ナポレオンの「エジプト誌」って、、、なに?

悠久のナイル。その川とともに少なくとも8000年もの昔から存在してきたエジプト。
エジプトと言えば、関心の多くは古代のエジプト王朝に行ってしまいがち。
でも中世以降の豊かな歴史と文化にも目を向けたい。

古代から現代を結ぶ”エジプト”MISR(ミスル)がはっきり見えてくる。



  ↑ 参考文献【エジプト誌:TASCHENの完全版】 

 1798年〜1801年のフランス(ナポレオン)のエジプト遠征。それまで名前は知られていても、いったいどんな国?なのか知られていなかったエジプト。そのエジプトという国をヨーロッパ諸国に一気に広め、人々の大きな関心を集め、近代エジプト学の誕生に導いたのがナポレオンの「エジプト誌」である。フランス隊(ナポレオン)のエジプト遠征は失敗に終わり、ロゼッタストーンなど貴重な資料はすべて戦利品としてイギリス軍に渡って(その多くの遺跡は大英博物館に展示されている。)しまったが、帰国後のフランス学者たちによる資料の整理や精力的な研究はその後20年をかけて1828年に完成した。「エジプト誌」は本文9冊・図録10冊・地図1冊・他1冊の合計21冊で構成されている大著である。さらにシャンポリオンのヒエログリフ研究に拍車をかけ、イギリス(トーマス・ヤングが中心)に僅差で解読に成功し、イギリスに負けたフランスの屈辱を見事に果たしている。
(ちなみに、トーマス・ヤングはイギリスの有名な物理学者で、ニュートンがほぼ完成させた”光学”をさらに深く研究し、「光は最低限、赤、緑、青の3つで十分」という光の3原色(RGB理論)を発表している。ほーっ。)

 1798年7月。ギザのスフィンクスの前で、、、
  「この像が建てられてから2000年後、アレキサンダーがここに立った、、、。シーザーもここに立った。」
  「それから2000年後、私(ナポレオン)がここに立っている、、、。」
  「諸君、4000年の歴史が君たちを見下ろしているのだ、、、。」
 というナポレオンの言葉は非常に有名。

「エジプト誌」の中から一枚。見事に美しく再現されている列柱室。

ナポレオンはエジプト遠征の際に4000隻の巨大艦船の他に砲1000・軍馬700頭・3万4000人の軍隊でイギリス軍を孤立化させようとした。(結果的には失敗したが。)
その際500人の民間人も同行。その中に21人の数学者、3人の天文学者、17人の技師、13人の博物学者と鉱山技師、4人の建築家、8人の製図者、10人の著述家、22人の印刷工10人を含む総勢167人の学者グループ(平均年齢25歳!)を同行させている。その学者たちの目で実際に収集された資料は完成度が高く、すべて「エジプト誌」で見事に再現されている。ナポレオンは当初からエジプトを本格的に研究するつもりだったのだ。

【エジプト誌:図録より】ルクソール神殿正面

・この時はまだ、ラムセス2世のオベリスクが2本しっかり残っている。(その後、右の1本がパリのコンコルド広場に行ってしまったのは有名な話。どーして、あげちゃったのさーっ!プンプーン。)

・この時期はまだ遺跡全体が多く埋まっている。オベリスクも全体が出ていないし、ラムセス2世座像も腰まで砂で埋まっており、足がまったく見えない。

・左の上部に白い塔の先端が見えるのがアブ・アリ・ハッジャージ・モスクの先端。

・さらに砦(砦)だろうか?数ヶ所見える。神殿を守っているのか、あるいはフランス隊がエジプト軍の攻撃を警戒して建てた物かどうか不明。

(「エジプト誌」本文の日本語訳がないため読めない、、、。)

現在のルクソール神殿 (今回の旅行のビデオ映像からキャプチャー)

 現在では埋まっていた砂は完全に取り除かれている。ラムセス2世像もオベリスクも下まで完全に出ている。
 しかし、右のオベリスクは台座のみしか残っていない。台座の周りを観光客が囲んでいる。

航空写真

白い建物、アブ・アル・ハッジャージモスクの位置関係がはっきりわかる。

すぐ向こうはナイル川である。

【エジプト誌:図録より】ルクソール神殿
(画像が歪んで見えるのは開いた本を撮影している影響です。原版はまったく歪んでいません。)

・パッと見、ガッパリ砂が埋まっている。

・当時はこの神殿の多くの部分がまだまだ多く埋まったままの状態。右に見える白い建物は中世に建てられたアブ・アル・ハッジャージ・モスク。この下には遺跡がないと思ってモスクを建ててしまっている。

・右奥が第1塔門正面。ラムセス2世の2本のオベリスクが見える。手前はラムセス2世の中庭を経て列柱廊、列柱室と続いて見える。感覚的には神殿の半分程度の高さまで砂が埋まっているようだ。

・しかし、砂よく取り除いたねぇー。

現在のルクソール神殿(ビデオ映像)

・今は完全に下まで出ている。

・右に見える白い建物が中世のアブ・アリ・ハッジャージ・モスク。このモスクの存在は神殿の中にいると色も違って違和感がある。

・エジプト全体では2割程度しか発掘されておらず、現に毎日のように発掘報告がある。いやはやすごい国だわぁ。

【エジプト誌:地図より】カイロ周辺

・当時のカイロ地区、ギザ地区が見事に描かれている。中央の島がローダ島。かろうじて左にゲジーラ島。右の小さい島はたぶんファラオ村。ローダ島からギザにかかっている橋の数も少ない。

・地図を見るとオールド・カイロ地区とギザの南部が街になっているが、他はほとんど畑状態。
・現在ではカイロもギザも北部・東部・西部と発展し巨大な街となっているが、写真ではまだその一部しか街になっていないのがはっきりわかる。


戦争では負けたものの、この「エジプト誌」はナポレオンの大業績なのである。古代遺跡のみならず、18世紀当時の自然・人文・その他すべての分野においてエジプトの貴重な記録遺産になっている。

現在の地形(地球の歩き方05’−06’版より)

・上の画像とほぼ同じ場所を掲載。
・中央の大きな島はローダ島。地形は当時とほとんど変わっていない。当時はまだ大きな街になっておらず、田園地帯が非常に多い。

・左のゲジーラ島や右のファラオ村は地形が大きく変わっているようだ。ローダとゲジーラの間にある小さい島は現在では残っていない。

・上部がカイロ。下がギザ。ギザの海岸部も地形がかなり変わっている。今ではゲジーラ島側に、もっと土地がせり出している。

【エジプト誌:地図より】デルタ地帯

・ナイル川や地形が細かく描写されている。

・18世紀末の測量技術でもこんなに完成度の高いものができるんだなぁ、、、。

・それまで名前しかしられていなかった”エジプト”の国が、ヨーロッパ中に一気に有名になった。



作成途中ー。  まーだまだ、ここから長いよーーー。 はふーっ。   (^^)/  

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