対談 細馬宏通×若尾裕
しゃぼてん通信
2015年6月5日更新
●対談 細馬宏通×若尾裕
分化、反復、終止
『うたのしくみ』という画期的な書物を発表された細馬宏通さんと、『親のための新しい音楽の教科書』(小社刊)の著者、若尾裕さんとの対談です。音楽とことばの発生をめぐる思索にはじまり、音楽や物語がそれ自身を成り立たせるためにまとってきたものについて語り合いました。
未分化の声から、ことばと歌へ
若尾 以前訳した本に書いてあったのですが、音楽と歌との関係というのは、じつに微妙なものだというんですね。あるひとによれば、器楽と歌というのは、そもそも別のものであるというんです。
細馬 といいますと?
若尾 音楽には器楽と声楽とがある、みたいな分け方は西洋近代に成り立った考え方である。とりわけ器楽というものは人為的なもので、不自然なものであって、歌というものに、あとから割り込ませたものだろうというような考えです。
そこで、先日、細馬さんの『うたのしくみ』を読んでいましたら、文字どおり、うたのしくみがたくさん書いてあるわけです(笑)。いってみれば、あれらは応用問題的な話ですね。
細馬 そうですね。
若尾 ああいった個々の事例を深く掘り下げていくと、いつかは歌という共通項にぶつかるのかな? と、ばくぜんと思ったりしたのですが。
細馬 歌というものについては、ぼくもつねづね掘り下げたいな、とは思っています。というのは、もともとぼくが関心をもっているのは、人間の会話についてなんですね。そしてそれをさかのぼると、大風呂敷を広げることになりますが、言語進化の問題に突き当たると思うんです。人間がどうやってことばを獲得したか、ですね。そして、その言語進化を考えるときに、どうしても気になってしまうのが、歌なんです。
若尾 言語進化を考えるにあたって、ことばだけじゃなくて、歌の存在が出てくる?
細馬 そうです。ぼくたちは、日常的に、平静をよそおって、「非・歌」であるところのことばをしゃべっているわけですが、この「非・歌」、つまり、メロディとかイントネーションをあまり強調しない、また、感情を乗せなくても表出できることばというものをしゃべるようになったのは、いつごろなんだろう? と思うんですね。たぶん、人間がいまみたいにぺちゃくちゃしゃべるようになった理由のひとつは、この、比較的ニュートラルといいますか、声を出すたびに「ワー」とか「ギャー」とか喜怒哀楽がストレートに伝わってしまうやり方とは別のしゃべり方ができたときに、ぼくらが知っていることばやしゃべり方が発生したんじゃなかろうか、と思うわけです。大風呂敷ですけどね(笑)。
若尾 ほう。
細馬 これを逆にいうと、歌というのは平静のことばにくらべると、かなり感情が入っているし、メロディもうまく仕組まれている。ぼくは、これっていったいなんだろう? と思うわけです。その見通しのひとつとしては、叫びのような感情表現としての声からある仕組みが生まれるときに、2つの方向があると思うんですね。
ひとつは、その感情をできるだけ抑えていこうということ。いわば、ぼくらがいましゃべっている言語のようなもの。もうひとつは、とはいえ感情は抑えきれないから、だったらその感情の出し方に構造のようなものをもたせていこう、という方向性。あるいは、いま自分がとらわれている感情とは別の感情に置きかえて声を出そうとすること。そういう仕組まれた感情みたいなものがあって、それが歌になっていくのかなと思ったりしてるんです。
若尾 なるほど。
細馬 ことば以前の、抑揚のある声がまず、感情をもつタイプともたないタイプに分かれて、その感情の統制のされ方によって、歌とことばという両方のあり方が出てきたんじゃないか、という見取り図です。
そこからずっと時間がたって、いまの歌というのは、ずいぶんと、いろんな仕組みをになわされて、かなり複雑になっちゃったんだけど、もうすこし、歌とかことばができた頃にまでさかのぼったり、あるいは、そういう分岐がおきたときって、ぼくたちはなにを考えてたんだろう? ということがわかるようになるといいなあと思ってるんです。
そういうこともあって、若尾さんが『親のための新しい音楽の教科書』の最初のほうで、いまある歌って、そうとう制度化されているじゃないか、ということを、いろんな事例をあげて書かれているわけですが、そのあたりの関心が、このたび共通することとしてあるのかなという気はしておりました。
若尾 制度をはずしていって、さかのぼれるといいですが(笑)。
細馬 想像するに、ことばというのは、できるだけ感情をフラットにして、ふだんの感情の高低から、よりフラットな状態で発するものだと思うんですね。いっぽう、歌というのは、もとになる感情というのはもちろん起伏があるんだけど、その感情に時間構造を与えてやったものといえるのではないか、と。ことばも歌も、もともとの叫び声からすると、とんでもなく人工的ななにか、です。ただ、歌のほうはどちらかというと、感情の起伏をベースにしているので、感情的な声とはリンクしやすいんじゃないか。というような妄想なんですけど(笑)。
「あ、またきたな」という感覚
若尾 その感情の奥にあるのが物語ではないか、とも思うんですね。これは何人かのひとがいっているのですが、人間は物語に生きているものであって、つまり、ことばを発明したのは物語を語るためだ、という指摘があります。音楽というものをずっとみていくと、物語が多いんですね。ソナタ形式みたいにドラマタイズされた音楽というのは、ようするに物語を音にしている。メロディがあることでどうしても起伏が生まれますから、物語を語るのに向いている。
もうひとつ、人間が時間というものを、なんらかのかたちで管理するときの方法として、物語しかない、と。これは誰かじゃなくて、ぼくが勝手に考えたことです(笑)。
細馬 なるほど。ぼくはどちらかというと、物語にまとまる前の、より短い単位やシンプルな構造のことを気にしてるんです。たとえば人間はあるフレーズとか、あるまとまった行為が繰り返されると、「あ、またきたな」という感想をもちますよね。この「またきたな」という感覚が重要だなと思っているんです。物語であるための鍵というのは、いままであまり存在しなかったタイプの行為のまとまりがいくつか連鎖で出てきたときに、それがでたらめじゃなくて、「この並びだったらおもしろいな」というふうに思えたり、あるいは、それが繰り返されたときに楽しく感じる、というところなのかなという気がしています。
若尾 そうですね、繰り返しというのは、物語の原点だと思います。繰り返しのない音楽というのはじっさいにありますが、ひじょうにマイナーな存在ですよね(笑)。
細馬 かなり音楽に慣れたひとがおもしろがる音楽でしょうね。
昔話やドイツ文学の研究者の小澤俊夫さんという方がおもしろいことをおっしゃってました。グリムが採集したものでも日本のものでもそうだけど、その多くに定型があって、反復が3回あるそうです。たとえば、『馬方と山姥』で、おそろしい山姥が追いかけてきて、馬方の乗った馬に追いついて馬の足を1本食う、というのがあったとしたら、そこから逃げたらまた追いついて、こんどは馬の2本目の足をもぎました、となる。で、お話ですから馬は2本足でも走って逃げるんだけど、3回目にもうだめ、というところで馬方は馬を捨てて木に登る。つまり、3回繰り返して、その3回目で思わぬ展開を見せる。聞いている子どもは、その繰り返しをおもしろがるわけですね。最初に追いつかれるときは不安そうにするんだけど、2回目になるとその構造がわかってくる。で、3回目も同じパターンがくるかなと思ったら、そこに意外なヴァリエーションがくる。そのことによって、物語が飛躍するんですね。小澤さんは音楽にも造詣の深い方なので、「音楽でもこういう構造はありますよ」といって、息子さん(=小沢健二)の音楽を出してきて説明されてました(笑)。
ぼくらは物語というものを、はじまりがあって終わりがある、というふうに一直線で考えがちだけれども、じっさいには物語のなかにはそれだけではない構造があって、そのいちばんの基本がこの繰り返しなのかなと思いますね。
音と感情のルールづくり
若尾 そういった原始的な構造のことを考えると、歌というもののあり方もひじょうに移りかわっていますね。たとえば18世紀以降、歌はある種の感情に焦点化していて、それがいまの音楽のかたちにつながっています。つまり、個人の感情というところに特化していったのが近代の音楽。ですが、その前の時代というのは、もうすこし淡々とした物語が語られていた気がするんですね。危ないことばをつかっていうとすれば、民族のレジェンドのようなものをうたっていたといいますかね。
細馬 その場合、たとえば琵琶法師の長い語りと異なる短い俗謡でどうなるかということがありますね。歌曲というものがコンパクトなかたちになったときに、あまり起伏がありすぎるものじゃなくて、1テーマでいきましょう、みたいなことが起こったんじゃないか。
若尾 社会の要請でパッケージが変わっていくというのはあるでしょうね。ロマン派の時代は最大で1時間ぐらいの限度があって、それはコンサートをやってみて、みんなががまんして観てくれる時間だったんじゃないでしょうか(笑)。
細馬 思い出してみますと、ぼくは小学校の頃、落ち着きのない子どもでした。だから、クラシックみたいな曲を、ずっと座って聞くということが耐えられなかったんです。父親のレコードのなかにドヴォルザークの《新世界》があったんですが、それをかけながら、弟とずっと花札をしてましたね(笑)。こんな長い曲を面と向かって聞いてられるか、って感じで。花札をしながらだと、ときおりいい感じのところがちょいちょい聞こえてきてね(笑)。
そのあと、中学校に上がるときぐらいですかね、ラジオから《運命》が聞こえてきたんです。そのときは、もちろん《運命》という存在は知ってたんですが、ジャジャジャジャーンの続きがどうなってるかは知らなかったんです。それまでは遠ざけてたんだけど、ふと好奇心がわいて、いい機会だからこれはひとつ、最後まで聞いてやろうと思ったわけです。そしたら、最後まで聞けちゃった。あれは3、40分はありますよね?
若尾 そうですね、ゆっくりやると40分ぐらいでしょうね。
細馬 それで、クラシック聞けるじゃないか! って思ったんです。それは、小学校高学年のときに、《新世界》で花札をやってたのが効いたんだと思います。
若尾 (笑)
細馬 やっぱり、ああいう標題音楽って、あるいは標題のない音楽にしたって、長い時間ずっと耳をかたむけるって、たいへんなことだと思うんですよね。ですから、そこから物語を感じて楽しむというのは、そうとういろんな経験を経ないとむずかしいでしょうね。
若尾 《運命》はつい最近の話ですからね。お祭りの音楽なんかで、短めのお話がヴァリエーションを変えながらくりかえしくりかえし演奏されて一晩やってる、みたいな、そういう壮大な物語ってありますよね。そっちのほうがたぶん古くて、だけど、これを一晩中やってるわけにはいかないから、もうちょっと短く切り分けて構成しましょう、ということになっていったんでしょうね。
細馬 ぼくらは音楽だけを切り離して、それを楽しむということが制度化されたところに生まれて、それを疑うことなく生きていますけど、じつは、インドネシアのガムランにしても、むかしは影絵芝居とかといっしょに演奏していたわけですよね。つまり、音楽がそれだけで鳴らされて意味をになうというよりは、ある物語の伴奏としてまず鳴らされていたわけです。そして、こういう場面にはこういう音楽があてられるんだなという印象の積み重ねが、音楽と感情の関係をつくっていったと思うんです。音楽を聞いただけである感情が動くというのは、そういうことを経たあとのことですよね。
若尾 そうですね、ベートーヴェンのシンフォニーのような、音だけで物語が完結するという構造ができあがるためには、かなりの準備期間が必要ですね。こういう音からこういう音へ変化するときは、こういうエモーションをあらわす、といった細目がいっぱいあって、300年ぐらいかけてそういうルールづくりをしてきたんでしょうね。
細馬 それまでは、宮廷できかれていたような、バッハのある種の曲のような抽象的な音楽があるいっぽうで、たとえばヘンデルの《水上の音楽》のように、王の舟遊びのときに演奏するという、ある状況のなかで演奏される音楽も出てきます。あるいは、それより昔ですと、「いまから春の音楽をやります」といって演奏される曲も存在しますね。そういう経験が、バロックから古典派のあいだに、いろいろ試されたんでしょうね。
若尾 そうですね。バロックのころに、その細目がいちばん発展したんだと思います。ドイツにマッテゾンというひとがいたんですが、このひとが音楽感情論のまとめみたいな本を書いてるんです。
細馬 バロックのひとですか?
若尾 えっと……18世紀のひとかな。
細馬 いまどきはすぐ検索しちゃうんですけど……あ、ありますね。ヨハン・マッテゾン。
若尾 ありますね。ウィキペディアには記載がないようですが……有名な本があるんです。なんだったかな(笑)。ドイツ語なんですが[編注:“Der vollkommene Capellmeister”(『完全なる楽長』)のこと]。これを読みますと、すでに、現代の音楽心理学とほとんど同じなんです。音楽は感情を伝えるものという前提からはじまって、その感情にはこういう分類があるという細目がある、というつくりです。バロックの時代から、いまと変わらない議論があるわけです。ですから、たとえばある特定のコード進行で胸がキュンとするみたいな、そういう情動反応のはじまりというのは、だいたいこの時代なんじゃないのかなと思うわけです。
細馬 なるほど。マッテゾンは1681年生まれのようですから、バッハと同じ時代にあった考え方なわけですね。
若尾 もちろんそのあとからいろんなひとが出てきたんでしょうが、専門的に追っかけてはいないのですが、17世紀のおわりから18世紀にかけて、情動の細目ができてきたといっていいんじゃないですかね。ですから、われわれは、フーコー的にいいますと、ミュージカル・エピステモロジーの上にいると考えていいのではないでしょうか。つまり、この時代にできあがった音楽の認識システム上にいるということです。
音楽を音楽として認知する作業
細馬 考えてみたら、「ドミソは明るい」というところからはじまる音楽、というのが、近代の音楽になっているわけですが、べつにドミソがなくてもいいし、5度と4度だけでよかったりとか、いろんな考え方があるはずですからね。たとえばガムランにしてもアラビアの旋法にしても、音楽を考えるときにドミソで考えてもわからない音楽は世界中にありますね。
若尾 音階というのは、たとえばオクターヴというものが普遍原理として存在しないと成り立たないですよね。
細馬 オクターヴについてぼくがある程度いえるかなと思うのは、いろんな声の高さのひとがいて、そのひとたちが同時にある歌をうたうときに、それぞれの音のオクターヴはちがっても、「ああ、うたえたね」という気がするということ。オクターヴに近い概念というのは、そこから出てくるような気がするんですね。
若尾 オクターヴが倍の周波数だとか、そういう認識があるとしても、たとえば、あきらかにちがう高さの声のひと、そういう男性と女性がいっせいに同じ音をうたった場合、「同じ音をうたっているなあ」という認識をもつ、ということですね。
細馬 そうです。
若尾 でもこれは、考えてみたらものすごい不思議なことだと思うんです。なんで倍数になったら、ちがう高さなのに同じ音だと思うんだろう、と。
細馬 そうなんですよね。
若尾 これ、犬も同じだという説がありますね。
細馬 犬にも高い低いがいる(笑)。
若尾 はい、いろんな「ワン」があって。でもこれ、どうやって試験をするんでしょうね。
細馬 いわゆる学習心理学の手法をつかえばできるんでしょうね。1オクターヴ上なり下の「ワン」を聞かせた場合と、そうでない「ワン」を聞かせたときに、ちゃんと弁別できるなにかがあればいいわけですよね。
若尾 そのへんは細馬先生、もともとご専門の動物行動学で……(笑)。
細馬 いやこれはね、動物行動学よりむしろ学習心理学でしょうね。たぶん犬だったら実験できるんじゃないかな。
若尾 まあ、そういう報告があるので、やったひとがいるんでしょうね。
細馬 じつはぼく、そもそも音程というものを人間がどうやって把握しているのかを、音響学的にみて、きっちりわかった気がしないんですよ。
若尾 というと?
細馬 音の高さ(ピッチ)の知覚って、けっこうめんどくさいやり方らしいんですよね。ぼくらが声の周波数をとりますよね。すると、波形のいちばん太い帯みたいなところが何段階かで見えます。これはフォルマントと呼ばれていて、わたしたちが母音を知覚するときにつかいます。ではピッチはどうかというと、そのフォルマントを利用してはいるものの、フォルマントとはべつものなんですね。人間のピッチ知覚というのは、耳の蝸牛管をとおっていくときの具合から複雑な計算を経て知覚されているらしいんです。極端な場合は、物理的には鳴っていない周波数帯を、鳴っている音を元に頭のなかで割り出して、鳴っていないはずのピッチを感じてしまう。これは騒音のなかで音の高さを推測するときに重要だといわれてます。
若尾 そうですよね、フォルマントが決めちゃうわけじゃないですよね。
細馬 人間の場合、おもなフォルマントはあいうえおとかを認識するためにとっておいて、それはどんな高さの声のひとでもだいたい似た比率にしておく。いっぽうでピッチは、フォルマント比をたもちながら音程を変えるという、よく考えるとへんてこりんなことをやってるんです(笑)。
若尾 そういえば、オリヴァー・サックスの『音楽嗜好症』に失音楽症というのが出てきますね。
細馬 ぼく、それ読んでないや。どういう話ですか。
若尾 音楽が大好きでしょうがない病気みたいなのがあって、あるとき音楽を聞いたら、それに魅せられて、音楽のなかに入り込んでしまったひとだとか、「イヤーウォーム」、耳の虫ですね、それはいっぺんどこかで聞いたフレーズが、際限なく頭のなかで繰り返される症状です。たしかに、たとえば家電量販店やスーパーマーケットとかに行くと、そこで聞いた音楽が1時間ぐらい残ることはありますけど、これは何年もつづくらしいんです。
細馬 それはえげつないですねえ。
若尾 そのなかに、失音楽症というのがあって、音楽を認知しないひとの話ですね。そのひとに音楽をわからせようとして、いっしょうけんめい音楽を聞かせるんだけど、「どんなふうに聞こえた?」と聞くと、鍋やフライパンをガチャンとぶちまけたような音にしか聞こえないというんですね。
細馬 ぼくらが音を音楽として認知するというのは、かなり複雑な作業なんでしょうね。物音とか、音の高さのような一音一音の問題だけでなく、音の連なり、つまり音の高さのシークエンスを楽しめないと音楽にはなっていかない。
若尾 あるピッチに収斂させて、あるピッチを認識するという機能は、さきほどおっしゃったように、耳の倍音の認知機能だけじゃなくて、べつの認知機構がはたらいていると。これがないと、ぜんぶガチャガチャした音ということになるらしいです。
細馬 なるほど。
若尾 音楽とは、それを前提としたものになるだろう、ということになりますよね。
細馬 だとすると、ぼくらはふだん、音楽のメロディだとかコードだとかというものが当たり前だと考えていて、そこからできる音楽が実現された世界に生きているんだけれども、そもそも、その音楽を成り立たせている知覚まで降りていくと、音楽からほんとに譜面に書かれているメロディとかコードってぱっとききとれるものなのか? って気はしますね。音程の認知ができたとしても、さらにそれを音楽として認識するための作業が必要なわけですが、それは相当な教育のたまものじゃないのか。楽典レベルまでいくと、音楽として聞くための要素が徹底的に細分化されていて、その特定の組み合わせをぼくらは音楽と称して享受してる気がしてしまうんだけど、音楽ってそれだけなのかしらんと思うことがあります。
若尾 音楽という基本ソフトがあるとしたら、それを成り立たせているようなものがあって、そこにプラグイン・ソフトがいっぱいからまっていて、そのプラグインのインストールの仕方によって、ずいぶんちがう音楽ができてるんでしょうかね。
細馬 ぼくらはそのプラグインのなかでもかぎられたものの組み合わせをつかって、それで鳴らされるものを音楽だと思ってる、ということでしょうね。ちょっとちがうプラグインをつかっている世界の音楽を聞かされると、自分が知っている音楽とはちがう、ということになる。たしかに音楽っぽいんだけど、うちのプラグインでは鳴らないんだ、みたいな。
若尾 そうすると、もともとの基本ソフトとされるものはどこにあるんだ? となりますね。
反復は、比較の枠組み
細馬 基本ソフトでいうと、おそらくは、最初の議論ともからみますが、まず、簡単なメロディ。和音はまだ保留したいですが、簡単なメロディの認知はまずあっただろう。そして、同じメロディがきたときに、「あ、またきたな」という認知もたぶんある。それからリズムの認知もあるでしょう。それぐらいの組み合わせではないでしょうか。
若尾 メロディ、または音階というものも考えてみたら、起点になる音、主音というのがなければ、音階は成り立たないですよね。
細馬 ええ。
若尾 これも、反復の起点があるかどうかの話ですね。リズムも反復ですし、ことばも反復です。そう考えると、反復というところがいちばん大きな要素という感じでしょうか。
細馬 その反復の単位とはなんなんだ? というのと、「反復がきたね」と感じさせる手管というのかな、それはなんなんだろう? というところですかね。
若尾 それの組み方で音楽がどんどん広がっていくんでしょうね。人間というのは反復にすごく反応するようにできていて、たとえば、反復しておなじことばを繰り返されるとダメージを受けたりしますよね。
細馬 というと?
若尾 ネガティブなことばをいいつづけられるとか。
細馬 はいはい。
若尾 そうすると、自分はほんとうにだめだ、と思ってしまったり。逆もあるでしょうけどね。そういう感じで、おなじ音楽を何回も聞かされたら、やっぱり誰でもまいると思うんです。たとえば東北の震災のときに、テレビをつけるとずっと同じコマーシャルをやっていましたよね。情報はもっと知りたいからテレビを観るんだけど、そのコマーシャルのせいでちょっとおかしくなるんです。だけど、その反復も、もっとミクロにやりすぎてしまうと、逆に快感になるでしょう?
細馬 ええ。
若尾 ドラムンベースみたいに(笑)。だから、反復については、まだわかってないチャンネルがたくさんありそうなんですよね。
細馬 リズム・トラックみたいなものは、ずっと同じものが繰り返されているというわけではないですよね。基本となるリズムの上に、どんどんちがうものが乗っかってくる。まったく同じブロックがコピー・アンド・ペーストで繰り返されるわけではなくて、反復するレイヤーはあるけれど、変化するレイヤーもあるわけで、これは純粋な反復としては考えられないかもしれない。ぼくらがリズムということばでいっているものも、たぶん、これだと思うんですね。そういう、変化をうながしたり、「変化したな」ということをわからせるための反復というのが、もしかしたらあるのかなと思いますけどね。
若尾 ドゥルーズの「差異と反復」じゃないですけど、ほんとうの反復はなくて、みたいなところから考えると……は長くなるんで、やめましょう(笑)。でも、グルーヴというのも、差異を構造化するためのやり方なんでしょうね。もちろん演奏するひとはしぜんにそうなっちゃうんでしょうけど。
細馬 たぶん反復にはいくつか機能があると思うんですね。ひとつは、参照する、ということだと思うんです。「あ、またきたな」というときに、ぼくらはだいたい、「また、きたな」と思うだけじゃなくて、「またきたんだけど、さっきと同じだっけな」ということを感じたり考えたりする。そのときに、「あ、前と変わったな」と気づく。それはなんで気づいたかというと、「また、きたな」と思ったからなんですよね(笑)。
若尾 (笑)。
細馬 「また、きたな」という感覚と「あ、ちょっとちがうな」という感覚は裏表なんじゃないかと思うんです。便宜上、それをいまのところ「反復」もしくは「繰り返し」と呼んでますが、もうちょっと丁寧にいうと、「比較のための枠組み」というべきかもしれない。
さきほど出た『馬方と山姥』でいうと、山姥が馬方に追いついてきたというのが、「またきたな」感を生むきっかけになる。いわば比較のための参照構造になっているわけです。で、「この2つは比較しなくちゃならない」と思って、さっきは足を食ったけど、次も足かな、とか、お、今度は木に登るのか、といった差異に気づく。そのちがいをわからせるための構造になっている。
若尾 そうですね。レヴィ=ストロースがちょっとちがうかたちで、神話にむすびつけてラヴェルの《ボレロ》のことをいってますね。《ボレロ》はずっと同じメロディの反復ですが、だんだん楽器が足されていきます。ハーモニーも、同じ和音ではあるんですが、楽器が増えるとともに新たな響きが増えていく。『神話論理』という彼の本では、神話というものがまさにそういうものだというんですね。同じ語りの反復をずっとやっていくものだと。そして、ラヴェルの《ボレロ》はたしかにいい方法なんだけど、ずっと続けていくには限界があると。永久に続くだけですからね。そこでレヴィ=ストロースは、ラヴェルはいい方法を考えたというんです。いちばん最後の、これ以上ピークはつくれないという頂点のところで、一瞬、調が変わるんです。
細馬 そうですね。
若尾 長3度上にいくのかな。そして、ポンっともどったところで、いきなりバスッと終わる。じつにこれは神話的テクノロジーで、すばらしいと、レヴィ=ストロースはいっています。昔々われらの先祖があれやりましたこれやりましたという反復がえんえんと繰り返されて、最後に、神様が出てきてすべてを台なしにするみたいな、カタストロフィ的な究極の解決が最後にドスンとくる、という感じで比較しています。たしかに、あの曲はそうでもしないかぎり、終わらせようがないですよね。
細馬 そうですね。
若尾 達人だなあ、と思いますけど、それをそういうふうに読み解くレヴィ=ストロースもおかしなひとだなあとは思いますけど(笑)。
細馬 たしかに最後の転調は、とつぜんきますよね。
若尾 はい、あれがないと終われないですから、物語の終わりの瞬間の演出としては、よく思いついたなと。
音楽の終わらせ方
細馬 物語を終わらせるやり方はいくつかあると思うんですけど、ラヴェルの《ボレロ》は、物語の終わり方のひとつではありますね。おもしろい問題だな。《音遊びの会》をやっていても、それはいつも気になるんですよね。みんな、いいアンサンブルをつくっていくんだけど、「これ、いつ終わるんだろう?」というのが、けっこうむずかしい。
若尾 そうですよね。でも、彼らのおもしろさは、そういう意識をもたないところだともいえますけどね。
細馬 そうなんですよね。だから、「これはこうやって終わる」みたいなことを、いちいち決めておかなくたっていいじゃん、というところが楽しいわけでね。
若尾 おとなは心配して、ラヴェルのようにうまい着地の仕方を考えるんでしょうけど、そんな心配は彼ら、してませんからね。
細馬 だいたい、現場で終わるときというのは、ラヴェル風に仕組んで終わるんじゃなくて、「あ、いまちょっと息吸ったね」とか、「音が途絶えたね」「テンションが切れたね」「表情が変わった」ぐらいの瞬間をつかまえて終わってますね。
若尾 それはみんなが共有しながら?
細馬 無理矢理寸断してるときもあるでしょうね(笑)。みんなが聞き合ってるときは、誰かがテンション切れると、「あ……」ってなるんですよ。そこをつかまえて、誰かが毅然と終わらせる。
若尾 なるほど。お祭りで、みんなでわいわいやってるときも、「まあ、こんなもんかな」という空気がでて、じょじょに終わっていくのと近い感じがありますかね。
細馬 残念ながら生音楽にはフェイドアウトというものがないですからね。ツマミがない以上、その場のなにかをとらえるしかないんです。
フェイドアウトというものを発明したひとは、そうとうすごいと思いますね。登場したときは、こんな終わらせ方あるんだ、とおどろいたと思いますよ。
若尾 フェイドアウトが登場した最初のアルバムはなんなんでしょうね? 細馬先生なら知ってそうだな。
細馬 いや、ぼく知らないですね。大瀧詠一さんはご存知だったのかな。気になりますね。いったん録音するという、つまり、生録音をそのままつかうんじゃなくて、録音されたものをさらに加工する過程がある時代じゃないと、思いつきにくいのではないかな。あるいは、加工をしない段階だと、マイクの入力を落としちゃうしかないですよね。ほんとうに誰が考えたんですかね(笑)。
若尾 誰だったか忘れましたが、フェイドアウトのやり方のあじわいみたいなことを書いてましたね。マスターフェーダーをしぼっていくときの緊張感がどうのこうの、みたいな(笑)。
細馬 フェーダーをさわったことがあるひとは、いろんな実感があるんでしょうね。でも、一般のひとにとってフェーダーってなんなんだろう? というのはけっこうおもしろいテーマかもしれません。つまり、ひとりのひとだけの声や音を落としていくんじゃなくて、演奏に参加している複数のひとびとが全員均等に音を落としていくわけですが、そんなことは現実にはありえないことですからね。
若尾 ディミヌエンドで終わっていく音楽は、クラシックにはたくさんありますよね。チャイコフスキーの《悲愴交響曲》の4楽章の終わりとか。はじまりはどのへんなのかなあ。
細馬 音楽で隊列とか軍楽隊なんかが遠ざかるイメージをシミュレーションする、というのが、ディミヌエンドで終わるという方法論の発生に関係ないですかね。音楽が遠ざかっていく描写。
若尾 なるほど。
細馬 べつに隊列じゃなくてもいいですけど、なんらかの音源が遠ざかっていくというね。一個一個の動物が遠ざかっていくことはありますけど、音楽がまとまって遠ざかる現象って、現実的にはなんだ? と考えると、やはり音楽隊が遠くにいくまでずっと音楽が鳴らしている状況かなあと思ったり。
若尾 軍楽隊が起源というのはありそうですね。ふつうの旅のミュージシャンがどこかからやってきて音楽をやる場合は、お金をもらわないといけないから、立ち止まってやらないといけませんからね(笑)。
細馬 (笑)あと、物語が終わるヴァリエーションというか、ぼくらが現実に遭遇する物語の終わりってなんだろう? ということも思ったりしますね。でも、フェイドアウトの昔話ってないですよね(笑)。「とっぴんぱらりのぶ」といわないとダメでしょう。語り手がしょぼしょぼしょぼと退席していくというのは、聞いたことがないですもんね。
若尾 ほんとうかどうか知らないんですけど、長いお話をする男の話がありましたね。ある村でその男が話をはじめるんですけど、みんな寝ちゃうんですね。だから、誰ひとりとしてエンドまで聞いたことがない、という、そんな話なんですが。
細馬 ああ、なるほど、聞き手がフェイドアウトするわけですね。
はじめの、音楽と感情の話と結びつけますと、もし音楽がある種の感情をかきたてるものだとすると、終わりというのは、そこからふだんの感情に着地することがおこるわけですよね。そのさいに、劇的にモードをぱきんと切り替えるのか、音楽がなごっているんだけどだんだんと現実にもどっていくのか、そこいらのちがいはあるかもしれませんね。
若尾 やはり、ロマン派の時代の大きな曲って、コーダ[主題とは別に、独立してつくられた終結部分]がものすごく構造を複雑化させますよね。あれって、ディープに物語を語っちゃったから、もどってくる行為を念入りにやらないと、みんな困っちゃうところがあるんでしょうね。
細馬 術を解くときの手管がだんだん複雑化していって、「今回はとても複雑な魔法をかけたので、術を解く呪文もけっこう長いです」みたいなね。
若尾 ベートーヴェンなんかは複雑なやり方でナラティヴをつかっちゃったから、ここまで連れてきたからには時間かけてもどさないとな、みたいな。
細馬 ベートーヴェンはそのつもりだったんでしょうけど、聞いてるほうはそこまで念入りにもどさなくても終わった気がするように思うんですけどね(笑)。
若尾 そういうのもありますね。ちょっとくどいな、って。逆に、「え、ここで終わり?」みたいなのもありますけど。それを逆用するひともいますね。
細馬 ジャズ評論家のいソノてルヲさんだったと思うんですけど、昔ラジオのFM放送で「デキシーランド・ジャズはいいですね。枝がぽっきり折れるように終わりますから」といっていたのをすごく覚えていて、「枝がぽっきり」というのはいい表現だなあと思って。
若尾 なるほど。
細馬 どんなに盛り上がっていても、最後はぱっと終わりますからね。ハイハットがチチーッといえば終わりになる。あの余韻を残さない終わり方もおもしろいですよね。
若尾 たしかに。レニー・トリスターノの終わり方もそういうところがありますね。
細馬 ああ、そうですか。
若尾 調子よく弾いてたかと思ったら、とつぜん終わるんですよね。
細馬 置いてきぼりをくらう感じですかね。
若尾 そうなんです。ずっと切り替えのない物語みたいな、途切れないアドリブを弾いてるんですが、それがとつぜん終わりますからね。
あとコーダといえば、アメリカのアラン・ホヴァネスという作曲家のひとの話がありますね。このひとが弟子からコーダのつくり方の質問をうけたんですね。そのときの答えが、「まず、終わろうと思うところから(コーダを)少し長めに書いておく。で、目をつぶって、スコアのてきとうなところに縦線を引けばよろしい」だったそうです(笑)。
細馬 (笑)
若尾 終わるのはどこでもよくて、意外感があるほうがよい、ということですよね。で、ホヴァネスの曲を聞いてみると、みんなそうなってるんです(笑)。
細馬 自分でもちゃんとやってるんですね。
若尾 極意を伝えたようです(笑)。
(終)
細馬宏通(ほそま・ひろみち)
滋賀県立大学人間文化学部教授。専門は会話とジェスチャーの分析、19世紀以降の視聴覚メディア研究ほか。著書に『浅草十二階』『絵はがきの時代』(ともに青土社)、『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか』(新潮社)、『今日の『あまちゃん』から』(河出書房新社)、『うたのしくみ』(ぴあ)など。バンド「かえる目」として3枚のアルバムをリリースするミュージシャンでもある。http://12kai.com/uta/ (参考音源をきくことができます)
若尾裕(わかお・ゆう)
1948年、東京生まれの大阪育ち。現在は京都在住。1976年、東京芸術大学大学院音楽研究科作曲専攻修了。広島大学教育学部教授、神戸大学大学院発達科学研究科教授を経て、現在、広島大学名誉教授及び神戸大学名誉特任教授。専門は臨床音楽学。演奏活動もおこなう(ピアノによる即興演奏など)。近年の新しい音楽活動としては三日間連続でおこなう音楽イベント、「即興の部屋」および「F#の部屋」がある。
著書に、『モア・ザン・ミュージック』(勁草書房)、『子どものための音楽療法ハンドブック』(音楽之友社)、『音楽療法のための即興演奏ハンドブック』(音楽之友社)、『奏でることの力』(春秋社)、『音楽療法を考える』(音楽之友社)、ほか。おもな訳書・共訳書に、マリー・シェーファー『世界の調律』(平凡社)、『サウンド・エデュケーション』(春秋社)、ビリー・バーグマンほか『実験的ポップ・ミュージックの軌跡』(勁草書房)、ポーリン・オリヴェロス『ソニック・メディテーション』(新水社)、マーティン・クレイトンほか『音楽のカルチュラル・スタディーズ』(アルテス・パブリッシング)、ポール・ヘガティ『ノイズ / ミュージック──歴史・方法・思想:ルッソロからゼロ年代まで』、スティーヴン・ナハマノヴィッチ『フリープレイ──人生と芸術におけるインプロヴィゼーション』(フィルムアート社)ほか。
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