光−生きる目的について−
ずっと、ずっと、「人間の生きる目的」について考えている。
人生において、ある満足感を得るために追求する幸福、とでも言えるのかもしれない。
しかし、この満足感も幸福も、人それぞれに異なり、計り知れないものである。
同じものを見つめながら、ある者には幸せであり、ある者には不幸に見えたりすることもある。
尺度というものが存在せず、永遠に達成されない目的のようにも思える。
年を重ねるにつれて、心が熱くならなくなった自分にいらだちを感じながら、思いをめぐらす。
いつしか死に向かい始めた心のベクトルを、生へ向けたいと思いながらも、時が流れてゆく。
人間は肉体よりも心が先に死ぬらしい。それはいとも簡単にやってくる。
ふと風景に光が走った。身体に光が駆け巡る。私の心が躍っているのが分かる。
光は時にまぶしく、私たちに何かを語ろうとしている。心よよみがえれ。
何気ない毎日が流れてゆく。記憶に残らない風景がまぶたを通り過ぎる。
ふと心がくすぐられる風景に出会った。身体が溶けてゆくような錯覚が心を包み込む。
平坦に生きることに慣れてしまった心が死にかけたそのときに、光は生への渇望を触発する。
桜の季節がやってきた。日本人独特の物見遊山の対象である桜を毎年追いかけている。
その満開のすばらしさ、見ごろの短さと潔さが、日本人の心を魅了するのだろう。
九段の夜桜を追いかけた。光に浮かびあがる桜の声が、私の写真心を捉えて放さない。
彫刻家野村慧、彼女の創作活動がこの作品を生み落とした。
ライトに照らし出されたこの作品を見たときに、私は心を奪われてしまった。体が震える。
そして、カメラを通して生命を吹き込む作業に執りつかれてしまった。
淡い光に照らされて身体が溶けてゆく。私の呼びかけに身体が反応している。
光が身体を導いてゆくのか、身体が光を従えてゆくのか。身体が光と同化してゆく。
写真家とモデルのコラボレーション、光が関係を助けてくれる。
スレンダーなボディが私の前のわずかな光の中で、確かに何かを訴えようとしている。
光との戯れの中で、運命を受け入れながら運命を変えてゆこうとする彼女の力を強く感じる。
きっと差別が無くなる日は来ないのだろう。しかし、それを信じなければ社会も変わらない。
私たちは、自らが持つ幸福の尺度を忘れ、世間という主体が曖昧な不思議な尺度を恐れる。
本当は、自らの尺度は世間と同じである必要もなく、ただそれを信じれば良いだけなのである。
生きることは孤独で、自らの人生の幸福は、自らでしか決して評価できないことなのである。