旅−心の洗濯について−
“旅の恥はかき捨て”ともいうが、旅は人を別人にさせる作用があると思う。
人間はある時間別人になることで、日常の自分を認められるのかもしれない。
人間の“生きがい”は年をとるにつれて“死にがい”になってゆくと聞いたことがある。
枯れてしまった人に熱く語りかけることは無意味だが、その人にも熱い時代はあったのだ。
母の死に直面したときに思った。人は生きることをあきらめた時に肉体が滅びるのだと。
人はそれぞれにその人の生きるリズムを持ち、時折心の洗濯の必要性に迫られる。
衣類と同様に洗濯の繰り返しは、決して新品への回復を意味してはいない。
人生の階段を踏み外して転がり落ちないように、心の眼を研ぎ澄まそうとするのだ。
心の洗濯、そのひとつが“旅”なのかもしれない。日常と違う空気が、心を活性化させる。
心の洗濯は改めて心を奮い立たせ、張りつめた日常を生み出してゆく。
この繰り返される間を人生と言うのかもしれない
紅葉の季節がやってきた。その彩りを心に刻みたいと、裏磐梯、吾妻に足を向けた。
五色沼に降り立つと、その紅葉のすばらしさを打ち消すように観光客の声が耳に響きわたった。
人が視界に入らぬように小さな秋を拾うことにしよう。ここには確かに秋があるのだから。
12月の箱根を旅した。紅葉が残る箱根湯本を後にして大涌谷を越えて芦ノ湖へと向かった。
暖かい光が射し込む中で、澄んだ空気が水面を走り、湖畔は冬の訪れを予感させてくれた。
また明日からの日常と向かい合うために、今日の光は私を支えてくれるだろう。
空は晴れ渡り、夏の空気が海辺を走りぬける。日常と非日常が入り交じった時間がそこにある。
生活の匂いのする空間への他者の訪問が、ふたつの時間をつくりあげているかのように思える。
私には雲が駆け足で流れてゆく気がする。きっと私の時間がゆっくりと過ぎている証拠なのか。
日光東照宮は、徳川家康公を祀る墓所である。この絢爛豪華な神社に家康の人生が重なる。
1999年、東照宮は輪王寺、二荒山神社とともに「日光の社寺」として、世界遺産に登録された。
この山一体は多くの観光客を迎え入れつつも、独特な霊気を発しているように、私には思える。
5月の連休、春風が夏風に変わろうとしている。体を透き通るような風が吹き抜けてゆく。
鯉のぼりも気持ちよさそうに揺れている。海辺に咲く花も恋人たちもせいいっぱい生きている。
その一方で、私の目前で朽ちてゆくものたちは、生けるものたちへ何かを語っているようだ。
ずっとずっと気になっていた。若者が集う海辺の島、そこには長い歴史も刻まれている。
夏の暑い日に、その島を訪れてみた。賑やかな海辺をよそに、島の断片が私を迎えてくれた。
もう少し撮り続けたい気がする。そう思うと、この作品はこれからに向けた序章であろう。