工藤冬里 しゃぼてん通信 第1号

サボテン
しゃぼてん通信
2015年6月5日更新

工藤冬里

2014年2月、『ニシノユキヒコの恋と冒険』が封切られたあと、
「楽団」に対するネット上のあまりの酷評にがっかりして、
ラカン本*を読みながら言い訳ツイートしたものからの抜粋



2月9日
評判の悪い長回しに本音のあったりする商業映画 #tanka

2月10日
蓮見の評が気になり3月号の群像立ち読みする2月 #tanka

あの映画は〈楽団だけが〉〈アカデミー賞もの〉で、あとの部分は〈そのパラフレーズに過ぎない〉、とか誰か書いてくんないかな #tanka

2月11日
墓川が幸せでありますように #haiku

死ねよシネフィル #34

2月12日
淫行と幽霊を許容する映画に名前を出すわけないでしょ #tanka
映画館色とりどりに貼られた〈倫理〉ソドムでスタアになってどうする #tanka
音楽も現像液に浸されて作品となり死んでゆくのか #tanka
ネタバレと言うより妬みをバラしてるだけではないか死ねよシネフィル #tanka

タフなスタッフ
あたふたと
防戦しつつ
進みゆく

2月19日
音楽も映画も超えてとめどないメルキゼデクのような楽団 #tanka

女は誰も子供が欲しいとか言わない

(ニシノが彼女たちの女の子だから)
ニシノだけが女の子が欲しいと言う
原作ではニシノは死んだ姉になって女の子を産みたいとまで言う
(ニシノは姉の母乳を飲む)

みなみの母の夏美と原作のしおりの〈出ていった〉母は合成されている
ニシノが夏美だけに会いに来たのは、夏美がみなみを産んで母としてのシンボルとなり、実体としての女たちの列から外れているから。

原作のしおりはニシノと手を繋ぐと違和感なく自分の体と同じように感じる
だから女たちはニシノと手を繋ごうとする
カナコは子供のみなみと同じようにニシノと手を繋いだまま〈無限の前で〉腕を振る
まなみは手を握られてびっくりするが書店では自分から掴む

人間の欲望は他者の欲望であるとラカンが言うような意味で、ニシノは女たちの欲望を無意識において担うが、欲望を交換しようとはしない。たとえ女が死んだ姉と瓜二つだとしても。

俳句の切れとは「せき立て」を捉えることにある。人間たちは互いに人間であるために互いの間に自分を認める。「せき立て」とは他者に先んじて自分が「人間」であると断言しようとすることにある。

切れは音速を越えなければならない。

PSFとは差別と切り捨てのシステムであった。

PSF的人格とは即ちパラノイアであった。

川上弘美が「男に背中はない」と言うのはこの意味に於てである。鏡を使っても見ることのできない自分の背中、これを対象aと言う。ニシノがしがみつく対象aは、姉の乳房、風呂は一人で入る、声、まなざしである。

短歌に於ける「せき立て」が中沢系、と言ってもいい。

ニシノのセッションに於ては、「せき立て」は、「人間ではないもの」が、「やがてそれは必ず喪失される」という形で割り込んでくる。それが恋の出口を意味する。

終わりなきバンドとは限界がない、とめどない、ということだ。

ニシノは時間のとめどなさに泣くのである。

御中が定型を切れによって分析するのは、セッションの果てしなさを句切ることと同質なのだ。

対象aの浮上によって生を句切ること。

ニシノが女たちをどう見ているかということが、ニシノが女たちの中で何であるかということと等しくなるとき、女たちはニシノにとって黄金数だということになる。それは美しい関係であるに違いなかった。

女たちの中に対象aが感知されるとき、ニシノ自身が隣人愛としての黄金律をもってニシノを見ていることになる。

ニシノが女に見えるのはそのためである。ニシノから見た女たちは、ニシノと女たちを合わせた全体から見たニシノに等しい。

マナミは対象aを獲得したとき、「ニシノが幸せでありますように」という儀式を行ってニシノから離れた。ニシノはそれを助けた。セッションの終わりである。

そのとき自己同一性を獲得したマナミは「1」でありニシノは超越者にとっての黄金数である。ニシノは永遠に「1」になれない殉教者である。

ニシノにとっての対象aの崩れは姉の乳房や糞便によってではなく、楽団の揺れによって表されている。

ニシノにとっての女たちは大文字の他者ではない。ニシノの性的な欲望の形式は、姉を通した大文字の他者の認知を欲望することである。

ニシノは自分で失われた子供時代を再構成しようとはしない。ササキサユリの話をみなみが再構成するのを母親が確認する、という周到な構成がなされている。ニシノの黄金比のために最低三人の他者が必要だったのだ。

トラウマを抱えているにもかからわず、ニシノの恋愛には何故か「事後性」がない。振られた方なのに堂々としている。原光景という外傷は専ら葬儀に参列する戦友としての女たちの、ニシノが失われたという事後性にのみ表れるのである。

だからこの点ひとつとっても、これは女たちのための映画なのだ。

ニシノは女たちの経験の中にしかいない。楽団の名前は消し去られ、経験そのものとしての映画だけが残る。楽団はこの映画の境界である。楽団の音楽はこの映画の外側にあり、映画の裏張りをしているのだ。だからみなみは楽団の前で倒れるのだ。

ニシノは嘘をつかない。カノコとまなみが鉢合わせしても受け入れる。ゆえにニシノは精神分析やコギト、ヴィトゲンシュタイン、言語論の言うところの主体ではない。つまり人間ではない。

井口は犬と猫を厳密に分けた。墓は金魚から犬になった。そこに竹野内は注目した。これらの小道具は無意識とシニフィアンの関係を構造上徹底させようとしてのことであった。

シナリオは原作の誤認という自我的な見地から見たとき初めて合理化される。それが開かれた裂け目としての犬猫の象徴的侵入だ。

下手な楽団が悪意に取られるか微笑ましさと感じられるか、同じ音の情報から感情が形成される、機能不全家庭の成員としての人間の必然。

2月20日
葬式!? 馬鹿もおやすみおやすみ言へ #haiku

書いたのが
わたしだなどと
いうことは
取るにもたらな
い問題よね
#tanka
@durasia_bot

I hereby declare that any anonymous brass bands in movies are mshb. #art

ニシノが確かに存在しているかのように振る舞っている女たちの中に楽団は産み落とされる。そして楽団はその語らいに参加することが出来ない。楽団と女たちとの出会いは、そのような無力な受難として開始される。

楽団が存在するということは映画の外のものによって支えられなければならない。その支えは女たちの外側にしか求められない。

無力な受難として、女たちの語らいを身に受けているだけのニシノは、女たちの語らいの中に埋もれている。ニシノはもう何も話さず、他者の語らいのざわめきに耳を済ますだけとなり、自分が生きているか死んでいるかをもう問わないだろう。

みなみだけに聞こえる楽団は、みなみにとって大文字の他者であり、ニシノにとっては無意識の表象物であり、女たちにとっては風の音と同じものである。

他者の語らいの中で見定めようとする、とめどなく寄る辺ない自分の位置を映し出すのが夢であり、映画全体がみなみの母の夢かもしれない。

冒頭の三羽のトンビは語らう他者たちの声、意味の衣装を脱ぎ捨てた裸の声を表している。夢の中でみなみの母は他者の語らいを語る主体であることをやめ、むしろその語らいを受けている受難の座に戻ろうとする欲望を回復する。みなみの家は自分の家なのだ。

葬式場面でニシノは楽団の意味ではなく欲望を伝える。楽団はみなみによってのみ存在する。

みなみは、欲望の対象aとして、すなわち、生命体として設立されたとき自分が大文字の他者にとってそれであったようなものとして、そしてまた、この世にやってくることを欲せられた者としてあるいは欲せられなかった者として、再び生まれ直すべく呼びかけられている。

生まれ直したみなみが、もし母の欲望によって自分自身を所望し、手に入れるならば、みなみは母の欲望のあり方を、自分の欲望として取り込むことになるだろう。それがラストシーンの「ただいま」なのだ。

ニシノに与えられている自由は死だけである。女たちの欲望に、自分の死の可能性によって断念を迫ることしか彼には残されていない。ところが心中の誘いや幽霊になって会いに来るという約束によって、ニシノは死さえ管理されているように見える。

従って死は近代的な自由にすぎないのであって、むしろ徹底して女たちになったニシノこそ対象aとしての自由を獲得するのだとも言える。

井口はニシノの造型にガンジーを読んだと言う。五十代のニシノの無様は省かれる。徹底的な放下による即天去私をシナリオのニシノは目指すことになる。

ニシノにとって姉としての女は死である。
ニシノは自然、女たちは精神分析家、カメラの視線は分析を受けているみなみを通した母の視線である。精神分析家の中に、なにかしら死を見るような気がしてくる。と、やがて分析を受けているみなみ自身の姿としてニシノの死が母の目の前に現れてくる。
という映画を観る私たちの視線が誰と一致するかによってTLが形成されているのだ。

大文字の他者が失われた状況で、人間は一人の他者である。生きねば、とはともかくも他者として生きねばということである。そのためには大文字ではない他者の語らいの中を泳いで行くしかない。それが9.11以降のリベラリズムの浅薄な実相である。

みなみとニシノの「だるまさんが転んだ」が校門前で進行してゆく。遠ざかりや消失を表す「転んだ」と現存を表す「だるまさん」がみなみのトラウマとして強迫的に反復される。そのためにみなみは学校へ行かず、葬儀場へと向かうのである。 母親との別離と再会というトラウマがニシノを鏡とすることによって再演されているのだ。
ニシノは母の象徴である。ニシノが止まるときみなみは母の手の中に自分が在ったということを、ニシノに背を向けて歩いているときは母が自分を捨てたことを象徴させている。

みなみに対する母の欲望は、ニシノに対するみなみの欲望となってみなみの心の中に設立されるのである。

しかしみなみはまだ自分は母を欲すとは考えていない。みなみはまずニシノを欲す。それは統辞構造としての「母はみなみを欲す」の象徴なのである。電車でニシノによりかかっているのはみなみではなく麻生久美子なのだ。

みなみに「母は自分を欲す」が到来するのはニシノが消える時である。

このときみなみは、流星として投げ出される物件、すなわち対象aへと化しているはずである。

なお、「自分母を欲す」という統辞構造はついに生まれないままにままになるのだから、ここで母は欲望の対象としては否定されることになる。こうしてみなみは新しい「ニシノ」と廊下でぶつかり、川上的、少女漫画的にデートする続編の「母」になるのだ。

楽団は音楽担当として名前をクレジットされるとき殺害される。
楽団が映画という他者の立場に立って自分自身を欲望するとき、その欲望の対象である経験的実在としてのバンドは、象徴としての言語という概念的把握によって生命を抜き取られることになる。

2月21日
楽団員は役者を装い、バンドのクレジットを消し去ることによって自分自身の存在を消し去り、一組の言語的要素、すなわち対のon/offという拍の対が活動することを許容した。この音素の対が、映画内音楽としては消え去った存在と関係を持って、その存在を、再現させたり再び消去したりするのである。

フューネラル・マーチのリズムの二拍目の遅延の秘密を象徴的言語活動として演奏の中に導き入れたことによって、バンドは、自分の存在の核と言うべき部分を、言語としてのリズムの二項対立的な活動、すなわち在と不在の活動に、委ねることになる。

この委譲は、リズムの秘密としての言語という他者の中へ移行することによって、失われつつあるものとしての自己を把握することであるから、死という観念を呼び醒まさずにはおかないものである。

キネ旬で金井が楽団を「小人の女たちに見えるアングルで撮られている」と評したのは、その殺害の匂いを感じ取ったからにほかならない。

リズムの反復は、映画音楽として不在になることと再び音楽として在ることとを能動的な行為に変換する。映画音楽としてのクレジットという「物」としてのエンドロールを消し去り無化するという行為の重みとそこに含まれた自己の死の表象から、他者としての言語の永続的な作用が見てとれる。

楽団を映画の外から見る対象aの在と不在とが、リズムの二項対立へと、楽団の主体の中で結びついた。それはすなわち、クレジットされないことで殺害された楽団の内なる「物」が楽団の中で一つの対象となり、この対象に向かって言語的に分節化された映画の欲望が設立されるということである。

「物」としての一拍目は、言語に基づく永遠の欲望としての二拍目が存在するために、必ずそれに先行してなされていなければならなかった、一つの殺害の結果としての対象を表していたのである。

欲望の永遠化とは、こうして映画言語という他者としての井口の欲望が楽団の欲望として主体化されることなのである。それが象徴界つまりサンボリックとしてのホラーなのだ。

女たちの死を、言語としての楽団=ニシノの作用によって象徴化する試みがこの映画であると言える。女たちは、現前と不在とが互いに他を呼び出すようなこの構造的交代を繰り広げることに、文字通り己れの時を捧げているのである。

ニシノの欲望が姉の欲望になるという変換のプロセスが実現するために、女たちは無化される。女たちは投げ出されることによって、姉の胎児である筈のニシノ自身として殺される。

ニシノが欲望されるべき対象としての生まれ直した自分を見出すが、それは常に失われた対象aである。対象aの最も重要な規定は、まさに女たちが永遠に失われているということなのである。

夢の中で次々とニシノにとっての対象aである女たちが見出される。しかしその女たちを見出しているのはニシノではない。ニシノは阿川により、阿川はみなみにより、みなみは母により、対象aとして見られているのである。映画自体が一つの反復強迫としての夢なのである。

失われた女たちのみが、対象aとして黄金数の位置にある。欲望を介してニシノが姉になるということ、それは、姉の胎児に対してニシノが持っている関係が、ニシノに対して女たちが持っている関係として、象徴化されるということである。

象徴化されるということは、姉と胎児、ニシノと姉、みなみと母、楽団と映画、、阿川と母、井口と女優たち、といった関係が、ニシノと女たちとの関係によって置き換えられるということだ。

私とは誰か、を決定するのは、私ではなくて、他者である。加藤周一『私にとっての20世紀』

2月22日
楽団の鏡像自己は撮影者によって担われるようになる。その向け換えの結果、鏡像自己の統一性が有していた価値は、そのままカメラの中へと疎外される。すなわち、楽団に帰属するはずの価値はカメラによって掠め取られ、映像の中でしか存在できなくなる。

このとき楽団は、バンドがもともとそうであったところの不統一な内的知覚への準拠を打ち消し、鏡としてのカメラに映る統一性を、カメラから取り戻す試みに熱中する。この主張はパラノイアのあり方であって、もともと不統一な楽隊であることを打ち消すバンドの熱情は、「パラノイア性誤認」と呼ばれる。

名前を消したバンドは、カメラという虚なるものの中に、初めて自己を見出すのみならず、さらにはその自己の認知を、当然のこととして映画にも要求するようになる。

映画は、統一的な見えとしてのカメラの前の楽団の自己像に対し、認知という欲望を向けてくる。

ところがこの他者である映画の欲望が向けられているのはカメラの前の虚なる鏡像なのであるし、さらにその鏡像は、向け換えによって撮影者によって担われているわけだから、楽団が経験するのは満足ではなく、激しい失望と嫉妬でしかなくなる。

こうして、名前を出さないことで、映画におけるこの楽団は、音楽における自由と狂気の実験場となっているのである。

2月23日
鎌倉へ下る道に 竹剥げの丸橋を渡いた 木が候はぬか板が候はぬか 竹剥げの丸橋を渡いた 木も候へど板も侯へど にくい若衆を落ち入らせうとて 竹剥げの竹剥げの 丸橋を渡いた (閑吟集二百十五)

2月24日
ゲイリーや七尾の仕事は、楽団のような象徴界ではなく、社会の基本的なきずなである想像界に属する。多数に就こうとするゲームの果てに、いつも幻の絶対多数者の像が浮かんでいる。

自己が自己へと還ってしまっている彼らの想像界の仕事の傍らでは、楽団の象徴界の分裂の運動が繰り返されている。
「最後はポップな曲で終わりたかった」という井口の言葉は、映画の起源が、その分裂の果てから望まれた姿において、名残りとしての同一性を保とうとする運動を表している。

映画の起源、現に在る映画、その2つの違いを知として内包している映画、という象徴化の繰り返しが映画の螺旋状の美学のフィボナッチ係数を形作る。そのとき、映画の現存在を対象aとして見出だしたいという情熱は、黄金数として表せる。

ニシノは自分自身の無限値である対象aを、自分自身にとっての不可能性としてしか内包できない。だから彼の親密は内密ではなく、外密(エクステイミテ)と呼ばれるだろう。外部でありながら最も「内密」な親しさを要求するものであるからだ。

ニシノが関係を結ばざるを得ないような外部を現実界と言う。起源において、在ったはずのニシノ自身が、悦びの名残りとして、更なる象徴化を求めている。ニシノは、その求めに応じて、無限の果ての現実界へと踏み込んで行くのである。

ニシノと女たちの美しさについてのTLの皮を剥いだら、崩壊した姉の乳房の、「命のしかめ面」とでも言うしかない不気味なものだけが残されるだろう。

映画の究極は無限の「長回し」に晒されることである。そこにおいてのみ、映画は映画の絶対的な他者となり、映画の起源の現実を、黄金数として享受していることだろう。カメラはその誕生から鏡像段階を先取りし、映画を死の次元から眺める悦びを、早くも覚えてしまったのである。

名前のない楽団の主体(シュジェ)は自分自身を外から見るための媒介を持っていない。一方的に楽団のことが話されているが、他者の語らいであるTLは楽団の外側にあり、言葉は自己言及を起こして楽団に不決定の苦しみを味わわせるだけである。

他者の世界の一角にカメラが現れる時、楽団はやっと自己認識を得るが、それは、大文字の他者の言語活動によって、統一された鏡像の裏面に過ぎなくなる。

だから楽団にとって大事なのは、大文字の他者から見た自分自身の後ろ姿に、いつも触れていることであり、カメラに向かっていることではない。

楽団の参加者、楽団、この映画の音楽部分、この映画、全ての映画、これらは全て象徴化された「一」として構成されている。大きな「一」の中に「一」が「一」として存在しようとすると、それは黄金数にならざるを得ない。

そうした、集合とその要素という二つのレベルの「一」を繋ぐ「一の線(トレ・ユネール)」が成立するのは、主体自身が言語に関わるや否や、メタ言語は無い、と言えるからである。

集団と主体との間の同一化は滑稽味を帯びて現れる。なぜなら、「一の線」は、大文字の他者の論理体系としての自己言及の無力が、暴露されているような場であるからである。

映画の犬はニシノが他者になるための同一化の通路、すなわち「一の線」なのである。

ファルスのある者とない者との関係を表現する定式を与える権能を持った者は、映画の外側に位置する。だからいかなる形であれ性関係は撮影されない。

それにも関わらず映画が撮られ、楽団が演奏した理由、それは、愛について話すということは、いつになっても、悦びであるからだ。

2月26日
「主体が言語に関わるとき、メタ言語は存在しない」、というラカンの言葉は、「唇の清くない者」の口に当てられた「大文字の他者」の燃える炭火のようだ。

Therefore this film proved to be the PV for mshb. #NishinoYukihiko


*
新宮一成『ラカンの精神分析』講談社現代新書、1995年
斎藤環『生き延びるためのラカン』筑摩書房、2006年
ジャック・ラカン『無意識の形成物』ジャック=アラン・ミレール編、佐々木孝次・原和之・川崎惣一訳、岩波書店、2005年

(終)



工藤冬里(くどう・とうり)
自称音楽家。劇団マヘル所属。俳都松山出身なので定型にこだわる性癖が染み付いてしまっている。



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