和−日本的なものについて−
一年を通して表情豊かな四季の気候の変化が、日本人の心の広さを生み出してきた。
春の桜、夏の花火、秋の紅葉、冬の雪、四季折々の風情は人間に大きな影響を与えている。
古来から日本の集落は、その周辺の自然に神を宿らせ、コミュニティを育ませてきた。
祭りは年に一度、神を集落に迎え入れる大切な日であり、人々を蘇らせてもきたのだ。
自然を敬い自然を受け入れることで、日本人は粋、わび、さびと独特の文化を創りあげてきた。
自然と共生する建築、自然を取り入れた日本的空間、その細部にも和が香っている。
神社の鳥居、縁側、格子戸、障子、生垣、結界石にいたるまで、日本人が創りあげた境界は、
物理的に全てを隔てるのではなく、五感を頼りに心に訴えかけるものではないだろうか。
人と人との関係も、曖昧さを尊んだ“さり気なさ”が、私にはうれしい気がしている。
しかし、契約社会がはびこる中で、気がつけば様々な心が周りから消え去っているように思う。
粋、わび、さび、日本文化を代表する心のひとつである。こうした心は今も存在する。
ふと心が惹かれてゆく風景に、何とも日本的に思える風景があることを感じるときがある。
これは、あくまで私が感じた、私の思い描く「和心」なのである。
原宿を降り立つと大きな森が待ち構えている。初詣に出かける人々が眼に入ってくる。
長い参道を歩いて本殿に向かう。この空間がもうひとつの心を思い起こす時間を与える。
人それぞれの思いが交差する中で、初春の出来事がそこでは繰り広げられていた。
三社祭を撮り始めてから8年になる。次第に祭り以外の浅草の歳時記を拾うようになった。
そのひとつとして、年に二度、浅草寺で行われる金龍山に由来する“金竜の舞”を撮影した。
竜は浅草寺参道を雷門に向って下り、さらに本堂に向って上ってゆく。そして舞が披露される。