オリビエーロ・トスカーニの名を聞いたことがなくても、「ベネトンの広告のヒト」といえば、「ああ、はいはい」と察しがつくだろう。人種差別や戦争、エイズと、およそ企業広告とは無縁の題材を取り上げ、センセーショナルな話題を読んできたカメラマンである。

トスカーニはその著書、『広告は私たちに微笑みかける死体』(紀伊國屋書店)の中でこう書いている。

「広告、それは香水をつけた死体である。死者を見たものはかならず、『まるで生きているみたいだ。微笑んでいるようじゃないか』と言うものだが、広告にも同じことが言える。広告は死んでいる。けれど、いつも微笑みかけているのだ」

多くのフィギュアにも同じことが言える。フィギュアは死んでいる。けれど、いつも微笑みかけているのだ。


ミッテラン大統領の選挙キャンペーンを担当し、現在は広告業界の重鎮として活躍しているジャック・セゲラの言葉を引用すれば、前述のことについて、より同意を得られるかも知れない。

「広告は夢を見させるものであって、考えさせるものではない」

言うまでもないが、「広告」と「フィギュア」を置き換えればいい。


広告に対する二人の見解は、まさにフィギュア──今のガレージキットに対して、日頃、私が抱いていたのと同じ意見である。広告と同じでフィギュアは、口当たりの良いものであればあるほど良い、一人でも多くの消費者が、何も考えずに「可愛い」と感じられるものであれば良い、という不文律が見えてしまうのだ。商品化されるアイテムの選択方法や造形物から、否が応でもそれを感じる。


もちろん、平面世界の住人を立体化するというのは大変なことであり、「似せる」ために払われる努力は、相当なものであることはわかっている。だが、塗装済み完成品という新たな選択肢も増え、あまりに多くのフィギュアが世に氾濫している時代だからこそ、微笑んではいないフィギュア、考えさせるフィギュアがあっても良いのではないだろうか。


もちろん、「微笑んではいない」というのは比喩であり、口元に笑みを浮かべていたって全然構わない。「考えさせる」といっても、ベネトンの広告のように、環境問題やレイシズムを訴えかける必要もない。送り手が、造形物を通じて表現しようとしていることが伝わってくることが大切なのだ。少なくとも私にとっては。


ということは当然、原型師が「萌え萌え〜」以上の感情を込めて造形に取り組んでいなければ、何も伝わってこない(特殊な電波以外は)。こうしてホームページを運営している関係で、off会に誘われることもあり、幸運なことにその席で、私は原型師の方に直接、仕事や造形に対する考え方について話をうかがう機会を得た。そうした原型師の多くは、ご自分でホームページを運営されており、その中で、様々なスタイルで主義主張をなさっているが、直接話をさせていただいたことで、さらに詳しく聞くことができた。そこで得た情報を明け透けに公開してしまえば、原型師の皆さんが考えていることをより明確に伝えることができるとは思うが、それはそれで弊害も大きい。そこで一計を案じた。「フィギュアに命を吹き込む原型師の『手』こそ、何より原型師の思いを雄弁に物語ってくれるのではないか?」


……なーんて、もっともらしいコトを書き連ねましたが、それは全て「原型師の手の写真をコレクションする」という、ミーハーな振る舞いをオブラートに包もうとしているから。力士の手形を集めるのと同じノリですね。

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