映画のタイトルは忘れたけど、監督は矢作俊彦、内容は日活活劇を甦らせるという痛快な作品。その中で「エースのジョー」こと宍戸錠が「男」のタイプを分類して、こういいます。

「男には2種類ある。笑っている奴と、死んでいる奴だ」

何とも、強引な分類の方法ですが、映画を観れば、ああなるほど、ある視点に限れば、この分類も成り立つのだとわかります(ちなみに、第3のタイプがあるのですが、それは映画を観てのお楽しみ、ということで)。

エースのジョーに負けないくらい、強引な方法で原型師を分類すると、2タイプにわかれるのではないかと思います。ここでいう原型師とは、元ネタがあって、それを立体化する作業を生業としている人を指します。

まず、元ネタがもっている情報を、自分の言語(=技術)を使って消費者に語りかけてくるタイプ。

もう一つが、元ネタを創造した作者が目指そうとしたことを汲んで、それを、やはり自分の言語で再構築した立体物を使って、消費者に語りかけてくるタイプです。

これは、どちらが優れているか、という問題ではありません。その原型師のスタイル、表現方法なのですから、比較してどう、というものではないのです。そのところ、汲んでおいてくださいね。

前者の典型的なタイプは、宮川武さんでしょう。宮川さん原型のフィギュアは、元ネタがもつ魅力が十分に引き出されているといえます。多くのファンに指示されているのも、ファンが元ネタに対して抱いている魅力が、いわば「宮川節」により、イメージ通りに立体物に再現されているのです。

しかし、とあえて続けさせてもらえれば、その魅力は、元ネタを知っている人にしか伝わりにくいとも感じます。宮川さん原型のフィギュアは、良くも悪くも、2次元である元ネタのイメージを、忠実に(=情報を共有している消費者にとって、最も望ましい形で)表現がなされているのです。そのため、元ネタに関する情報を共有していない者にとっては、「いつもの宮川節かあ」という印象を抱かせてしまうのではないでしょうか? って、私のことなんですけどね。

その例がマルチ。宮川さん原型(販売/ちびーず)のフィギュアを購入した時点では、私は『To Heart』のことは知らず、マルチがメイドロボだ、というくらいの情報しかありませんでした。流行ものだし、押さえておこうか、という気持ちで購入、製作してみたのはいいけれど、結果は……。今にして思えば、イメージとはずいぶんかけ離れたものになってしまっています。もし、『To Heart』に関する、あるいはマルチに関する情報量がもっと多ければ、もう少しはましな完成品を仕上げられたのではないかと思えて仕方がないのです(そんなわけで、コレもリベンジの予定だ!)。

ところが、「なるほど、これがマルチか」と、フィギュアを見て、キャラクターを理解したことがありました。ディーラーONeが99年冬のWFに出品する予定だった、「CHOCO風マルチ」です。詳細は別項で扱うとして、その原型からは、記号化された「マルチ」、という情報ではなく、元ネタ(この場合はCHOCOさんが描こうとしたマルチ像)で描こうとした想いが、立体物から伝わってきました。

似ている、とか、似ていない、という次元の問題ではないんですね。もっとはっきりいえば、CHOCO風マルチの原型師であるさわたりさんの作品(といってもマルチを含め、3点しか製作したことはありませんが)は、どれも原画に似ていない(!)、換言すれば2次元を3次元にトレースしたものではない、という印象なのです(この辺りのことは、当人も「似ている」といわれると「そうか?」と疑問を抱いてきたそうなので、そうなんです。断言)。

じゃあ、なぜ、似ていないのに似ているのか?

同居人は前職で、中西立太先生(『アーマー・モデリング』誌を読んでいるモデラーなら知っているよね?)の担当、というか、原稿取りをしていました。若い編集者にいろいろな知識を伝授するのがお好きな方だそうで、こんな話をしてくれたといいます。

「ある作家を目標にするなら、その人を目指しても、決して追いつくことはできない。その人が目指している人を目指しなさい」

何でこんな話を覚えているかといえば、同居人が私の上司だった頃に、散々この話を聞かされ、「若いのに良いこというなあ」と思っていたから(笑)。実は、中西先生に教えられた言葉なのにね。

つまりは、そういうことではないかと思うわけです。元ネタが突きつける情報、ではなく、元ネタを創造した人が表現しよう、目指そうとしたことを原型師が目標にしたからこそ、元ネタと同じか、あるいはそれ以上の作品が創造されるのではないでしょうか。そのことを、初めて「CHOCO風マルチ」を見た時に実感しました。

さわたりさんのような姿勢は、先述したタイプでいえば後者、ということになりますね。

繰り返しになりますが、前者と後者、どちらが優れているか、という問題ではありません。造形物に対するアプローチの違いが作品に現れ、その差違を、消費者である私は、楽しんでいるのです。また、後者の中でも原型師による解釈の違いを見ることができ、そこがまた、魅力となっています。この辺りも、ガレージキットの醍醐味だよなあと、一人で大きくうなずいたりしたわけですね。

蛇足:エースのジョーは、死ぬ間際に3タイプ目の男について語りましたが、上記のような原型師の分類の方法でも、実は3タイプ目が存在します。まあ、それはいわぬが華、ということで。

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