杉本拓 しゃぼてん通信 第1号

サボテン
しゃぼてん通信
2015年6月5日更新

杉本拓

音楽を探して


 もう5~6年ほど前になるだろうか、近所の散歩を楽しんでいると、歌を歌いながら通りを練り歩いている女子高生の集団に遭遇した。おそらくスポーツの大会か何かがあり、その帰りなのだろう。わたしは、その、2拍子で4小節のユニットを繰り返しながら、ところどころ歌詞を──仲間のことを少しからかっているような内容だった──変えて歌われる歌に魅了されてしまった。印象的なメロディとよく通るユニゾンの合唱は本物のフォークソングを彷彿とさせた(実際にそうなのだと思う)。これは彼女たちが属する集団内にとってのみ意味をもつ歌であり、ひとに聞かすというより、みずからが歌って楽しむものに違いないと感じた。
 これを聞いて、わたしも似た体験をしていたことを思い出した。
 小学校高学年のときの同級生にシライさんという女性がいた。このシライさんは掃除当番や日直などの仕事をちゃっかりさぼっていたようで、これを男子生徒に揶揄されて、〈シライさぼってる〉という歌が生まれてしまった。この歌は、我々のクラスを飛び越えて、同学年全体に知れわたるヒット曲となり、シライさんの悪名を知らしめてしまったのである。学年合同でプール掃除をしたときなど、この〈シライさぼってる〉を全員で歌いながら、そのリズムに合わせてデッキブラシを擦るという全体主義的光景が見られたのであった。もちろんこれは「いじめ」に類することなので、ほめられたことではない。シライさんの気持ちなど微塵も考えていないところでこの歌が歌われていたのは明白だ。おまけに監督していた先生もそれを黙認していた……話をもどそう。
 これは一例だが、我々の子供時代の自作の歌は何かの遊びのためのものだった。なかには完全に意味不明なものもあったが、ある歌は友達をからかうため、ある歌はちょっとしたジングルとして、ある歌はパラパラ漫画のサウンドトラックとして作曲され、歌われた[*1]。

[*1]憶えているものを挙げたいと思う。
 もっとも意味不明なのは〈ふんどしキャバレー〉(ミーミミミーレド)で、これは店員が全員ふんどし姿という想像上のキャバレーのCMとして作られたように記憶している。
 鳥越信は『子供の替え歌傑作集』で「実は『ルンペン』は、『はげ(頭)』『お葬式』についで頻度の高い語彙なのである」と述べ、その理由を「子供にとって『ルンペン』はどこか不気味でこわい、近寄りがたい存在であると同時に、自由きままに見える生きざまへのちょっぴりあこがれのようなものが感じられたことが、替え歌への使用につながっていったのだろう」としている(鳥越信『子供の替え歌傑作選』、平凡社、2005年、72頁)。
 まさにそのとおりであった。私の自作曲にも「ルンペン」が登場するものがあるが、ちょっと長いのと途中までしか憶えていないので、ここには載せない。「ふんどし」と「キャバレー」もそんな感じの言葉であった。これを一緒に歌って遊んでいたM君は高校生のときにバイク事故で亡くなった。彼の思い出にはいつもこの歌がついてくるのである。それがそのM君の作なのか私の作なのかは憶えていない。
 ちなみにオリジナルの替え歌を作った記憶というのは私にはない。多くの替え歌は誰が作るということもなく、自然にみんなが歌うようになっていた。〈マタマタ〉(これはドドドドミミミミソソソソと3回歌う)は、ちょっと驚いたときなどに歌っていた。少し古いが「えー、ウッソー!」と使用法は似ているかもしれない。マタマタというのは亀の一種で、知らない人にはちょっと想像できないような形態をしている。それくらい驚きましたよ、ということである。これは同じ亀好きだったS君の作であろう。
 〈ねずみおとこがうなぎになっていく〉(ドドドドドドレミミミミソーファファミー)は間違いなく私の作である。私はまったく勉強ができず、完全に落ちこぼれだったので、授業中はいつもパラパラ漫画を作っていた。そのひとつのサウンドトラックである。歌いながら作品を友達に見せていたということである。
 〈でーたーあー、36まーい〉(ドーソーミードドドドソーミー)。当時流行ったルーレットゲームがあって、当たるとメダルがもらえた。最初期のものではその最高獲得枚数が36枚で、これをあてたときの喜びを歌で表現したものである。これもたぶんS君の作。このルーレットゲームのシリーズはだんだんとギャンブル性が強くなっていき、最高獲得枚数が120枚の機種もあったと記憶している。1回電源を切るとルーレットが規則的に動くことを知ってからは、店員の目を盗んでそうしていたものである。
 まだあるがこのくらいにしておこう。ちなみに最初の女子高生の歌は「ドードーミーミーレーレー・ラソ・」、〈シライさぼってる〉は「・ドドドミミーレド」であった。
 山田正巳は自著(『子供の歌を語る』、岩波新書、1994年)に、伊沢修二作のわらべうた〈からす〉を載せ、これは無理やりドで終止しているので、ふつう日本人にはこれが歌えないのではないか、と書いている。我々のわらべうたも、すべてがドで終止しているわけではないが、決して旋法的なものとは言えない。長調あるいはメイジャー・ペンタトニックと考えるのが妥当である。しかし、これはいたしかたないのではないか。多くの歌は即興、というか口からでまかせ的に生まれていたから、テレビなどでふだん何気なく耳にしている歌や音楽の影響が強く出るのは当然である。それに失われた伝統が自然にもどってくるとは考えられない。現在の状況を考えれば、音階をもってして、それがわらべうたかどうかを判断するのはあまり意味がないと思う。



 自作の歌ではないが、さらに思い出すことがある。我々はもう中学生になっていた。音楽の授業でつかう楽器はアルト・リコーダーだったが、ある日、誰かがそのリコーダーの吹き口の部分だけをつかってカズーのように演奏したところ、これがたちまち学校中で流行った。私もこれが大好きだった。リコーダーはほとんど吹けなかったが、これだったら好きなメロディを演奏することができる。音色もふつうに演奏するのに比べてはるかに魅力的に思えた。私にとってははじめての音楽的衝撃だったかもしれない(もっとも、先のオリジナルソング同様に、これを音楽だとは誰も思っていなかっただろうが)。だが、この笛カズーもやがて学校内では禁止の憂き目をみることになる。流行ったといっても、こういうのが好きなのはたいていダメな生徒であり、優等生からは白い目でみられていたに違いない。


 ある日、私は図書館でなにげなく開いた『日本のわらべうた』[*2]という本のなかに、〈グリコ〉が載っているのを見つけた。知らない人がいるかもしれないので説明すると、〈グリコ〉とは、ジャンケンをして、グーで勝てば3歩(グリコ)、チョキで勝てば6歩(チヨコレイト)、パーで勝てば6歩(パイナツプル)、それぞれの数だけ足を交互にとんで進める遊びである。とぶときにグリコやパイナツプルと唱えながら、その言葉と着地のリズムをあわせるのである。

[*2]尾原昭夫編著『日本のわらべうた〈戸外遊戯歌編〉』、社会思想社、1975年。

 これを見たときに、なんだ、それなら、「○○君遊びましょ」だって、子供時代の自作の歌の数々だってわらべうたじゃないか、と私は思った。現在の立場から考えれば、立派な歌であり、音楽である。先の笛カズーもそうだし、少し種類は違うが、豆腐屋のラッパも、夜鳴きそばのチャルメラ(私が小さい頃はまだあった)もそうではないのか。
 しかし一般に、「音楽」とはどうとらえられているのだろう? 私たちがいま音楽を体験しようとした場合、コンサートに行くか、家でCDやレコードを聴くか、あるいはいまならコンピュータでダウンロードするか、youtubeで見るか、などが考えられる。また、そこには演奏することも含まれるだろう。私の母親は音楽好きだったので、家でよくピアノを弾いていた。クラシックもジャズもポピュラー音楽もなんでもありだったが、それらはつねに譜面ないし、対象(手本)となる曲がある音楽だった。
 この2つの「体験」は、一見違うもののように思われがちだが、本質的には同じである。ようするに、いずれも、すでに出来上がったシステムに頼らざるを得ないという状況にあるのだ。つまり、録音物を聞くことがシステムを前提とした受動的営みであるのは当然だが、演奏にしても、あたえられた楽譜というソフトを、人および楽器という装置で再生しているにすぎない、という意味においては、CDやレコードなどのソフトをプレーヤーで再生するのとあまり変わらない。そこでは、その音楽とそれが演奏される「場」、および演奏する「人」という観点が完全に抜き取られていて、すべての音楽が並列で、交換可能だ。これはもちろん、楽譜をつかわずに、ギターを弾きながら自作の歌を歌っているような人にもいえることだ。
 個人的な話であるが、子供心に母の弾くピアノや歌に強烈な違和感をもったことを憶えている。私が音楽嫌いだったということもあるかもしれないが、それは突然我が家に現われるエイリアンのようだったのだ。しかしそのいっぽうで、彼女は器用な人だったので、口笛を吹いたり、拳と机のへりを使って「タカラッ、タカラッ」みたいな早いリズムをつくって遊んでいることもあった。そして、こちらはけっこう好きだったし、その響きはいまでもよく憶えている。そういえば、私は、小中学校をとおして、音楽の授業で何を歌い、何を演奏したのか、まったく憶えていない。これは誇張ではない。何一つ思い出せないのだ。「ドレミファソラシド」くらいである。けれども、どうして自分たちで勝手に作った歌や笛カズーのことは憶えているのだろうか? それは、〈シライさぼってる〉やチャルメラの例をだすまでもなく、それらが生活のなかのさまざまな営みとセットになって存在していたからだろう。けっして、聞くためだけの音楽としてそれらはあったわけではないのだ。


 多くの人は忘れているかもしれないが、子供には子供の、大人のそれとは独立した文化があり、多くの独創的な遊びはその共同体のなかで──学校におけるグループやクラス、または学校を離れた遊び友達などのさまざまな単位がそれに含まれる──機能していた。しかし、大人の社会にも同じような性質をもった共同体が生まれる場所が存在する。飲み屋、とくに常連が集うような小さな店がそうである。さまざまな遊びやゲーム、バカな歌やジョーク、独自の用語/術語が生まれ、それらはその共同体の外では意味をなさない、というところは子供の共同体とよく似ている。
 子供の社会において、全国的に流行った歌や遊びが占める割合は高い。またテレビが特別の意味をもっていたこともたしかだ。だが私がいま問題にしているのは、それとは別の、なかには同時多発的なものが多くあるにしても、特定の仲間のなかから自発的あるいは自然発生的に現われてくる歌や遊びのことである。こちらのほうが本当の子供の文化であり、もし忍耐のほかに私が子供時代に学んだことがあるとすれば、それはその文化におけるきわめて高い独創性だったのではないかと、いまとなっては思う。しかも間違いなく私はそれを楽しんでいた(学校においては唯一の楽しみだったといってよい)。
 だが、あの女子高生の歌を聞くまで、そんなことはすっかり忘れていたし、それと自分がかよっている(いた)飲み屋の常連との共同体の類似性に気づくこともなかった。
 そして、私は当時自分たちが作った歌をいまでもいくつか憶えているが、それらが共同体のなかで機能していたときは、誰もそれらを「歌」や「音楽」であるとは思っていなかったことに気づく。ちゃんとした歌や音楽は自分たちの生活とはかけ離れた別の世界で生産される商品である、ということは我々子供にとっても自明のことであり、だから、それとは無関係であるところにこの手のバカな自作曲の存在意義があったのだと思う。

 ところでいまさらだが、このエッセイは若尾裕さんの『親のための新しい音楽の教科書』のレヴュー──あるいはその本に対する私のアンサー──として書かれている。この本のなかに、上記の自作歌と関係することが書いてある。小泉文夫がわらべうたの調査をしたときに、その調査を手伝ったまわりの若い大学生たちが自分でそういうものを歌った記憶や感覚を忘れていた、という部分だ[*3]。これは自分には不思議でならない。私は子供の頃に歌ったわらべうたを忘れていない。先述の〈グリコ〉や〈ゆうびんやさん〉などのわりと知られている歌を歌って遊んだことも、自分たちで作ったものを歌ったことも、はっきりと記憶に残っている。私は彼らのまわりにだって自作の歌があったはずだと思う。おそらく彼らはそれらがわらべうただとは当時から思っていなかっただろう。当然である。先に述べたように、わらべうたを歌って遊んでいるとき、それらは「歌」でも「音楽」でもない。大人になってから──なる前でもよいが──、そういった歌を客体としてあつかえるようになって、それらが「歌」や「音楽」になるのである。なぜ憶えていないか、というのは別の問題である。恐らく彼らはそういうことが楽しくなかったのではないか? 私はそういうことしか楽しくなかった。小泉さんの生徒になるくらいだから、彼らは成績優秀な優等生だっただろう。彼らにとっての学問はある定まった領域の研究をおこなうことであり、その研究の対象にみずからを含むという発想が最初からないのではないか、と私は勘ぐるのである。

[*3]若尾裕『親のための新しい音楽の教科書』、サボテン書房、2014年、120頁。


 また本稿では、生活とセットになっている音楽の話もしてきたが、それに関係する箇所もある。若尾さんは、東京の世田谷に下宿を借りていたときに、近所のおじいさんたちが酒宴で歌う民謡を──それが彼ら自身の音楽であると感じたことを理由に──うらやましく思った、ということを語っている[*4]。私は大人が彼ら自身の音楽を歌ったり演奏したりするのを聞いた経験がほとんどない。民謡は言うにおよばず、歌ではないが、三味線もことも尺八も、能も歌舞伎も浄瑠璃も、私の生活とはかけ離れたところに存在していたし、いまもそうである。見たことがあるのは盆踊りくらいである。もしテレビやラジオでそういった音楽が──大半はBGMであったが──使われることがなければ、それらの音楽の存在にすら気がつかなかった可能性だってある。
 また、ごく最近になるまで伝統的とされる音楽(が本来のコンテクストで聞かれる機会)に私は遭遇したことがない。だが、〈豆腐ラッパ〉〈チャルメラ〉〈いしやきいも〉などの、伝統的音楽とは言いがたいが生活に密着した、大人の商売のための歌やサウンドは幾度も遭遇してきたし、よく憶えている。つい先日も、近所のスーパーに買い物に行ったとき、声をだしながら魚を売っていたおじさんがいて、私はそこに生活のなかの音楽を見つけた気がした。単純なフレーズ、「らっしゃいどう」の繰り返しであるが、「らっしゃい」と「どう」がそれぞれ1拍の2拍子で構成されていて、音程も「どう」が「らっしゃい」よりも全音低くなっていて、ちゃんとメロディとリズムがあるのである。おそらく、「らっしゃい」の前には小さく「ぃ」がついているのだろうが、これは正確には聞き取れなかった。「どう」は「どうぞ」が縮んだものだろう。「どうぞ」と全部はっきり歌ってはリズムに乗ることができないからだ。

[*4]同上、71頁

 仏教哲学者の鈴木大拙に、「『詩』の世界をみるべし」と題したエッセイがある。鈴木は、最近読んだというシモーヌ・ヴェイユの著作から、彼女が「労働者に必要なのは、詩だ」と述べた箇所を引いて、その真意を、いわゆる教養としての詩をたしなむようなこととは別の、労働のなかにポエジーをもつことの重要性であると解釈している。労働のなかに、また、手足を動かしたりしゃべったりすることのなかに詩情──ポエジー──を感じることによって、それが単純で機械的な、すなわち金銭との交換条件としての労働とは別のものになりうると[*5]。なるほど、魚売りのおじさんの「歌」は労働のなかにポエジーを生み出すものかもしれない。しかし、これだって「音楽」でもなければ「歌」でもない可能性がある。誰かがこのおじさんのところにやってきて、「素敵な歌ですね。楽しいですか?」ときいたとしても、当人は何のことかさっぱりわからないかもしれない。音だけをとれば「歌」や「音楽」に聞こえるかもしれないが、それはその当事者にとって我々の考える「音楽」とはまるで違うもの──私がいま探している音楽とはそういうものなのだが──であると考えることはおかしくない。しかし、本当にそうだろうか?

[*5]「詩の世界をみるべし」(鈴木大拙『新編 東洋的な見方』、上田閑照編 、岩波文庫、1997年、240頁)


 若尾さんは本の最後のほうで、「文化相対主義」と「民族音楽学」に触れている[*6]。レヴィ=ストロースの著書『悲しき熱帯』について、「ここで書かれていることは、西洋人の音楽もアマゾンのジャングルに住むひとたちの音楽も、人間の根本原理としては同じものだということです。このへんから生まれた文化相対主義の視点から民族音楽学というものが盛んになってきて、どんな世界の文化もそれなりの意味をもっているという、世界の音楽万歳みたいなナラティブが生まれるわけです」と。しかし、このナラティブには「植民地主義的な思想」があるとして、民族音楽学もまた「乗り越えられるもの」として斥けられるわけだが、私はここに、若尾さんが言うような西洋文化側の「上から目線」云々といったこととは別の、行きすぎた「文化相対主義」の不可能性を指摘したくなるのである。
 たとえば私はハンガリーの民族音楽が好きであるが、もし何かそういうものを演奏することができたとしても、当事者のようには演奏できないだろう。ただ技術のことを言っているのではない。それは、私はその音楽が生まれた文化的背景を知らないし、また──わらべうたと同じように──それが本来の形で機能するような場所をもつことができないからだ。私は私の文化的な状況からその音楽を好きになり、また理解しようとしている。つまり問題は、私がおかれている文化的な状況とはどのようなものか、ということである。もう少し詳しくみていこう。

[*6]前掲書、188頁


 ある文化共同体Aのメンバーaが別の文化共同体Bの音楽(文化)を理解しようとするときに、aはAのメンバーであると同時に、AとB(およびC、D、E……)を比較できるもうひとつの共同体Φのメンバーとしても理解しようとするのではないだろうか。もちろん、BのメンバーbがAを理解しようとするときも、彼はBとΦのメンバーとして同じようにするだろう。さらに言うと、aがAの音楽を、AのメンバーとしてもΦのメンバーとしても理解することができると思うのである。世界はそのようになってきてはいないだろうか[*7]。

[*7]aがA以外の別の(複数の)共同体の成員になることは不可能ではないと思う。たとえば、実験音楽家であり、かつロック・ミュージシャンであること、ロック・ミュージシャンでありかつあるバーの常連であり、かつ清掃人である、というのは(どちらも自分のことだが)、大丈夫だと思う。しかしどこかに限界はあるはずで、極端な例では、共産党員であり、かつ民主党員であるというのは無理である。
 ここから先の議論に関しては──わざわざ読み返すことはしなかったが──以下の著作から影響を受け、刺激をもらい、ときにはアイデアを拝借させていただいた。
入不二基義『相対主義の極北』、ちくま学芸文庫、2009年。
村上陽一郎『文明の中の科学』、青土社、1994年。※文化共同体Aの成員aというアイデアはこの著書の「弁証法へのアンビヴァレンツ」を踏襲したものである。
トマス・ネーゲル『コウモリであるとはどのようなことか』、永井均訳、勁草書房、1989年。
ヒラリー・パトナム『実在論と理性』、飯田隆+金田千秋+佐藤労+関口浩喜+山下浩一郎訳、勁草書房、1992年。
P.K.ファイヤアーベント『知とは何か──みっつの対話』、村上陽一郎訳、新陽社 1993年



 私が自作のわらべうたで遊んでいたとき、共同体の一員としてしかそれらを理解しようとしなかったので、それは「歌」ではなかったが、いまはそれが「歌」であるということを──Φのメンバーの観点から──理解できる。
 もちろん「相対化」をさらに推し進めることも可能である。そうすると、「相対化」を認めないような立場も当然そこには登場してくることになる。また、これから述べるような例も極端な相対化のなかから生まれてくるのではないか。ひとつの比喩として読んでもらいたい。
 遠い未来、地球人の団体が異星人の音楽の調査のためにある惑星に赴いた。ところが、この星には音楽らしきものがまったくなく、異星人は誰一人としてしゃべることがない。ひとりの地球人は考えた。「彼らはテレパシーが発達していて、もはや声を出してコミュニケーションをとる必要がないのだ」。ところが、地球人は異星人がある空間で集団になってなにやら踊りのようなことをしている光景に出くわし、それは、まだ地球にしぶとく生き残っているトランス・テクノ・パーティの様子にそっくりであった。唯一足りないのはその音だけである。先の地球人は思った。「この惑星に音はないが、彼らに音楽はあるのだ。なぜなら、彼らは一心不乱に何かリズムのようなものに身をゆだね、体を動かしているように見えるではないか。これはダンスだ。音楽で踊っているのだ」。しかし、こう考えた地球人もいた。「彼らにテレパシーがあるかどうかはわからない。しゃべらないのはそれに必要な器官がないからだろう。それに、さっきの光景が音楽であるとどうして言える。彼らは我々とは違った文明をもっているのだ。見ろ、あそこに鼻にストローのようなものを挿して、そこから緑色の液体を吸入しているやつがいる。ひょっとして、あれが彼らにとっての音楽なのではないか」[*8]。

[*8]ここでウィトゲンシュタインにも登場してもらおう。以下に引用した彼の発言は、私はどこかで読んだ記憶があるのだが、それがどうしても思い出せず、坂井秀寿の「ウィトゲンシュタイン小伝」に頼ることになった。コメントはとくにしない。
「いま、仮想の民族が、算用数字を並べて書くことで自分たちの家の壁を飾っていたとしたまえ。さらに、彼らの書いたものが、算術をしている人間の書いたものとちょうど、一致したと想像したまえ。君らは、彼らが数学をやっているというだろうか。その連中は、いつも間違えずにそれを書いている。だが、彼らは数字を室内装飾以外には絶対使わない、としてだよ」
坂井秀寿「ウィトゲンシュタイン小伝」(L. ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』、藤本隆志、坂井秀寿訳、法政大学出版局、1968年、13頁)。



 この最後の推定には意味があるだろうか? 本当のところはどうしてもわかりようがない。それこそ実際に異星人になってみるしかない。もし、それができたとしよう。異星人には耳も口もなく、「言語」という概念もなければ、「個人」という概念もない(たとえば、全員が同じ脳を共有している)。食事もしないし、排泄もしない。さらに、彼ら以外の生命体がいることを知る術もなかったとしよう。そうだったとして、それがどのようなことであるのかが完全に了解されるとき、地球人はその異星人と同化していなければならず、もはや地球人の特性をもつことはない。つまり、地球人としてその異星人を理解することは不可能なのである。
 この場合、「彼ら異星人にとっての音楽とは何か」という問いは、観察しうるかぎりで、彼らの行為や行動や表情のうちのどのようなものが、我々地球人にとっての音楽の様式や形式、またはそれを演奏したり聞いたりすることによって引き起こされる感覚や感情に近いのか、ということでなければならないのではないだろうか。まるでそうは見えない行動を彼らの音楽行為として推定することも可能だが、その場合でもその行動をとおして彼らが得ているもの(感情、感覚など)が我々が音楽をとおして得ているそれらに近いものであるという仮定がなければ意味をなさない。
 たとえばこういうことが考えられるだろう。これは地球上での話だが、どうみても釣りをしているようにしか見えないが、じつは彼はジョン・ケージの《4分33秒》を演奏しているのではないか、という推定である。その曲を知っている人であれば、そのような推定は可能である。ところが、それ以外の推定、たとえば、彼の演奏している音楽はまったく彼自身のもので、我々の音楽とはなんの共通点もなく、彼にしか理解できない、と推定することはどこかおかしいとならざるをえない。本人がそう主張したとしてもそうだ。というのは、彼の主張する音楽に我々の知る音楽との共通点が一切ないのであれば、それを音楽と推定することは不可能だからだ。音楽であることの「根拠」に見当がつかないのである。だが、もし彼の説明を聞いて、それがすでにある特定の音楽と近いと感じたのであれば、それを音楽として認めることはできるだろう。しかしその場合、彼自身が言う「自分だけにしか理解できない音楽」は否定されるのだ。結局、すでに誰かが知っている音楽か、または音楽ではないか、そのふたつしかないのではないだろうか? 本当のことはわかりようがないので、音や身振りや説明によって、それを「音楽」に入れるか否かが決定されているということである。
 わらべうた、豆腐屋のラッパ、魚売りのおじさんの声、能、民族音楽、即興演奏といったものがなぜ音楽に聞こえるかというと、それらが、我々がふだん接していて、知っている音楽の特徴をいくつかもっているからである。Φのメンバーであるということは、いま述べたようなさまざまな音楽を比較検討し、その違いを認識できるような「音楽」の概念を知らず知らずに身につけたということにほかならない。もちろん、人によっては即興演奏や魚売りのおじさんの声を音楽とは認めなかったりするだろうから、その基準ははっきりしたものではなく、相対的なものだろう。にしても、それがあることによって我々は音楽について語ったり話したりできるのだ[*9]。

[*9]異星人の音楽を地球人として理解できないというのは、共同体Aの成員としてはBの音楽を理解できないことと同じである。もっと言うと、Aの成員はBの成員であることの「そのもの性」を理解することができない。なぜなら、それを理解するとはAの成員がBの成員になることだからだ。だから私がハンガリーの民族音楽を真に理解しようと思ったら、そこの(いろいろあるが)成員にならなければならない。これは不可能ではないが、なかなかむずかしいといえる。なので、AがBを理解するには、Aの成員は一回Aから出て、Φのような立場からBを理解するということになる。ところが、ΦからBの音楽を理解するには、Bの音楽がAと比べられるようなものでならなければならない。比べられるということは、それがΦの観点から見て音楽的特徴をもっているということにほかならない。これは表面的なもので、決して「そのもの性」には到達することがない。Φの立場からは、A、B、C……といった音楽の「そのもの性」を比較することはできないのだ。
 だからもし、あるハンガリーの民族音楽の成員がその音楽をほかの音楽文化のひとたちに説明しようと思ったら、一回その共同体から出て、譜面だったり、録音だったり、コンサートだったり、文章を書くといった方法でその表面を説明することになるだろう。あるいは、「そのもの性」をも説明しようとするかもしれないが、それももちろん表面にとどまることになる。しかし「そのもの性」の説明のなかに、Φの観点から見て理解できるものがあれば、それは比較可能な表面としての音楽的要素(または特徴)として受け取られる。
 しかし、ある文化共同体がΦをもっているか否かというのはどのように知ることができるのだろうか? いかなるやり方にせよ、それはΦの観点からのみなされるだろう。私はAの成員にとってのΦとBの成員にとってのΦは同じものだと考える。すべての文化共同体の成員にとって、Φは同じものでなければならない。それぞれのヴァージョンを認めることはΦが成立しないことを意味する。しかしΦとはある文化共同体xが発展したものであると考えることはできる。先述の例では、異星人の音楽を調査するときに地球人がもつだろう観点──Φ──は、地球人という共同体がもつそれと重なっている。これと同じことが地球上のさまざまな文化共同体を比較しているときにおこっているのだろう。そして、それはどうしようもないことなのではないか。



 上に述べたことは、我々はシステムに依存することでしか音楽をできないということを意味するのだろうか? 自分の音楽をする、ということはどういうことなのか? これはたいへんやっかいな問題で、そう簡単に答えなんか出ないし、むしろ、答えが出ないようにすべきだと思う。それでも私が思うことを少し書いておこう。
 私は、自分の音楽がひとつの音楽文化共同体のなかから生まれ、そのなかで機能するものである、ということを確信している。その共同体をSとすると、そのSの内部で音楽を考え、Sのメンバーに聞かれることを想定してみずからの音楽活動をしている。それと同時にそのSを相対化すること──すなわちΦの観点から見ること──も忘れていない。なにより、Sが存在できるのはΦのバックアップが不可欠であるからだ。これは、「インターナショナルに思考し、ローカルに活動する」ということに近い[*10]。いま、「ローカルに活動する」ということは、ひとつの限定された地域での活動だけを意味しない。ヨーロッパにいようが日本にいようが、私はあるローカルのメンバーなのであって、そして、そのメンバーでいることに安心を得ている。

[*10]これは私のお気に入りのフレーズであるが、私はそれを、バックミンスター・フラーの『宇宙船地球号操縦マニュアル』の訳者解説で読んだと憶えていたことから、ずっと訳者の芹沢高志の発言だと思い込んでいた。しかし、今日その部分を開いてみると、そのフレーズは芹沢が引用した微生物学者ルネ・デュポスの晩年の主張「グローバルに考え、ローカルに行動せよ」を少し間違って記憶していた結果のものであるということが判明したのである。芹沢高志「バックミンスター・フラー年譜およびその注釈」(バックミンスター・フラー『宇宙船地球号操縦マニュアル』、芹沢高志訳、ちくま学芸文庫、194頁)。


 「お前のやっている音楽に自信があるなら、なぜそれをもっと多くの人に届けるように努力をしない?」みたいなことを言う人たちもときには出てくるが、私はそれに耳を貸したくない。自分の音楽がローカルなものにとどまることを望んでいるからで、布教活動はまっぴらごめんなのである。私のやっているような音楽に用がある人は、みずからそれを探し当てるはずで、勧誘したところでその数は増えないだろうということがいいかげんわかってきた。というより、そもそも数は問題でない。だいたい、若尾さんが言うように多くの人にとって音楽は楽しみであって、反対に、それについて異議を唱える人、あるいは「楽しみでない音楽」について考え、それを実践する人はつねに少数派なのだから、その数が増えるとはとうてい思えないのである。
 若尾さんが本の最後で問うた「健全な音楽」[*11]とは何かについて考えるとき、私はそれの必要条件としてこういった「ローカルな音楽」を挙げたい。自分の場合、それはみずからの拠りどころとしての音楽で、まずはひとりだけでも楽しめるものなのである。作曲家と奏者と観客の違いは、それがある場合でも、ここではそれほど重要な意味をもたない(ひとりがその3役を兼ねたっていい)。しかし、場所は重要である。大きな会場、または人が多く集まるようなところでは、自分の音楽はなかなか成立しづらい。脱ローカル志向は、音楽をその環境から切り離し、ひとつの客体として扱ったうえで、それがどこでも聞けるように処理することによって、多くの聴衆を得る、ということにその最終目標がおかれている。これは私の音楽には適用できない。もちろん現実的には大きな会場で大人数(といってもせいぜい30~40人であるが)を前に演奏せざるを得ないときもあるが、それをやる理由の大半は金銭の問題であって、音楽としては妥協しているわけである。狭い会場でせいぜい20人を前に演奏する、というのが理想であるが、実際の状況もそのとおりで、私が演奏するのは狭いところが多く、観客が10人を超えることはめったにない。最近は、仲間と野外で演奏することが多くなったが、これは自分たちのためにやっている音楽なので、観客をかならずしも必要としていない(もちろんいてもいいが)こともあるのである。

[*11]前掲書、194頁


 多くの人は、「人を選ばない」音楽、「たくさん観客がいる」音楽、「開かれた」音楽のほうを健全であると考えるかもしれない。私もそういった音楽が大多数であることは認める。多くの音楽の作り手が、より多くの聴衆を得ることをみずからの目標とし、そこに満足しようとしているからで、それはそれでよい。観客にしてもたくさん人がいるほうがいないよりよいと思っている。だが、どう考えても一般受けしそうにない音楽をやっている音楽家が、「閉じた」音楽を批判するのはいかなるわけなのか。「本当はもっと広く聞かれるはずなのにもったいない」という余計なおせっかいなのか、それとも「世のマジョリティに加担するのは嫌だが、つうとされる人たちにはちょっとは名が知れて、それで食べていける場所なり環境がほしい」、というような本音を、「閉じた」音楽への批判という形でつぶやいているのか、どうも私にはよくわからない。案外その理由はたんにさみしいのがいやだからなのかもしれない。結局ひとは群れたいのである。つまり、たくさんのひとがくるのだったら、そこに行ってもいいよ、という警告なのではないか? 実際にこの手の音楽に50人だか60人、あるいは100人くらいの観客が集まり、演奏が終わると拍手喝采の大興奮、みたいなことを私も何回か目撃したことがある。しかし、なんかおかしいぞと思う。ミュージシャンも観客も、そしてそれをセットアップする会場も、それがマイナーな音楽にもかかわらず、いわゆるマジョリティのマナーにしたがっているからだ。ようするに、観客の求めるひとつの音楽のかたちがすでにあり、それにミュージシャンがこたえている、というおなじみの光景が展開されているように感じてしまうのだ。「違う」音楽ならば、違う打ち出し方、違う受け止め方がどこかにあるはずである。このおなじみのパターンをなんとか脱臼できないか、と考える人がいてもよさそうだが、そういう話はあまり聞かない。やはり音楽は「楽しみ」なのである。そこには、すべてのすばらしい音楽は誰でも理解することができるポテンシャルをもっているのだから万人に開かれるべきである、という迷妄が根底にあるのではないか。
 稲垣足穂は言う。「なるほど、音楽好きには頭のいい、センスの優れたものが多い。しかしそれにも勝って音楽は、人間精神の脆弱化に拍車を加えている。即ち音楽会が常に低能児と無気力者流のゴミ溜であることも、また疑うことの出来ない事実である」[*12]。

[*12]「男性における道徳」(稲垣足穂『男性における道徳』、中央公論社、57頁)。

(終)



杉本拓(すぎもと・たく)
1965年、東京生まれ。ギタリスト、作曲家、即興演奏家、パフォーマー、コンサート企画者、レーベル経営者、バーテンダー、掃除屋、その他。



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