三河のエジソン、発明王加藤源重氏
 源重さんは、幼少より鍛冶屋として農機具を製作する父の背中を見て育った。
その影響か中学卒業後すぐに旋盤や溶接技術を習得し、やがて岡崎市の紡績会社に機械設備担当として就職する。
 源重さんのその後の人生を大きく変えることになる大事故が起こったのは、19 91年春、56歳のときであった。仕事中に機械に右手を巻き込まれ、大怪我を負ってしまったのだ。

 病院では右手をすべて切断すると言われた。こうした怪我の場合は、手首以下を切断するのが通例であったようである。しかしそのとき源重さんは、わずかでも残っていれば、その部分で何かできるはずだと、考えた。そして粘り強く医師に頼み、4本の指と手のひらの大半を失ったものの親指のつけ根1センチほどを残すことができた。

 事故後の生活で「右手で箸を使って食事をしたい」という夢があった。しかし指のない手で箸を使うという発想には、だれも見向きもしてくれない。慣れない左手で図面をおこし、メーカーに製作を依頼しても、返ってくるのはいつも「不可能」という答だけだった。 
 それなら自分で作るしかない。これが自助具製作のきっかけとなった。失敗の連続、試行錯誤のすえに、ようやく不可能が可能になった。
 氏の信念は Never give up !
絶対に、あきらめない。
福祉工房あいち
2000年1月、源重さんの自宅横にある作業場を拠点に、約50名の技術ボランティアグループとして発足した。工房ができたのは、源重さんの活動がマスコミに取り上げられたことで全国からたくさんの注文が入るようになり、一人では十分に対応できなくなったからである。

 自助具は使う人、一人一人に合った使い勝手の良いものでなければならない。障害の程度はそれこそ千差万別である。増え続ける要望に答え、依頼者から十分なヒアリングをするためには、人手が必要であった。地元紙で「アイデアと技術を貸して下さい」と呼びかけ、福祉工房あいちがスタートした。集まった仲間は、大工、溶接、旋盤の技術者など定年退職をした60代の人たちが中心である。
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<THE END>