37.佐世保へ上陸

「佐世保へ上陸」

 昭和22年12月の終わり頃、船は九州長崎県佐世保港外に投錨した。
「おーい、日本だ。日本が見えるぞー。」
という声で、多くの人が甲板へ殺到したが、俺は船室で目を閉じ、静かに横になっていた。
羅南騎兵隊への入隊、初年兵訓練、石頭予備仕官学校、磨刀石の戦い、シベリアの寒さ。走馬灯の様に思い出は巡る。
その時、ドヤドヤ、バタバタ。甲板に出ていた人達が船室に戻ってきた。
「上陸だぞー。」 船内はわき返った。
船内放送で、甲板へ出る順番が示された。
いよいよ俺達の番がきた。 甲板に出た。風は冷たいが、空は青く澄んでいた。 冬というのに、日本の山々は緑が多かった。
  一列で進み、タラップを降りてはしけに移った。 はしけは30分程で、桟橋へ着いた。 上陸した桟橋を、バタバタと音をたてて踏みつけ、日本だー。本当に日本だぞ。と大声を出し、興奮もし、又安堵もした。
全員、満面笑顔で、小学生の遠足の如く、喜々として進んだ。

「DDT消毒」
 鉄道の駅の改札口の様な所へ着いた。
「ここで消毒をします。」説明はこれだけ。
改札口は6ヶ所位あり、マスク、防塵眼鏡そして頭からすっぽりと「フード」をかぶった人が、改札口に1人ずつ立っていた。
長いゴムホースの先に金具がついており、この金具のコックを押すと、圧搾空気と共にD.D.Tの白い粉がすごいスピードで吹き出す仕組み。
「はい、帽子を取って下さい。」 「目をつむって。」
ぼうぼうの髪の毛へ「ぶー。」
帽子の中へ「ぶー。」
首すじから背中へ「ぶー。」
胸と腹へ「ぶー。」
右の手首から「ぶー。」左の手首から「ぶー。」
「はい、ベルトをゆるめてください。」
陰部は、念入りに2回「ぶー、ぶー。」
右のズボンの中へ一発「ぶー。」 左のズボンの中へも「ぶー。」
最後は、ボロ靴の中へも、たっぷり「ぶーぶー。」 これで一丁出来上がり。
という訳で、頭から足の先まで真白人間となってしまった。
「おいおい、体中白い粉ぶっかけられて、次は何されるんだろうな。」
「決まってるベー。次は、油鍋にとびこむんだ。」
「それじゃ、天ぷらだべ。 」わっはっはっは。 こんな冗談も出る程の雰囲気だった。
何の事やら良く知らず、いきなり白い粉を頭からぶっかけれれて驚いた。
後で判ったが、我々は、全員が虱を背負って来ているので、DDT消毒は止むを得ない処置と思うが、とにかくびっくりした。

「3年ぶりの入浴」
 宿舎は、旧海軍の海兵団の宿舎だったと聞いた。 大きい部室で、両側に2段ベッドが並んでいた。
ベッドは、敷も掛けも全部毛布だけだったが、12月の終わりでも特に寒くはなかった。
一日目の夜遅く、我々の所へ入浴の連絡があった。
「風呂へ入れるぞー。」 皆、喜び勇んで浴場へ行った。
浴場は広く、中央に畳6枚分位の広さの浴槽があり、回りの洗い場も広かった。気温は寒いという程ではなかった。
しかし、浴槽の中を見た時、 「何だこりゃー。」一瞬、皆、不思議に思った。
湯の表面がどす黒く光り、「ドロン、ドロン」とかすかに波打っている。 それで、手を入れてみたら、なんと人の垢の浮いた厚さ5mm位の表層だった。臭気も鼻をついた。 「うへー。」こりゃひどい。皆入浴をあきらめて部室へ帰ってしまった。
無理もない。3年振りに入浴する人間が、何百人も入ったのだろう。色もひどいし、臭いもひどい。
  俺は、佐藤七五三蔵さんと2人残っていた。 上がり湯だけでもかぶるかと迷っている時、浴場の隅に、長さ3m、巾40cm位の板(浴槽の蓋)を発見した。
この板で、表面の垢を一方に押してやると、きれいなところが出来る。
「よしー。ここへはいろう。」 板は、浴槽の巾より少し長いので、斜めにすると固定できた。
2人は、この空間に首まで漬かり、10分近くもじっとしていた。
そして、「それー、戦闘開始。」2人で全身の垢こすり。
戦闘終了。1,2,3かばーととび出して、冷たい上がり湯を10杯もかぶった。 部室に帰ったら、ポッポッと体が暖かくなり、一日目の夜は、虱の来襲も無く、ぐっすりと眠ることが出来た。
祖国日本へ帰ったという精神的な安堵感も安眠を誘ったのだと思う。

「米軍による事情聴取」
 帰国翌日から、米国の諜報員と思われる人達による事情聴取が始まった。
1人ずつ個室に呼ばれた。 室内には、米軍人(日系〜2世らしい)2人、通訳、日本の厚生省の役人、書記官等々5〜6人居た。
米軍の兵士は流暢な日本語で、
「長い間ご苦労さんでしたね。コーヒ、タバコどうぞ。」
みんな笑顔で接してくれるので、最初緊張していた俺も、すぐ、リラックスする事ができた。
氏名、年齢、本籍地などを訊ねた後、
「原隊はどこですか。」
「朝鮮羅南、騎兵79連隊です。」
「日本に騎兵隊があったのですか?」
「ありましたよー。ここに、騎兵軍曹が居るじゃないですか。」
「ワッハッハッハッハ。失礼しました。」 「それじゃ、白井さんは乗馬がうまいでしょうね。」
「当然でしょう。騎兵隊ですよー。軍曹ですよー。」
「これは、これは、また、失礼しました。」
こんな雰囲気で、楽しい訊問だった。
彼等の狙いは「俺達が、どれ程、共産主義の思想教育を受け、共産化しているか。」を調査するにあったので、俺達には、その気配すらないと判定したようで訊問は簡単に終了した。
最後は、共産主義に対する感想文を求められたから、共産主義の悪口を並べて書いたが、作文になったかどうか心もとない。 何しろ、3年間極限状態の生活。その上、3年間活字を見た事の無い生活。自分の本籍地を漢字で書けない状態であった。 はたして、作文になっていただろうか。冷汗が出る。

「戦傷の調査」
 2日目の夕方、戦闘で負傷したものは申し出ろ。というので、俺も行った。
日本の医者3人。厚生省の役人2人。看護婦さんと全部で6人位居たと思う。
俺の番になり、左足と左胸の傷を出した。 その日の段階では、出血もなく化膿もしていない。
「戦傷は受けているが、その傷は、日常生活に影響を及ぼさない。よって、傷い軍人とは認められない。」という判定だった。
俺は、早く家へ帰りたい一念で「よしよし。」とすぐ承諾した。

「一時手当金300円受領」
 上陸3日目。全員に一時金として、300円支給された。
「すごい大金もらったぞー。」 皆、大喜びで歓声を上げた。
3年前、命がけで働いて月給は10円なり。手を着けずに1年間貯めても120円。
今、300円を手にした。大金と思うのは当然のことである。
我々は、3年間貨幣価値の変動など全く判らない隔絶された世界に居たわけである。
その頃、我々の宿舎の門の前には、在日朝鮮人の人達の屋台が多数出ていた。 大金を手にした俺達は、開放された気分で三、三、五、五門から外へ出てみた。
監視兵なしの自由行動。何か変な気持ちだった。
屋台には、種々雑多の品物が並んでいたが、さつまいも3本皿に盛って、10と書いた札が立ててあった。俺は当然10銭と思った。(10銭とは、10円の1/100のこと)
俺は、一皿買おうとした。すると、 「はいー、さつまいも10円ね。」と言った。
「なにー。」じゅう、じゅうえんー? ぶったまげて、しばらく声が出なかった。 大福餅は1個15円。おにぎり15円。飴10円で、10円より安い物はなかった。
しばらく考えてから、思い切ってさつまいも3本買った。 3本共、残す所なく総てを食った。それで、喉に詰まり、目を白黒させた事を記憶している。
味の方は?さあー?

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