「亀がアキレスに言ったこと」訳者解説の解説





 訳者解説の解説、という名目の自分用メモです。対象読者は私です。
 拙訳「亀がアキレスに言ったこと」に付した「訳者解説」を全文引用しながら一気にコメントをつけていきます。
 始まり。
 どう見ても妥当な推論なのに、必要な前提が無限に増えていき、いつまで経っても結論にたどりつけない、というパラドクスを示した対話篇です。
 「妥当」というのは論理学用語で、訳文中にも「valid」の訳語として使ってますが、知らない人には日常的な日本語として理解してもらって、分かる人には術語として読んでもらって、それで大丈夫だろうと判断しました。推論において全ての前提が真であるとき必ず結論が真であるなら、その推論は「妥当」です。たしか柳瀬尚紀は「妥当」とは異なる訳語にしてた気がしますが、明らかに推論の妥当性の話をしてるんで、普通に訳したほうがいいと思いました。
 どうでもいいけど、わりとみんな「パラドックス」って書くんですが、私は「パラドクス」で統一してます。単なる好みの問題で。それはともかく、キャロルがこの対話で示した問題は「ルイス・キャロルのパラドクス」としばしば呼ばれるのですが、いつも少しだけモヤっとします。というのも、キャロルには「A Logical Paradox」というタイトルの対話篇もあり、そちらでは全然違う「パラドクス」が扱われているので。正確を期すなら、こちらの亀とアキレスが示したほうの問題は「キャロルの推論のパラドクス」などと言うべきでしょう。
原著の初出は英国の哲学雑誌『マインド』の一八九五年四月号。
 『マインド』を「哲学・心理学の雑誌」と書くべきかなと思いつつも「哲学雑誌」にしました。ちなみに1877年に『マインド』に掲載されたダーウィンの「A Biographical Sketch of an Infant」、訳したら面白いかなーと思って検索してみたら、sogoさん訳の「幼児の日誌的スケッチ」が2001年に(!)公開されていました。
キャロルらしいユーモラスな文章ではありますが、発表から百年以上経った現在も哲学分野でしばしば言及される重要文献です。
 別に「哲学分野」じゃなくても(数学の一般向け書籍とかで)言及されてるとは思うのですが、哲学では現役で学術的に重要な文献ですよ、と。作中で「十九世紀の論理学者たちにいかにたくさんの教訓を与えるか」と亀が言ってるけど、論理学者より哲学者の興味を惹く問題です。
 解説のこの段落の次に、当初は次のような段落があったのですが丸々削除しました。ここに引用しておきます。
《アキレスと亀が登場しますが、運動をめぐるゼノンのパラドクス「アキレスと亀」とは別の問題です(対話の冒頭で話題にあがっている「誰だったか頭のいい人」というのがゼノンのことでしょう)。アキレスは亀に追いつけない、というのがゼノンのパラドクスですが、この対話では追いついたところから話が始まり、別のパラドクスが提示されているのです。》
…これをなぜ削除したかというと、本文を読めば分かることだからです。本文を読めば分かることなのに、なぜいったん書いたのかというと、キャロルについての研究書で、ゼノンのパラドクスと同じ問題だと勘違いしているものがあるからです。
 議論自体はシンプルですが、推論の例がユークリッドから取られているせいで分かりづらいという方もいるようです。
 実際います。知人にもいました。
もし必要なら、本文中の推論を
(A)雨が降ったら、遠足は中止だ。
(B)雨が降った。
(Z)遠足は中止だ。
と読み替えても問題自体は変わりません。
 問題自体は変わりませんが、数学教師であったキャロルにはユークリッドに関する著書もあり、ユークリッドは思い入れがある対象でしょうから、キャロルからしたら読み替えないで欲しいかもしれません。(それと、ユークリッドの第一命題というのは公理なので、「雨が降ったら、遠足は中止だ」という命題とはちょっと身分が違うという捉え方も可能で、その後の、『AやBが真だとは認められない』という読者はフットボールをやるのが賢明、という話の意味が少し変わってくるかもしれません。公理を『真だと認めない』と言っても仕方ないので。…と書いてて初めて気づいたのですが、本文中のBというのは特定の三角形の話なので、もしもその三角形が二等辺じゃないなら、むしろBを真と認めないほうが賢明ですね。)
ちなみにキャロルはこの無限後退(正当化の無限の連鎖)について、マザーグースを愛する彼らしく、「“ジャックの建てた家”のように進む」と書簡でコメントしています。
 『ジャックの建てた家』はかなり有名なマザー・グース(わらべうた)だそうで、まあ無知な私は知りませんでしたが、私の知ってる範囲でいうと谷川俊太郎の『これはのみのぴこ』みたいな詩ですね。『ジャックの建てた家』に興味がある方は、Wikipedia日本語版の「つみあげうた」のページに訳が載ってるので読んでみてください。
 ちなみに、訳者解説の全文の中で最もレアな情報が、この「ちなみに」の部分です。訳文本文よりレアです。
 この対話篇をどう解釈し、問題にどう対処するか、哲学者たちの意見は現在でも一致していないようです。しばしば提案される対処法として、AとBからZを導くための規則を、AやBと並ぶ前提Cとしてでなく、AやBとはカテゴリーの異なる「推論規則」として書けばよい、というものがありますが、その場合も亀は「AとBとその推論規則からZを導けるということをちゃんと書いて下さい」と言うでしょうから、相変わらず無限後退は生じるでしょう。
 たまに「世間的にはこういう意見があるけどそれは間違いなんですよ」っていう書き方を見ると私は、「その意見どこにあるんだ? あるならちゃんと典拠示せよ」って思うんですよね。思うんですけど、諸事情あって自分がそれをやってしまいました。うーん。とりあえず、「この対処法がしばしば提案されるけど結局無限後退しちゃうよね」という方向でこの対処法を紹介してる文献としては、サール『行為と合理性(Rationality in Action)』や飯田『規則と意味のパラドックス』があります。その対処法を適切なものとして紹介している文献というと、とりあえず、八木沢敬『「論理」を分析する』(岩波現代全書)7章などがあります。
 さて、しかし、私がここで簡単に書いてる議論でその対処法を撃破できるのだとすると、なんでそんな弱い立場が「しばしば提案される」んだよ、という疑問がありますよね。私の理解を以下に書きます。その対処法を採用しても「相変わらず無限後退は生じる」、それはそうなんですが、ただし、元の無限後退と、この新たな無限後退は別のものです。元のは、前提がA、B、C、D、…、と増えていくので、「前提」という同じレベルの中での無限後退です。つまり、Zを導くために必要なものは、「AとB」、「AとBとC」、「AとBとCとD」、…、と増えていきます。一方、新たな無限後退のほうでは、レベル自体がメタ方向に無限連鎖しています。つまり、Zを導くために必要なものは、「AとB」、「『AとB』と推論規則α」、「《『AとB』と推論規則α》とメタ推論規則1」、「{《『AとB』と推論規則α》とメタ推論規則1}とメタメタ推論規則ア」、…、と。一つ進むたびに一つメタレベルに上がっていってる。どっちにしたって問題だ、とは言えるんですが(私も訳者解説ではそういう立場を取ってるんですが)、例えば或る論理学者や数学者が、「前提となる命題から推論規則を使って結論を導く」という枠内だけで論理を考えたい場合、「『AとB』と推論規則α」の時点で話は十分で、その後の無限後退については「実際問題として何も問題は起きないし、枠外の話だからとりあえず無視するね」、と言ってもいいわけです。逆に言えば、元の無限後退だと、その枠内で起きる無限後退なので無視できないんですね。その意味で、前提(となる命題)と推論規則とを区別する、という対処法は、限定的には十分に有意義である、ということだと思います。間違っていたら教えてください。
 私としては、亀に対して、「本当に大事なことは言葉にできないんだよ」と言ってあげたいところです。もっと丁寧に言うなら、「論理的な正しさの根拠は、明示的な取り決めとして言葉にすることは(し尽くすことは)できず、むしろ、私たちがAとBからZを導く推論を現実に行うとき、その実践の中にただ示されているのだ」、と。
 ほんとうに大事なものは目に見えないんだよ…と思いながら書きました。
 「言葉にすることは(し尽くすことは)」、の括弧の中が重要で、言葉にすること自体は実は常に実現できています。最初のステップではCとして実現。ところが「本当に大事なこと」をCとして言葉にしたとたん、「本当に大事なこと」はCではなくなっている。Cではなくなった「本当に大事なこと」も、しようとすればDとして言葉にできる。しかしそのとたん…、というように(アキレスから逃げていたときの亀みたいだ!)、「言葉にできない」のではなく「言葉にしようとすればいくらでもできるけど、し尽くすことはできない」のがこの対話が示していることです。それは対話本文を読めば分かるので解説では詳しく書きませんでした。それとは別の些細な点で、「論理的な正しさの根拠」ではなく「論理的な正しさの根拠となる規則」と書くべきかは迷いました。
 私のような教訓を読み取ることには異論もあると思いますが、そうした声に応えるために、後から、他の説を知るための参考文献を挙げています。
 もしかすると亀は「ただ示されている」という神秘的な言い回しの内実を問うかもしれませんが、それはまた別の話です。
言うほど「別の話」ではない気もしますが、とりあえず無限後退は止まります。
あるいはまた、どうしても亀が「書いてくれないなら受け入れません」と言うのなら、対話を諦めて本当にフットボールをするしかありません。しかしその場合、試合中に亀が「そのルールをこのプレーに適用できるというルールは、ルールブックのどこに書いてありますか?」と言い出す可能性があります。そうなればもう、残念ですが、亀とはフットボールすらできないことになるでしょう。
 クリプケンシュタイン…と思いながら書きました。対話中にフットボールの話が出てくるのに、考えたらフットボールを例に規則の話をしてるのを読んだことがないなと思って書きました。ところで、あまり本質的な話ではないのですが、この対話の亀って本当に推論が分からない奴ではなくて、「分からない奴だと思って説得してみて下さい」という奴なので、最後には排除しなくてもちゃんと同じ共同体で生きられますよね。
 プロの哲学者がこのパラドクスをどう扱っているかを(日本語で)知りたい方は、伊佐敷隆弘「ルイス・キャロルのパラドックスから何を学びうるか」(『宮崎大学教育学部紀要人文科学』第86号所収)、野矢茂樹『哲学・航海日誌1』(中公文庫)、入不二基義『相対主義の極北』(ちくま学芸文庫)、飯田隆『規則と意味のパラドックス』(ちくま学芸文庫)、永井均『世界の独在論的存在構造』(春秋社)などを参照して下さい。
 実は私が持ってる『相対主義の極北』は春秋社の単行本版で、ちくま学芸文庫版は図書館で借りただけなのですが、文庫版には野矢さんの解説がついてて、しかもそこでキャロルのパラドクスの話をしてるので、そちらがおすすめです。単行本も文庫も品切れですが。
 あまり解説を長文にしたくなかったために割愛した他の日本語文献として、ピーター・ウィンチ『社会科学の理念』(新曜社)、ジョン・サール『行為と合理性』(勁草書房)、スティーブン・ピンカー『心の仕組み』(ちくま学芸文庫)、飯田隆『言語哲学大全2』(勁草書房)などがあります。哲学の入門書では、永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』(ちくま学芸文庫)、青山拓央『分析哲学講義』(ちくま新書)でもキャロルのパラドクスが扱われて(解釈されて)います。
それぞれの個性的で真摯な思索の中でこの対話が検討されており、キャロルの示した問題が論理学の哲学にとどまらない広範な意義を持ちうることが分かります。
 「広範な」というのは、合理性全般とか言語全般についての哲学的思考という広い範囲、くらいの意味で書きましたが、永井さんの『世界の独在論的存在構造』においてはキャロルのパラドクスから神の存在論的証明やコギト・エルゴ・スムまで全部繋がってるという超壮大な話になっています。
また、細井勉『ルイス・キャロル解読』(日本評論社)は数学者の視点からこの対話(をはじめとした多くの作品)を翻訳・解説しており、拙訳の推敲の際にも参考にさせて頂きました。
 この『ルイス・キャロル解読』では、亀の主張にわりと好意的というか、亀のような視点を取ればそうも言えますね、という感じの紹介になっています。日本でキャロル研究をやる人はたぶんほとんど文学系ですが、数学の人が研究してくれて、一般向けの書籍を書いてくれるのは本当にありがたいことです。(とはいえもちろん、全ての数学者がこの本の意見に同意するとは限りませんが。)
 最後に翻訳上の余談を一つだけ。本文末尾の「呆れす」は、原文では「A Kill-Ease(安らぎをぶち壊す者)」です。「Achilles(アキレス)」は英語では「アキリーズ」と読まれるため、「ア・キル・イーズ」と同じ発音になっているわけです。
 ここでは他の余談を。
 まず亀が言う「褒めすぎ…、いえ、重すぎです」「なにしろ貴方はとても重々しい。」というのは原文では「You flatter me ― flatten, I mean(あなたは私にお世辞を言っている――いえ、私を平たくしています)」「for you are a heavy weight(あなたはとても重い人/有力者ですからね)」です。
 終盤に出てくる「海亀モドキ」は「the Mock-Turtle」ですが、これは『不思議の国のアリス』に出てくるキャラクターです。未読の方は読むか調べるかして下さい。『アリス』に合わせて訳すとなると誰の訳に合わせるかで全然違う名前になってしまうので、無難に「海亀モドキ」にしておきました。
 最後に、原文では書体がイタリックになっている語が結構あるのですが、全て無視して訳しました。もちろん、イタリックの部分を機械的に太字や傍点にして訳すという手はありますが、あまり意味が無いように思えたからです。気になる方は原文を確認して下さい。原文は「フェアユース・リポジトリ」で閲覧できます。
 お読みいただき、ありがとうございました。
 解説の解説までお読みいただいた人がいたとしたら、お読みいただき、ありがとうございました。
 二〇一九年三月
 実をいうと、2012年8月に訳して自前のサイトに載せたこの対話篇を、しっかり見直して、さらにちょっとした解説をつけて、それで青空文庫に登録してもらおう、というのが「2018年の目標」の一つだったのですが、登録申請のメール送信が完了したのは結局2019年3月になってしまいました。でも達成できたのでよしとします。そしてこの「解説の解説」は(老人と海のときと違って)あまり時間をかけずに書きました。
(完)



著:石波杏 Kyo Ishinami
公開:2019/05/12
更新:2021/03/01