋な顔に萎縮した表情を浮かべ、私ではなく乳母の首に腕をまわすのが見えたことに、何の不思議があるでしょうか。それから乳母は私を見上げ、自分の顔にかかる子供たちの巻き毛を振り払ってから言うのです。「この子たちの気持ちはすぐに変わりますよ、ウェイド先生。ねえ、二人とも素直でかわいい子です。先生、落ち込むことはありませんよ」――勝ち誇って言うのです!

 この女のやることはそれでは終わりません。時には、いま言ったような方法で私をたやすく絶望の底へと叩き落とした後に、子供たちの注意を私に向けさせて、自分と私とがいかに違うかを教えるのでした。
「しーっ! かわいそうなウェイド先生は調子がお悪いの。騒いではだめですよ、ほら、先生は頭が痛いんですから。行って慰めてあげましょうね。もうよくなったか、気遣って差し上げるのよ。横になっていて下さいって、言って差し上げなさい。先生、何もお悩みになることはありませんよ。そんなに悲しまないで、心配なさらないで下さい!」

 我慢の限界でした。ある日、私が独りでいる時、もうこれ以上耐えられないという思いが絶頂に達していた時に、彼女と私の雇い主である夫人が部屋に入ってきました。私は、この家を出なければならない、と伝えました。ドーズという乳母には、我慢ならない、と。

「ウェイド先生! かわいそうなドーズは、先生を心からお慕いしていますのよ。先生のためなら何でもするというくらいです!」

 最初から、夫人がそう言うことは分かっていました。すっかり心の準備はできていたのです。雇い主さまに反論する立場ではございません、出て行きます、とだけ私は言いました。

「ウェイド先生、私…」彼女はすぐに、いつも見え透いた手で隠している優越感を、口調ににじませながら言いました。「先生が『雇い主』なんて嫌な言葉を使いたくなるようなことを、言ったりやったりしてないつもりでいるんです。先生とお会いして以来ずっとですわ。でも自分で気付かないうちに、不注意でしてしまったことがあるんだと思います。どうか、教えて下さいませんか」

 私は、自分の不満は雇い主によるものでも雇い主に向かうものでもないこと、しかし自分は出て行かねばならないことを伝えました。

 彼女は少しのためらいの後、私のそばに座り、私の手の上に自分の手を重ねました。その気高い行為でどんな心の傷も消せるかのような態度で!

「ウェイド先生、心配なんです。先生は、私にはどうすることもできない理由で、不幸な思いをしてらっしゃるんでしょうか」

 私は、その言葉が呼び覚ました過去の経験について考えながら、少し微笑んで言いました。「私は不幸な性格なんでしょうね、きっと。」
「そうは言っておりません。」

「そういうことにすれば、全てうまく説明がつきますよ」私は言いました。

「そうかもしれませんが、私はそんなことは言っておりませんわ。お伝えしたかったのは、全く別のことです。これについて夫と話し合ったことがあるんです。先生が気楽にしていらっしゃらないのを、悲しい思いで見ていたものですから。」

「気楽に? それはもう! お二方は高貴な御身分ですからね」私は言いました。

「残念ながら、私の使った言葉は、私の意図と正反対の意味をお伝えしてしまったのかもしれません――いえ、確かにそうなのでしょう」(私の答えが予想外だったから、彼女は恥ずかしく思ったのです。)「私はただ、先生を楽しませられないと申し上げたかったのです。おはなししづらいことですが、でも若い女同士と思って申し上げますね、もしかして――、つまり、私たちが心配したのは、先生が、ご自身には何の責任もない家庭の事情に関することで、苦しんでらっしゃるのではないかと…。もしそうだとしたら、どうかお願いです、そのことで悲しまないで下さい。私の夫にも、これはみな知っていることですが、以前とてもかわいい妹がおりましたの。法的には妹ではなかったのですが、誰からも愛され尊敬されていました。」

 私は直ちに理解しました。その女が何者なのかはともかく、彼らはその死んだ女のために、私を雇い入れたのです。私のおかげで自負と優越感を持てるというわけです。そう、乳母はそのことを知っていました。だから余計に、あんなふうに私を刺激したのです。そして、子供たちが萎縮したのは、私が他の人間と違うことを何となく感づいた表れだったのです。私は、その夜のうちに家を出ました。

 一度か二度、短期間で似たような体験をしましたが、それはここでの話には関係がありません。私はその後、別の家庭に入り、教師の仕事をしました。生徒は、十五歳の一人娘でした。彼女の両親は年寄りで、身分が高く、裕福でした。その両親に育てられた甥が、よくその家を訪ねて来ていました。多くの訪問客のなかでも特に頻繁にです。そして彼は、私のことを気にかけ始めたのでした。

 私は断固として彼を拒絶しました。その家に入った時から、私は誰にも同情されたり恩を着せられたりしないと心に決めていたからです。それでも彼は私に手紙を書きました。結局、私たちは結婚を約束することになりました。

 彼は、私より一つ年下でしたが、それよりもっと若く見えました。彼は、職場であるインドから帰省していたところで、間もなくインドに帰りとても高い地位に昇進することになっていました。六か月したら結婚して一緒にインドに行く、と決まりました。そして、結婚式までは私はその家に留まって、その家から式に行くことになりました。この計画のどこにも、誰からも、反対はありませんでした。

 彼が私を絶賛した、と言わない訳にはいきません。できれば言いたくないのですが。あえてそれを言うのは、決して虚栄心からではありません。彼の賞賛は私を悩ませたのです。彼は賞賛を隠す努力をしませんでした。だから私は、裕福な人たちの集まりに出ると、まるで彼が私の外見を金で買ったかのように、そして、彼がその弁明のために自分の購入品の展示会をしているかのように、感じざるを得ませんでした。見物客たちも心の中で私を値踏みして、真価を確かめてやろうと思っているのが明らかでした。私は、彼らに何も知られないよう決意して、彼らの前では動かず黙っていました。自分自身を、彼らから賞賛されるための犠牲にするくらいなら、彼らに殺されたほうがましだと思っていたのです。

 婚約者が言うには、私は自分の力を十分に出していない、ということでした。私は彼に答えました。十分出しています、出しているし最後まで出し続けようと思っているからこそ、あの人たちに媚びて機嫌を取るようなことをしないのです、と。皆の前であなたの愛情について披瀝することもやめて頂けませんか、と私が付け加えた時の彼は、心配そうな様子で、ショックを受けたようにさえ見えました。それでも彼は、私の心の平穏のためなら自分の正直な衝動すら犠牲にできる、と言いました。

 それを口実として、彼は私に仕返しを始めました。私以外の誰とでも会話をして、何時間も私を放っておくのです。私は、ひと晩の半分以上の時間を、誰にも気付かれず独りぼっちで座って過ごしました。その間彼は、私の生徒である若い従妹いとこと話し込んでいました。私はずっと感じていました。皆の眼から見れば、この二人のほうが、私と彼よりも対等で親しげに思えるのだということを。人々の考えを見通した上で座っていた私は、彼の若々しい外見を見ていると、馬鹿馬鹿しい気分になってきました。そして、彼を愛した私自身に対して、激しい怒りが込み上げてきました。

 そう、私はかつて、彼を愛したのです。彼はその愛に不釣合いだったし、その愛のために私がどれほどの苦しみに耐えていたかをほとんど考えてもくれませんでしたが――その苦しみと言ったら、彼が人生の全てを感謝とともに私に捧げてもおかしくないほどのものでした――、それでも、私は彼を愛しました。彼の従妹がしていることを眼前にしながら、私は耐え忍びました。彼の従妹は、彼のことをちやほやして、それによって私を喜ばせようと思っているふりをしましたが、実際には私の胸を苦しめているとよく知っていたのです。私は、彼のために耐え忍びました。彼の前で座りながら数々の軽蔑や屈辱について思い出し、この家からすぐにでも飛び出して二度と彼に会わないほうがいいのではないか等と考えを巡らせる、そんな時でも、――私は彼を愛していました。

 彼の叔母(そう、私の「雇い主」です)は、意図的に、計画的に、厄介ごとや悩みの種を増やしました。私たち夫婦がインドに住んだらどんな生活ができるか、どんな屋敷に住めるか、彼が昇進するとどんな交際が楽しめるか、そういうことを長々と話すことが、彼女の喜びでした。そうして、自立できない負け組の独身生活と結婚後の生活とがどれほど異なるかを示そうという厚顔無恥なやり口に対して、私の自尊心はうずきました。憤りは何とか抑えつつも、彼女の真意を私は見過ごしてはいないのだと示し、謙虚なふりをすることで彼女の嫌がらせに仕返しをしました。そのようなことは私めには身にあまる栄誉でございます、などと言ったものです。そのような余りにも大きい変化に対応できるでしょうか、心配でございます、一介の家庭教師ふぜいが、お嬢様の家庭教師が、そのような待遇を賜るなんて! こんなふうに私が答えていると、彼女は不安を感じ、皆が不安になったようでした。私が彼女の真意を理解していることに、誰もが気付いたのです。

 あれは、私の苦しみが最高潮に達した頃のことでした。あれは、私が彼のために数々の苦悩を抱え屈辱に耐えているのに、彼のほうでは何の気遣いも見せず、その恩知らずな恋人に対して私の怒りが最大限になった頃のことでした。その頃、その家に現れた人こそ、あなたの親友のガウワンさんでした。彼とは以前から親しくしていたのですが、しばらく海外に行っていたのです。彼は一瞥しただけで状況を理解し、そして私のことを理解しました。

 ガウワンさんは、人生で初めて私を理解してくれた人です。彼が三回も家に来ないうちに、私には、彼が私の心の動きの全てに共感してくれていることが分かりました。皆に対しても私に対しても、どんな問題に対しても、いい加減で冷めた態度で接する彼を見て、私にはよく分かったのです。私の将来の夫のことを気安く賞賛する彼、私たちの婚約とその将来に熱っぽく注目する彼、私たちがこれから手に入れる財産に対して希望溢れる賛辞を呈する彼、自分が貧乏であることを嘆く彼――いつでも等しく空疎で、ふざけていて、嘲りに満ちていました――、そういう彼を見て、私にはよく分かったのです。彼は、私を取り囲む全てのものを、私と彼自身のために最善の形で見せるようなふりをしつつ、実際には新たな不快な光で照らし出して私に見せつけて、私の中の憤りと軽蔑をますます大きくしました。彼は、ドイツの連作版画に描かれている、様々な姿で現れる死神のようでした。どんな姿になろうとも、若者の姿でも年寄りの姿でも、美しくても醜くても、踊っても歌っても遊んでも祈っても、彼は死人の相をまとっているのでした。

 あなたにはもうお分かりでしょう。あなたの親友が私に贈った祝辞は、本当は弔辞だったのです。彼が私の苛立ちを慰めている時、私の負う全ての傷を露わにしていたのです。彼が、私の「誠実な恋人」について「史上最高に優しくて世界中で最も愛すべき若者」だと説明した時、むしろ、「馬鹿にされているのではないか」という私の旧知の疑いを呼び起こしたのです。こんなことは大した奉仕ではないと、あなたはおっしゃるでしょうか。私にとっては喜ばしいものでした。なぜなら、それらのことが私自身の心に共鳴し、私自身の確信を裏付けてくれたからです。すぐに私は、誰よりも彼との社交を好むようになりました。

 このために嫉妬が生まれた、と分かった時(それはすぐ分かりました)、この社交はもっと楽しくなりました。私こそ、ずっと嫉妬に苛まれてきたのではありませんか。私だけが我慢しなければいけないのですか。否。あの人にもそれを知ってもらうべきです! 彼にその苦しみを知ってもらえるなら、痛切に知ってもらえるなら、嬉しいことです。そうなってくれることを私は願いました。

 それだけではありません。あの人は、ガウワンさんと比べればつまらない人でした。ガウワンさんは、私と対等の関係で接することができましたし、私の周りの哀れな人々をきちんと分析できていたのです。

 こういう状況が続きましたが、とうとう、私の雇い主たる例の叔母が、私のところへ来て切り出しました。あえて言うほどのことではないし私に妙な意図が無いことは分かっているのだけど、と。「でもちょっと言うだけ言っておいたほうがいいと思うので言いますけれど、ガウワンさんとのお付き合いを、少し遠慮なさったほうがいいのではありませんか?」

 どうして私に妙な意図が無いと言えるのですか、と私は尋ねました。彼女は、あなたが決して悪いことなんか考えていないといつでも保証できますよ、と答えました。私はお礼を言いましたが、続けて、保証して頂くより自分自身で保証しとうございます、と言いました。他の使用人なら、良く評価されて喜ぶのかもしれませんが、私はそんなことはございません、と。

 なおも話し合いは続きました。私は尋ねました。どうして、そのことを私に言って従わせたほうがいいと思われたのですか。私の生まれのせいでしょうか、私が雇われの身だからでしょうか。私は身も心も買われたわけではありません。高貴な甥御様が奴隷市場に行って妻を買ってきたのだと、あなたはお考えなのでしょうけれど。

 おそらく、遅かれ早かれ話はこういう結末を迎えざるをえなかったでしょうが、彼女が不意に結末をもたらしました。哀れむようなふりをしながら、私のことを、不幸な性格と言ったのです。またしてもこの意地の悪い中傷が繰り返されたことで、私は、もう我慢ができなくなって、私がずっと見抜いていた彼女の真意を全て暴露してやり、彼女の甥の妻などという卑しい地位に落ちてからというものずっと苦しみ続けていたのだと打ち明けてやりました。そして、卑しい身分で生きる中で唯一の救いがガウワン氏だったということ、私は長く我慢をし過ぎたのだということ、今になって激昂しても手遅れだということ、それでももう彼らとは決して会わないということを、まくし立てました。実際、彼らとは二度と会いませんでした。ガウワンさんは、私の逃げた先にまで追ってきて、関係が断ち切れたことについて冗談を言いました。彼は、あの立派な人たちのことを(彼らは今まで会った人間の中で一番立派な人たちなのだそうです)哀れみ、そして、ちっぽけなハエたちを潰すのに大掛かりな手段を使わねばならないことを嘆くのでした。そしてすぐに、私の思っていたよりずっと誠実な態度で言うのです。こんなにも才能に溢れていて意志の強い御婦人には、私など全く見合いませんよ、と。――やれやれ!

 あなたの親友は、思うままに私を楽しませ、自身でも楽しんでいました。そして彼は会話の中で、私に気付かせたのです。私たちが二人とも、世間の中にいて人間というものをよく理解しているのだということ。二人とも、ロマンスなどこの世に存在しないと知っていること。二人とも、良識ある人間として、成功を求めて別々の道を進んでいく覚悟をしているのだということ。そして、お互いが再び出会うときには、地球上で最高の友人としての再会になるだろうということ。そういう話をする彼に、私も反対しませんでした。

 それからさほど長く経たないうちに、彼は、今の奥さんを追い掛け回すようになり、その彼女は両親によって彼の手の届かない所に移されました。私は彼女を憎みました。今と同じくらい憎みました。ですから、当然ながら、彼女と彼が結婚することだけを望んでいました。しかし私は、彼女を見てみたくて落ち着かなくなりました――それは、私に残された数少ない娯楽の一つのようにさえ思えました。私は短い旅に出て、彼女と知り合い、あなたとも知り合いました。あなたがまだあの親友と出会っておらず、その後に彼があなたに授けた素晴らしい友情のしるしも、受けていなかった頃のことです。

 旅先で、私は一人の少女に出会いました。彼女を取り巻く境遇は、驚くほど私に似ていましたし、彼女の性格は大いに私の興味をそそりました。親切とか後援とか慈悲とかいう立派な名前のついた、恩着せがましく利己的な行為に対して、彼女が激しく反抗しているのを見ると、私は嬉しかったのです。それは、今まで書いてきたように、私に生まれつき備わった性質でした。しかも彼女は、「不幸な性格」だとよく言われていました。その都合の良い言い方にどういう意味が込められているか、私はよく知っていましたし、それを知る仲間を求めていたので、被差別意識にがんじがらめになっている彼女を解放してやろうとしました。それに成功したという話は、するまでもありません。

 私たちはそれ以来、私のわずかな財産を分かち合って、一緒に暮らしています。





●訳者補遺

 本作「The History of a Self-Tormentor」は、1857年に、長篇『リトル・ドリット(Little Dorrit)』の第2部第21章として発表されました。しかし、岩波文庫『ディケンズ短篇集』に「ある自虐者の物語」(小池滋訳)として単独で収録されていることからも分かる通り、一つの独立した短篇としても評価されています。なお、『ディケンズ短編集』では省かれている部分も、ここでは省かずそのまま訳出しました。



底本:Dickens, Charles "The History of a Self-Tormentor" in Little Dorrit (Dictionary of Victorian London)
底本の言語:英語
翻訳・公開:石波杏
※本作品は「クリエイティブ・コモンズ 表示 2.1 日本 ライセンス」の下に提供されています。
2013年1月28日訳了
2013年2月3日公開
2013年2月17日最終更新

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