未−関係性について−
人が、生きるために想いを寄せているものが、そこに横たわっている。
私はそれを拾い上げて、世の中に示してみたい衝動にかられるのである。
私の言葉で語りつくせるかは、未だ不確かでしかないはずではあろう。
けれども、そうした行動が、その人との絆を創りあげると思えるからである。
喜びが喜びであり、悲しみが悲しみであることは、すべて自分の心に由来するに違いない。
それなのに、人間は心の主観性を客観性に置き換えて憂いてしまうのはなぜだろうか。
生きる目的が儚いものに思えたとき、、人と人との絆が何かを支えてくれるに違いない。
大切にしなければならない、関係性のあり方を見つめてみたいと思うのである。
今始まったこの旅が、この先どのように展開していくかは、神のみが知り得るのかもしれない。
小さな仏を手に取って、私が思っていることを語りかけ、これからの私について尋ねてみる。
私が私であるために私にできることは何、そんな想いが絡まって心が抜け出せなくなる。
人は、生命の連鎖の中で存在し、そしてはるか彼方に向かって走っているのに違いない。
心を撮りたいと常々思っていながら、いつも目の前のその心のありかに戸惑うばかりである。
写真という行為の中で、私の行き着く方向に、この人が想う心があることを願うばかりである。
私の初めの一歩は、今を生きている身体と会話をし、それを切り取ることからしか始められない。
「風姿花伝」で世阿弥が語った「秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず」の花とは何か。
きっと、強烈に社会を見つめ、己を見つめた結果の花であり、その花は力強い花に他ならない。
わが身を強く守る棘、そしてこれほどに己を主張する真っ赤な薔薇に何かを感じていたい。
廃村「峰」、昭和47年に人が去るまでかつてそこには村があり、人が集い、生活が営まれていた。
自然に飲み込まれて行く人の痕跡を、耳をすませて、この身体いっぱいで吸い込んでみたかった。
すべてが自然に同化するまでもうわずかの時間なのだと、この空間の叫ぶ声が聞こえる。
太陽の光を浴びながら、遠く遠く海を見つめているときに、ふとしたことで白い花と出会った。
白い花が、海辺を歩く身体に確かに視線を投げかけ、何かを語りかけているに違いないと思った。
いつしか白い花が、身体と同化し始めたときに、心は遠い彼方に運ばれたのかもしれない。
緑の芽吹きを見せたいと訪れた秩父、再び紅葉の頃の訪れは、琴線の形の確認かもしれない。
新しい心が芽生えてくると、古い心は昔の引き出しにしまわれてしまう、人の心は不思議だ。
でも、あの時の心は今も同じままの心だと信じていて良かった、琴線の音色は変わらなかった。
あの夏の日、あなたと私を繋ぐものたちが語った想い出は心の中で生き続けているのだろうか。
半年の歳月、これからも忘れられない大切な想い出のかけらだけが心に残されていくのだろう。
忘れることで生き続けられる人間の、記憶の彼方に残されていくものたちを信じていたい。
ある芸術家の手で創られた小さな球体、この球体はその人の想いを託して私の手のひらにある。
真っ赤な光を浴びてこの球体と戯れている私には、不思議なものが身体に伝わる思いがする。
私の身体の中を流れる真っ赤な血潮が同調して、私に何かを教えてくれている気がする。
どうして私はここにいるのだろうか、時間の流れは私をどこかへ運んでくれないのだろうか。
人生という大きな時間の流れと、今という些細な時間の流れ、双方が身体に纏わりついて苦しい。
人生という時間の流れを忘れることで得る安堵が、過去も未来も洗い流してくれると信じたい。
あなたが、大切な人のために写真に納まることを選んだ心は、今も息づいているのでしょうか。
纏う衣装や手にしたものたちが、そのときのあなたの心に様々なことを語らせてくれました。
髪が伸びるように、時の流れは人間の表情を変えながら、心はそこに留まり続けると信じたい。
雨の御岳山に入った。ロックガーデンの苔むした匂いが身体に纏わりつくような感覚になる。
繊細な身体が水の流れに落ちるかのように、私の目の前で上下を失ったように喘いでいる。
木々や花々が水を吸い、生き物たちがじっと天候の回復を待ち、森は静かに息をしている。
夏の暑い日、たどり着いた海辺には、遠い昔に置き去りにしてきた何か懐かしい匂いがあった。
そこには大切なそれぞれのドラマが存在し、夏の記憶を留めようと心を投げ合う人々がいた。
海原に心が溶けてゆく感覚に身を委ねながら、忘れかけていた何かを探しあてた気がする。
綾広の滝、ここは人が滝に打たれ神に祈る場だ。傍らの小さな祠が神の存在を知らせる。
火が燈された赤い蝋燭を手に取り、この神聖な空間の気をこの身に寄せたい思いに駆られる。
じっと炎を見つめていると、もうひとりの私がやって来て、私の心に何かを燈して行った。
御岳山、真夏にこの山を訪れることも3度目となる。山は私を受け入れてくれたのだろうか。
ロックガーデンの苔むした沢を裸足で歩きながら、自らを自然に同化させたい衝動に駆られる。
衣を脱ぎ捨てることは自らの意思か森の意思か、自然とまぐあうとはこうしたことかもしれない。
この家の主人はいつここを去ったのだろうか。主人が残したものたちが今も何かを語る。
自然に帰れないものの哀れに満ち溢れ、私の心に負の心が容赦なく纏わりつく思いがする。
人に創りだされたものたちの滅びゆく寸前の断末魔の叫びは主人が聞き置く必要があろう。
夏の光が残る箱根、千条(ちすじ)の滝を訪れた。わずかに入る陽の光が森の深さを語る。
目を閉じて光と戯れていると、纏った衣とともに拭いきれない過去が流されて行く気がする。
ここまでの道のりで出会った草花たちが、現実に戻ろうとする私の後ろ髪を引いている。
雨の降った翌日、紅葉の季節を迎えた富士五湖へ、秋富士を眺めに出かけて行った。
樹海が足元に広がる紅葉台、西湖の静かな湖畔、精進湖からの子抱き富士、心に映されて行く。
この夏に登った富士にはもう雪が積もり、私の手の中の富士は再び眺める富士と化していた。
もう使われることのない学び舎の中に、そっと身を置いて自然の姿で接してみよう。
窓辺に佇み、陽の光を浴びながら、そっと目を閉じたあなたは、何を想っているのでしょうか。
置き去りにされた建物の、その目的が抜き去られた跡に残されたものたちが何かを語っている。