― 宇治 橋寺と宇治上神社 ―
 今回は伏見稲荷へのお礼参りのついでに、以前取材を取り残した宇治の隠れた名所を取材してきたので、そのレポートをお届けしようと思います。
 伏見稲荷への参詣はコラムの報告をご参照頂くとして、ここでは参拝後からのお話になります。
 さて、伏見稲荷参拝後、京阪電車伏見稲荷駅から中書島(ちゅうしょじま)という駅まで乗って、そこで宇治行きの電車に乗り換えます。
 乗り換えには1分程しかありませんが、同じホームの反対側で既に宇治行きの電車が待機していて接続できるようになっていますので、乗り遅れるなんてことはまずありませんのでご安心を。この中書島から約15分程で終点京阪宇治駅に到着。
 宇治駅も1年振りで懐かしい。改札を出て最初の取材先は橋寺・放生院(はしでら ほうしょういん)。駅から5分掛かるか掛からない距離である。
 平安時代の終い頃から続くといわれるお茶屋老舗の通圓(つうえん)脇の小径を宇治川に沿ってやや遡ると、左手に一般住宅に挟まれるように、ともすれば見落としてしまう程の小さなお寺がある。
 初めは、ここかな? と思うくらい人の気配がない。恐らく学術的に興味がない人にとっては寺という認識すら無いだろうし、たまに間違えて入ってしまっても、訳も分からず狭い境内を一周して出て行ってしまうような観光客はいるだろうが、その殆ど(控え目な表現をしても)が気に留めることもなく通り過ぎてしまうことだろう。

    
              橋 寺 正 面

 この寺の縁起では、今の京都を地盤にしていた有力帰化豪族の秦河勝(はたのかわかつ)が、聖徳太子の命を受けて西暦603年(推古天皇11年=飛鳥時代)に宇治橋を架けた際、この橋の管理を任せるために開創したとなっているのだが、現代の歴史学では聖徳太子の実在自体があやふやになって来ているので、この話は正直に信じるわけには行かない。ただ、秦河勝は実在の人物なのだから、当時、橋を造ったのは事実と思われる。
 それはそれとして、この境内には「日本三古碑」に数えられる現存する石碑があって、それによれば西暦646年(大化2年=乙巳の変の翌年)に元興寺の僧・道登(一説には道昭)が橋を架けたとある。
 結局のところ、この宇治橋は道登の以前も以後も、流されては架けまた架けては流されてを繰り返して来たのだろうから、どの話も本当なのかもしれない。
 さて、聖徳太子云々の話は信用できないまでも、考古学的に証明される最古の物証がこの石碑なのですよ。そこで、この石碑を詳しく見たいと思い、今回の京都探訪でまず訪ねた次第。
 橋寺放生院という石標を確認して急な石段を上がると、平坦な境内へと出る。つまりこの寺は台地の上に建っているのだ。宇治丘陵というらしい。
 本来なら宇治川を眼下に見る見晴らしがあるのだろうが、境内の木々や建物の一部が邪魔をして残念ながら宇治川は見えない。
 境内の左側に小さな堂がある。これがその古碑のある堂と思われるが、格子扉や格子壁には厚紙が張られ外からは見えないようになっている。
 堂前の立て札には「宇治橋断碑、見学料三百円、見学希望者は本堂前のベルを押して下さい」と書かれている。その通りに本堂前に行きベルを押す、ややあって障子戸が開く。
「何でしょう」
 丸顔、坊主頭で40代と見られる髭面の顔が開いた障子戸から覗いた。
 あれ? この顔・・・・見たことあるよ、暫し記憶を手繰る。そうそう関西芸人のキム兄事、木村祐一さんだあ。キム兄って坊さんだったけ? な、訳ないよなあ。しかし良くまあ似てらっしゃる。言葉も関西弁だし、木村ですぅ と自己紹介されたら信じてしまうくらいである。

  
             宇 治 橋 断 碑

「断碑の見学をしたいのですが」
「では3百円頂戴して、堂の前でお待ちください」
 というわけで待っていると、鍵をもって現れた。開けてもらい中へ入る。中には1.5メートルほどの高さの継ぎ接ぎだらけの石塔が建っている。

       
          宇治橋断碑(Wikipediaより)

 B5ほどの紙に印刷された断碑の説明書を私に手渡しながら、写真も手で触れるのも遠慮してくださいというので、ただ眺めるだけとなった。
 何か説明をしてくれるのかと待っていたが、キム兄似ご住職は何も言わない。そこで私からいくつか質問をしてやっと重い口を開くという程度であった。
 画像はwikiからの転載だが、石碑の上部と下部にひび割れがあるのがお分かりだろうか。
 この石碑のひび割れ上部分が、西暦646年に建てられた本物の部分である。下部分は、14世紀初頭に編纂された歴史書である「帝王編年記」にたまたま原文が残っていたので、それを基に江戸時代に再現復元されたものという。
 つまり、646年に建てられたこの石碑は、時代とともにいつしか失われ(恐らく13世紀以降)土に埋もれた。その後、江戸時代になって偶然にも橋寺境内を掘り返した際に上部3分の1が発見され、改めて橋寺で保管することになったそうだ。残りの3分の2は未だに発見されていない。
 従って、下の部分は江戸時代の学者が格調高くするために工夫・再現したものなので、元々の石碑が実際に富士山を横にしたような形をしていたかどうかは分からない。
 さて、キム兄に別れを告げて次なる宇治上(うじかみ)神社へと急いだ。
 再び宇治川を遡るように歩くと直ぐに「さわらびの道」という源氏物語の宇治十帖に因んだ小径があり、その途中に宇治上神社がある。

   
              大 鳥 居

   
              宇治上神社の山門

 赤鳥居を過ぎてゆくと、庭園風の小さな石橋が迎えてくれる。ここが神社への入口のようだ。山門を入るとすぐ右脇に祈祷、御朱印などの受付所があり、目の前には大きな拝殿があってご祈祷がなされていた。
 暫くして若夫婦とそのご両親と思われる人たちが赤ちゃんを抱いて降りてきたので、お七夜か百日参りなのだろう。
 拝殿を右へ回り込んでゆくと手水舎があるのだが、それが普通の形では無く、宇治丘陵から自然に湧き出ている地下水を利用している手水舎なのですよ。
 こんな感じ。という事は、

   
        湧いている地下水の上に手水舎を建てている

 石段を下りて、手水舎へ入って、屈んで水を汲んで、それでお浄めするわけで、一般的な立ったまま水を汲むという具合ではないので、ちょっと面倒でありました。

   
         内部はこんな感じで水が湧いているのです

 でもこの湧き水、実は宇治七名水の一つで、桐原水というらしい。現存するのはここだけという事で、貴重な湧き水なのですよ。
 さて、お浄めも済み、そのまま進むと石段の上に本殿がで~んと構いていらっしゃる。

   
       画像は手水舎の真反対の位置から撮影したもの

 本殿は平安時代後期の建築で、神社建築では現存最古とされる一間社流造り(いっけんしゃながれつくり)の内殿が三棟並び、そこに鎌倉時代に作られたという覆屋がすっぽりと覆っている。
 つまり裏を返せば、間口一間規模の神社が当初は2つ横並びになっていて、鎌倉時代までは野ざらし状態だったというわけでしょ。
 まあ、平安後期から鎌倉時代までの時間と言えば、そう長いわけではないけれど、創建当時は野ざらし状態。
 という事は、単純に考えればこの土地の鎮守の神社という程度だったものが、近くに平等院ができたお陰で格上げされ、鎌倉時代になって覆い屋を造り~の、更に前の平坦部分に拝殿を造り~のという具合で、今の形になってきたという事なのでしょう。
 参拝を終えてから御朱印を頂戴しました。今回の京都秋の旅の予定はこれで終わりですが、JR宇治駅から京都駅へ着いてからホテルのチェックインまでにはいくらか時間があったので、駅から徒歩で10分程度のところにある「渉成園」へ行ってきました。
 そのご報告はコラム京都余話に掲載しましたので、ご覧いただければと思います。
 ではまたどこぞの旅の空でお逢いしましょう。


 










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