生−命について−
「人間の生きる目的」を探し求め続けてきた。
今は、人生の目的は、結果ではなく、過程にあると思えている。
「生」で始まる人生は、長い道のりを経て「死」に至る。
「死」、自らがそれを体験できない中で、他者を客観視することでそれを体感する。
「死」へのいざないが、「まぐわい」を導くことも確かだと思うのは私だけだろうか。
イザナギとイザナミの出発点がそこであったことも、人間を象徴している。
自らの痕跡を残すことが、究極の最も大局に立った人生の目的ではあるのだ。
しかし、「祈り」もまた、人生の目的のひとつだろうと思えたときに、
人間の浅ましさが見えるのかもしれない。
「人生の目的」、「人間とは何か」、
これからも、それを感じとれる瞬間を拾い集めていたい。
命の営み、祈りの時間、四季の移ろい、私たちは様々な場面でまったく違う心の震えに遭遇する。
森羅万象、命は授かりいつかは滅びて行くことと知りつつも、誰にも生命の階段の終わりは見えない。
私たちは、生命という時間軸の流れの中を、喜怒哀楽とともに歩いているのに違いない。
人との戯れ、神との出会い、特別な日、私たちの身体が蘇るために必要な時間がそこにはある。
心の高揚、肉体の浮遊、激しい鼓動の中から、新たな血が湧き揚がってくるのが分かる。
擦り減ってしまう命を再生してくれるのも、また、命なのかもしれない。
多様化した社会の中で、それでも人が大切にしてきた時間や空間が語るものがそこにはある。
人の心を虜にする古くから息づくものたちは、決してひとつの物差しでは計れないものなのだ。
閉塞感が漂う今の社会の中で、私たちを助けてくれる何かがそこにはある気がしてならない。
富士山に登った。パワースポットと呼ばれる富士山の不思議な力をもらうために登った。
雲の上に舞い上がり、草木の薄い山肌をひたすら歩き続ける先にある何かをつかみたいのだ。
力強い太陽がはばたき、自らの立ち位置が影となり、今までとは違う自分がそこにいる気がする。
父が亡くなった。2月23日早朝、有馬病院からの連絡で家族4人揃って病院に出向いた。
父の認知症に振り回され、いつまで続くのかと思っていた介護の日々に突然終止符が打たれた。
あっけない人間の死に直面すると、生きることとは何であるのかを改めて考え込んでしまう。
花が咲き、木々は萌え、輪廻の中での生けるものたちの問いかけを、私たちは当たり前に眺めている。
生きる環境がいかに変貌を遂げても、衣を脱ぎ捨てた人間もやはり生けるもののひとつである。
目に映る生けるものたちの生きようとする心が、自らの心を触発し、まぶしく輝くのかもしれない。
生きるために想いを寄せているものたちが、時の流れの中で私に何かを語りかけてくれる。
時を刻んだ風景が、生きることに疲れた心を静かに飲み込んでくれる気がしてならない。
未来を生き抜くために必要な過去を、そっと心で抱きしめていたいと思うのである。