The Philippines of 40 years ago
はじめに
読者のSさんから,フィリピンを語る特別編2,鈴木さんの「1970年のフィリピン」を読んだ感想をメールで頂きました。私達の世代(1960年代生まれ)が知らない世界を生きてきた方の実話は,非常に興味をそそります。当HPに寄稿の依頼をしたところ,快諾頂きこの企画が実現しました。Sさん,ありがとうございます。
愛するフィリピン、思い出と今 その3
今回は食べ物について書きます。
キャンプの食事は何を食べたのかあまり覚えていません。フィリピンの賄い方の造った物を食べていたのですから、最初は口に合わなかったのでしょうが、比較的悪食で何でも食べる胃袋だったのとやはり若かったのでしょう、すぐになれてしまったようです。その中で覚えていることを幾つか。
何故か記憶に残っているのは、小さな玉葱です。径、2〜3cm位の大きさで赤いのと白いのがあったように思うのですが。これを中華なべの中にいれ、油で炒め、スープを造ります。これは大変美味しいでした。多分、あまり油濃いものが合わず、スープが体にあったのでしょう。この玉葱は日本にはないようですね。総じて、フィリピンのものはトマトも小さいようです。これを見ると、直ぐに努力が足りない風の意見を言う人がいますが、農作物というのはその国の気候、害虫などの条件が全く異なるため簡単にいえません。
山の中のキャンプでは時々野鳥を射落として持ってきてくれました。今なら環境問題かもしれません。オレンジ色のくちばしのカラスより少し大きい鳥でした。カラウかな?焼けた内蔵が美味しかった。
ハレの食べ物とではレッチョンですね、何か祝い事があると、食べました。殺すのから始まって、毛を取り、中に香料を入れ、料理自体が祭りの一部になっているのでしょうね。でも、自分の小屋の下で残飯処理をしていた豚がギャーギャー鳴きながら処分されるのはあんまり好みでなく、その間は山の中に、調査と称して逃げておりました。一番初めに取る栄誉を与えられましたが、味は、焼肉のような濃厚な味付けを好む人間としては、今一で、何時も耳を取りかじっていました。まあイスラム国で食べた羊の煮物よりは食べやすかったですが。
町の料理屋でサシミがあると聴いたときには少し興奮しました。発音の似た料理ではないかと思ったのですが、生魚を使うとのこと、注文すると、酢でころした魚料理が出てきました。サシミと呼んで不思議はありません。暑い所で生魚を食べる工夫でしょう。今でも、サシミとよんでいるのでしょうか?戦前からの日本文化の影響でしょうかね。
今ほど日本食が普及していなくて、高い日本料理店がマニラにはありましたが、その他では見かけませんでした。外食で日本風の物が食べたいときは中華料理店に行きました。その後、インドネシアなどに行きましたが、中華料理店は何処にもあり、中国人の持つバイタリティと歴史には感心しました。おかげで何処に行ってもらしきものが食べられました。特に麺が好きなので。フィリピンでは麺の食べ物はあまり聞きませんが、何かあるのでしょうか。
ご存知の通り、果物は豊富です。前に書いたとおり、バナナを見て喜ぶ世代ですから、始めて見る果物ばかりでした。マンゴー、パイナップル、パパイヤ、・・。思い出にあるのはパパイヤです。というのは山の中を歩いていると、時時、パパイヤの木に出会います。喉が渇いているときに熟したパパイヤはとても美味しい。付近には家もなく、自然にジャングルの中に出来ると思っていたのですが、今考えると、昔、林業伐採のキャンプ場のあったところに捨てた実が大きくなったものだと思います。林道の直ぐ側でしたから。でも何も手入れしないで、あんなに甘い果物が取れるなんて、羨ましいですね。日本で言えば、柿の感覚でしょうか?熟柿に似てないかな?少し匂いがありますが、大好きです。日本にはあまりないし、高いですね。柔らかく輸送が難しいのかな?
食べ物になると長くなります。今回はこの辺で。最近は日本食、ハンバーガーなど外食が増えているようですが、その他は40年前といってもあまり変わっていないでしょうね。当然ですが。
愛するフィリピン、思い出と今 その2
Sです。今回は言葉について書きます。
フィリピンの英語は、あるパンフレットによれば、世界で、アメリカ、イギリスについで会話人口が多いそうです。最近はこの能力を生かし、英会話の先生やコールセンターに仕事を得る人が多いようです。私も趣味で英会話をインターネットで習っています。素晴らしいことだと思います。
でも、平均的な英語会話能力は40年前に比べ、落ちているように思います。私が山にいた時、小学校を出ていないような人夫さんも英語で会話していました。その後、マルコス大統領の時代でしょうか、タガログ語が国語となり、英語能力がダウンしたようです。民族感情としては当然と思いますが、インターネット、グローバルの時代に日本人がウンコラエーコラ言っているのに惜しい気がします。もちろん、これは庶民レベルの話で、教育を受けた人の英語は今も素晴らしいものがあります。習っているインターネット英会話EOLでも20歳前後のお嬢さんに流暢に話され、何是こんなに差がつくのかと考えてしまいます。向こうの方も何故こんなに下手なのか不思議でしょうが。
初めて、空港に着いたとき、税関を通るとき所持品について質問され、答えられませんでした。彼は皮肉っぽく笑いながら、「英語が分からない」と次の客に言っていました。こんなことは分かるのですね、不思議に。
実は空港へは商社の人がきてくれることになっており、この辺は全て手配してくれることになっていたのです。マーよく出てくるフィリッピンタイム(私自身はあまりそんな思い出はありませんが)に、駐在員も毒されていたのでしょうか。
後、多分今でもそうだろうと思いますが、空港のゲイトを出るときに、前の圧倒的な人だかりに圧倒されました。顔つきに明らかに違う人の集団、当たり前ですが、こちらに向かって騒いでいます。出る前に空港にはこそ泥の類がわんさといると驚かされている上、頼りにした駐在員はいないので、その中へ一歩踏み出すときにはかなり勇気が要りました。幸い、出た直後、タクシーの運転手に荷物を引っ張られているとき、駐在員が到着しましたが。
山元では、普通何処の国へ行っても同じで、ほとんどその国の母国語で話します。作業を直接人夫の人に伝えるため、通訳などいませんから当然です。必要な単語は限られますし、向こうも一生懸命ですからすぐ通じるようになります。これがフィリピンでは英語でした。
ミンダナオの山の中で小学校も出ていないような人夫さんや賄さんが皆英語を話しました。今では無理になっているのかもしれません。雰囲気としてそう感じています。どうでしょうか?民族感情として当然とは思いますが、インターネット等で世界が一体化し、英語が国際流通語となっている状況の中では損をしているでしょうね。でも、教育ある人の英語力は素晴らしく、この中のどなたかの話に、「インターネットを駆使し、世界を相手に商売をしている」とありましたが、さもありなんと思います。
私の英語は最初に書いたようにお粗末なもので、仕事と日常語なら相手の助けを得てと言う程度でした。これが良いこともあります。鉱山というのは最初、山師といわれる一匹狼の技術者が現地で兆候を見つけます。彼らは通常資金力がありませんから、金持ちや会社に応援や共同開発を持ちかけます。
この場合も我々は大手の林業会社の依頼で調査をしていました。しかし、しばしばこういう場合には山師と会社の間で権利の割合などをめぐり争いが生じます。山小屋にいると、山師の一族が来て話しているうちに興奮し、ライフル銃を持ち出し、撃つしぐさをします。
今でもそうでしょうか、日本にはない銃ですが、何処にでもありましたね、銃は、当時。多分、自分にではなく会社を相手に怒っているのだとは思いましたが、意味が分からないで済ませました。そのうち、英語が分からないのでは言っても仕方がないと思ったのでしょう。他ののんびり話しに移りました。
Jungleさんへ
第1回の原稿お送りします。編集はお任せします。よろしくお願いします。
愛するフィリピン、思い出と今 その1
Sといいます。今、65歳、退職し隠居生活です。フィリピンを愛する一人として愛読させていただいています。鈴木さんの「1970年のフィリピン」を読み、刺激を受け、思い出話と今の関わりを、書かせていただきます。
始めて行ったのは40年前、1968年7月〜12月、行き先はミナダナオ島アグサン州のブツアン。目的は銅鉱山を探すためで、ほとんど山中におりました。同じ目的で1974年5月〜10月に行きました。その後、残念ながら、接触する機会はありませんでした。定年前後から、暇つぶしに英語の勉強を始めました。インターネットを使い、ダイレクトに外国にいる人と英会話の勉強ができることを知りました。フィリピンの先生で、ほぼ毎日30分、月2980円で若い女性との会話を楽しんでいます。このようなことをお話します。
40年前というと随分古い話ですが、自分ではつい最近のことのように思い出します。当時、会社生活で閉塞感にうんざりしていたので、海外での一人キャンプ生活は開放感で一杯でした。そこにフィリピンの人の持つラテン?気質がぴったりとはまった気がします。山中では唯一の日本人技術者で、戦後の感情もあり心配されましたが、事実問い詰められたこともありますが、私は生き生きとすごしました。見舞いに訪れた上司が楽しそうにやっているのでびっくりしていました。
行った先はブツアンの北東の山中、車で4時間ほどかかったでしょうか?当時、フィリピンの輸出を支えていたラワン林業に早くも先が見えてきて、代わりに銅鉱山開発が登場してきた頃でした。仕事は兆候のあった銅鉱石を確認し、開発の可能性を探るものでした。20人ほどの人夫さんとともに山の中でキャンプ生活、週末にはブツアンのホテルにいました。
未だ日本ではバナナが貴重でしたから、あちこちにぶら下がっているのはとても幸せでした。また、マンゴーやパパイヤなどは始めて食べました。感激したのはデルモンテのジュース、当時日本では粉末ジュースを溶かして飲んでいた時代ですから、本物の美味さに感動しました。
調査は山の中を歩きます。日本での調査というと、ほとんど一人でしたから、山刀をもった5人連れとは随分豪儀な気がしました。日本では弁当持参です。しかし、ここでは5人ほど、一緒に歩くのですから、一人が先行し、ご飯を炊いて待っていてくれます。炊き立てのご飯を毎食食べられるのですから幸せです。食器はというと、バナナの葉を切り取り、その上に載せ食べました。私を除き、手づかみでした。おかずは私を除き、ほとんどなし、塩と唐辛子、塩魚ぐらいだったでしょうか?白いご飯を食べること自体がご馳走だということは後で知りました。また、この塩魚が何よりも自分の口に合いました。ご飯に会うのでしょうね。
手づかみの件、最初は?と思いましたが、後に、インド人は上流階級も手で食べ、手と口と2回味わうと聞き、そういえば、我々も寿司は手で食べるなと文化の違いと考えました。食堂では皆、スプーンとフォークで食べました。その後、日本の食堂でナイフとフォークでご飯を食べるのに、悪戦苦闘し、スプーンでご飯を食べる賢明さを悟りました。
山にいたため、日頃は地元の人とは付き合いはなかったのですが、なにしろホスピタリティーの国ですから、珍しい外国人が来ているという訳で、バリオフィエスタといいましたか、お祭りによく招かれました。上席に座らされ、未だ若かったこともあり、誰かセニョリ−タと踊れということになります。大体、小学校の若い先生というのがパターンでした。少し、思いの浮かぶ先生もいますが、残念ながらそれ以上の進展はありませんでした。