対談 杉本拓×細馬宏通

サボテン
しゃぼてん通信
2018年8月9日更新


●対談 杉本拓×細馬宏通
音楽と音楽じゃないもののあいだ

杉本拓『楽譜と解説』の刊行を記念しての対談です。お相手は、「しゃぼてん通信 第1号」に引きつづき、細馬宏通さんです。
対談中にも触れられますが、杉本さんは音楽を情動喚起のツールとしては考えておられないし、細馬さんもまたその作曲においては、一見ポップスのフォーマットを用いつつも、そこに起こる情動は、一般的な音楽のそれとはかなり異なるものといえます。そんな共通点を理由に、おふたりに話していただきました。



──『楽譜と解説』はいわば杉本さんの作曲をめぐる試行錯誤を、考え方としてではなく実践の結果として提示しているといえると思うんですね。いっぽう細馬さんも作曲をするわけですが、細馬さんは一般的ないい歌を書こうとしているわけではないですよね。
杉本 そんなこといっていいの?
細馬 にゃー。
──いや、もちろんいい歌を書かれているんですけど(笑)、いわゆるたんにいい歌をめざしているようには思えないんですね。聴いていると、ふだんとは違うところを刺激されるといいますか。そんなこともあって、今回の対談をお願いした次第なのですが。
細馬 これは、予想外にまじめな対談を希望されている?
杉本 作曲論なんてあるかなあ。
細馬 いや、これだけ書いておいて、ないとはいえないでしょう。
杉本 そのつど変わるからなあ。チャンス・オペレーションにかんしては、細かいところをいちいち考えるのがめんどくさいから、まずやってみる、まずサイコロを振ってみる、ということですよね。サイコロはたとえですけど。それで全体像をみて、ちょっと最初の予定と違うなあと思ったら(笑)、音符とその配置をいじってみる。
──平気でいじっちゃうんですね。
杉本 いじるいじる。
──音の連接にかんしては、サイコロを振って出たものが絶対だ、という考えかたもありますよね。
杉本 たとえば弦楽四重奏なんかで、つねに音が鳴っている曲を考えるとしますよね。そういうときは音の密度が高まるように準備するんだけど、どうしても偶然だから、理想じゃない配置、つまり音がない、ということになるときがあるわけ。そういうときは、「ここ変えちゃお」となりますね。
細馬 僕はこの本をチャンス・オペレーションの理論書としては読んでないんだけど、単純に「なんじゃこりゃー」と思ったのが、「わたしはインターネット麻雀『東風荘』にはまり……」という、麻雀でチャンス・オペレーションをやる話があるでしょう? でも読者はたぶん、麻雀を作曲に活用する必然性みたいなものは、まったく理解できないと思うんですよね(笑)。
杉本 いってみれば免罪符ですから。
細馬 これこそ人生のチャンス・オペレーションだと思いましたけど。
杉本 (笑)
細馬 ふつうチャンス・オペレーションというとき、基本的には作曲という枠組みをつくるわけじゃないですか? 演奏できる音に変換できる場を設定したうえで、易を使ったりサイコロを振るとかするわけですよね。そんななかでね、麻雀の「順位」を使ってるってケージが聞いたら、驚くでしょう、これは。
杉本 (笑)
細馬 一般的なイメージとしては、もっと抽象度の高い、いわゆる数学に類する手続きがとられるのだけれど、麻雀を使った時点でこれは、ケージのチャンス・オペレーションより規模がデカいと感じました(笑)。
杉本 だって、あの曲は決めることが少ないからね。4/4拍子で、何拍目を打つかを決めるだけだから。それに麻雀はゲームで、実力というものがどうしても出るから、正確にはチャンスではないんですけどね。
細馬 その曲の背後に麻雀があるなんて、誰もわからないからなあ。これは聴いている人は知らないわけでしょう?
杉本 もちろん。
──そういう、作品のキャプションみたいなものって、聴き手に伝えたいものなんですか? 美術館の説明みたいに。
杉本 うーん、終わったあと、飲んだりしたら言いたくなるかもしれない。
細馬 ある曲を、最初に「これは麻雀の順位でつくったんですよ」と聞かされるのと、まず、よくわからないものとして聴いたあとにそれを教えられるのとでは、えらい違いですよね。
杉本 そもそも、最初に出た音が何拍目かすらわからないですからね。
細馬 ドラマーがカウントすればわかるけどね(笑)。まあそれだけが理由じゃないけど、杉本さんの曲は、聴いたあとに、「あのときあの音が」みたいに思い出せる構造にはなってないですよね。
杉本 無理でしょう。
細馬 音楽における時間を数字として表されたりすると、「え? そういうことだったの」って思っちゃいますね。
杉本 数字?
細馬 たとえば「これは1分おきに1音が鳴る音楽です」といわれて聞きはじめたとしても、僕らはいつも頭のなかで1分のクリックが鳴っていて、それを参照して「たしかに1分に1音が鳴っている」と思うことはないですよね。逆に鳴らされたことによって「あ、これで1分なんだ」と思ったり、さっきと今とでは、同じ1分間隔には思えない場合もあると思うんですね。少なくとも人間の時間感覚は変化していくから。つまり、1分に1回鳴るルールでできた30分の音楽があって、そこに記されている指示自体は等質だとしても、聞いている身としては、等質な経験にはならない。
杉本 歳をとるごとにピッチが早くなってたりね(笑)。子どものころの、1時間弱の授業時間がほんとうに長かったなあと思いだすけど、あれはほんとうに長かったんだろうか。
細馬 いまは10分とか15分はすぐにたちますからね。
杉本 昼かと思ってたらもう夜だから。
細馬 昼も夜も区別がない。区別がないといえば、僕らはそもそも、音色と倍音の区別をあんまりしてないですよね。和音ですら。でも音楽になったとたんにみんな、「これはCメジャー7です」とか言うでしょう。
杉本 それ、「音楽になったとたん」というのは、いつのことなんですか。
細馬 ああ、たとえば僕が学校でよくやるのは、サイントーンを重ねて聴かせることがあるんですね。それはオクターヴでも5度でも何でもいい
んですけど、たとえばオルガンの音色をつくるみたいに倍音を重ねるわけです。
杉本 じゃあ、だんだん音を小さくしていって重ねる?
細馬 そうですね。で、「きみたちはドミソは和音だと思っているよね。じゃあ、いま、ドに小さくした5度のソを重ねて、さらにミも重ねるけど、きみたちはこれがドミソに聞こえますか?」とやるんです。でも学生たちはそれを単音としてしか聞けないわけですね。
杉本 でしょうね。
細馬 和音ではなく、音色として聞いているんです。
杉本 わたしは聞こえますけどね。
細馬 和音に?
杉本 倍音として聞くぞ、と思えば聞ける。鍛えれば第9倍音まではいけるんじゃないかな。弦にもよりますけど、状況が悪くても第7までは確実に聞こえる。
細馬 それね、かなり特殊ですよ(笑)。僕、この本でクレイジーだと思ったのは、ハーモニクスがどこまで弾けるか問題で、第11まではいけると書いてあったの。
杉本 ああ、そうですね。第13まではよく使います。16か17までも状況によっては。ミスることもありますけど。高音弦はむずかしいですね。
細馬 これはおかしいですよ(笑)。ふつうのひとはそこまできわめない。チューニングに使って、あともうちょっと使うくらいで、たいてい3か4までですよ。5も、やるひとはそんないないんじゃないか。
杉本 そうですか。5より7が聞こえるときがありますね。第7倍音のついででいうと、ブルーノートは第7倍音由来だと思ってます。これはわたしだけがいってるわけじゃないと思うけど。
──シのフラットですね。
杉本 そう。じっさい聞こえるし、そもそもブルースって、和声的な音楽ではなくて、旋律的なものだと思うのだけど……マディ・ウォーターズを聴いていると、中世のヨーロッパの音楽に近いと感じます。ブルースを和声的な音楽として考えると……つまり形式的な、テンプレート的なものとして考えると、いろいろと面倒な理論が必要になってくる。でも、旋律的なものとして考えれば、すごく単純です。
細馬 なるほど。まあだから、ひとつの音を鳴らして、そのなかに複数の音があるなあというのはひとつのセンスなんだけど、それらの音をそれぞれ取り出して使ってみるというのは、また別のセンスに思えるなあ。
杉本 わたしは、その聞こえた音を使うしか、音楽は始まらないと思うんですよね。鳴ってない、つまり聞いたことのない音を表現することはできないんじゃないかと。
細馬 言い換えると、音色と和声と旋法の境目って何だろうなあということだとも思うんですけど、そんなことは急にここで結論を出せる話ではありませんしね。でも人間ってそもそも、変な倍音が鳴ってたら、「ハッ」となるとは思うんですよね。
杉本 それはある。
細馬 「あいうえお」がそうですよね。「あいうえお」って、基本の第1フォルマントがあったうえで、そこにそれぞれ違う倍音(第2フォルマント)がどう乗るかによって、「あ」と「い」と「う」と「え」と「お」が峻別されているわけですよね。これはかなりヘンテコなことをしていると思うんですよ。たぶん、人間には、変な倍音に反応する能力がそもそもあって、それが音韻に反映されてるんだと思います。

*****

細馬 にしても、杉本さんはなんで音律とかに興味があるんですか。
杉本 やっぱり反抗心ですかね。
細馬 ほう。
──それは意外な。
杉本 メジャー、マイナー以外のものもあるぞ、ということですよね。たとえば、ラから白鍵だけで1オクターヴ上のラまでをひとつの音階としても、コード進行がなければまったくマイナーに聞こえないこともあるわけですよね。そういうのがおもしろくなってきたんですね。つまり、コード進行というものそれ自体が、すごく縛りとしてきつく感じるんです。
細馬 ポップミュージックの世界では、コード進行は完全に支配的ですからね。
杉本 だから「さりとて」はいわゆるコード(進行)はないんですよね。対位法的というか。まあ、リスナーとしてはときにはポップスも聴きますけど、いまの状況はちょっとね……。以前、韓国行ったときにね、弾き語りが5メートルおきぐらいに集まっている道があったんですけど、ぜんぶ同じなんですよね(笑)。
細馬 やっぱりコードはアヘンですかね。「コードは文化におけるアヘンである」って、誰か言ってないかな(笑)。あれにおかされると、みなギターをもつとまずコードを押さえてしまうし、「そのコード進行いいね」みたいな思考になってしまう、みたいな。かくいうわたしも、バンドの曲をつくるときは、歌詞とコード進行だけで書くのですが……。
杉本 いや、もちろんそこが出発点でも、いくらでもおもしろいことはできると思いますけどね。ポップスで何かやれるとしたら、やっぱり言葉との関係じゃないですかね。アクセントとか、言葉によってビートが決まるとか……あ、細馬さんの『うたのしくみ』みたいになってきましたね。
細馬 なんというかな、コード進行というのはそうとうエントロピーが低い。
杉本 エントロピーが低い(笑)。
細馬 でたらめから遠い。そして次になる音の可能性が限られる。
杉本 そもそもコードなんて、さほど昔のことではないでしょう?
細馬 こんなにひどくなったのは、ここ数百年でしょうね。
杉本 バロック音楽の記号みたいなのはあったけど、ぐっと加速してしまったのは、やはりジャズが出てからですかね。
細馬 モードが出てからはまたちょっと違う方向ですけどね。
杉本 にしても、音楽を聞いて、コードがとれるというのは、どういうことなんですかね。たまにわからないこともあるんだけど。
細馬 ポップスだと、オルタナティヴな候補がいくつか考えられる場合もあるけど、まあ絞り込めますね。でもたとえば、杉本さんの曲を聞いて、「さあ杉本さんの曲をコードに起こすぞ」となると(笑)、これはほぼ不可能でしょう。
──どこから取りかかればいいんですかね。
細馬 コードネームやメロディというのは、訓練をすれば、楽器を使わなくても聞いているだけで、それこそ腕組みをしたまま書き写せますよね。でも、杉本さんの曲を腕組みしたまま、「4! 4! 2! 0!」とか言えるひとはなかなかいない(笑)。
杉本 まずその必要性はまったくないでしょう(笑)。
──まず、素材となっている音のチューニングを探らないといけないですね。
細馬 そこからですね。
杉本 それはできるかもね。
細馬 にしても、やってどうなる? とも(笑)。
杉本 そういえば昔、即興演奏したやつを完コピして送ってきたひと、いました。外国ですけど、変わったひとがいるもんだなあと。
細馬 楽器屋さんや本屋さんの音楽のコーナーにいくと、山ほどポップスの楽譜が売ってますよね。ポップスでは、音楽と楽譜のあいだには対応関係がつけられるっていう暗黙の了解が存在しているわけです。もちろん、音楽のすべての要素を書き写すのは無理だから、採譜するさいに、鳴っている音のどこに注目するかということについても暗黙の了解がある。逆に言えば、どういう記譜法を使っているかによって、そのポップスの性質がわかる。いまのポップスは「メロディはとりあえずおたまじゃくしで五線に乗せて、ニュアンスは各自の判断で」「コードをふることができる」とか、そういう記譜法。でも、いわゆるポップス音楽を作るんでなければ、もっといろんな可能性があるはずです。あるときはそれが微分音をもふくむ音程だったり、あるときは音の密度かもしれない。
杉本 でもじっさい、そんなこと考えませんよね?
細馬 少なくとも聴き手は譜面にしてやろうと思って聴いてはいないと思いますよ(笑)。
杉本 どんな譜面なんだろうとは思うかもしれませんね。
細馬 たとえば、「この曲はあとどのくらい続くんだろうか?」とか、「次の音はいつ出るのだろう?」とか、「次の音が出るとして、それはどんな音色だろう?」とか、予測はすると思います。「さっき音が出て、もう1分たった。そろそろ次がくるんじゃないか?」とか。
杉本 そういう曲、やってませんから(笑)。
細馬 「予測したけど、ぜんぶハズレた」みたいなのを楽しむ音楽もあっていいんじゃないか。
──予測するためには原理を知ることが必要でしょうか。『楽譜と解説』の「aka to ao」の章に、《1、2、3、5、□》の空欄には何がくるだろう? という話がありますよね。それはここでのルールがフィボナッチ数列であれば「8」だが、「1とその数以外で割り切れない自然数」(素数に1を加えたもの)5番目の数であれば「7」になる、などなど。そういう話に近いのかしら。
細馬 これを音楽にたとえると、まず「1」が何なのかを認知しないといけませんよね。そしてさらには、1の音と、1の次に鳴った音とのあいだに何らかの(音楽的な)規則を見出さないといけない。
杉本 1を音楽で表現することは可能なんだろうか。
細馬 ルールを決めれば、ね。
──この場合は、なんらかの連接した音が、それぞれ1や2と対応していればいい、という意味ですよね? 具体的に「1っぽい」音という意味ではなく。
杉本 それはそうだけど、こっちの話で引っ張ると、たとえばモールス信号は言語ですよね。だから、ルールを知っていれば、音が何かとひもづけられますよね。
細馬 モールス信号として聞ければね。
杉本 音楽として聞くひとと、言葉として聞くひとがいる。
細馬 「トントンツー」という音列を聞くと、頭のなかで「う」という言語に変換するわけですね。谷崎の『盲目物語』だったかな、三味線のある音列に「いろは」の音をあてるのを利用して、音だけでメッセージを伝えるというエピソードがありましたね。
杉本 トーキング・ドラムみたいなものですね。
──それは双方が理解できる記号になっていたということですね。
細馬 そうですね、音楽が特定の状況で言語になる例です。だから、音によって喚起されることが絞りこまれていればいるほど、記号性が高いわけですね。ただ、そういう記号性の高い音楽からは、他の音楽的要素がこぼれ落ちちゃうので、むずかしいところですね。コードネームがあんなにみんなにわかっちゃうということは、僕らはもはや音楽を聞いているのではなくて、記号を聞いているともいえますよね。
杉本 私は細馬さんほど音感はありませんが、そうですね、その通りだと思います。まあ、音感がないからこそこういう変な音楽が抵抗なくできるのだと思いますが。
細馬 ただ、その記号の列が、思いがけない展開になったりすると、「お、そうきたか」となる。そうそう、ポップスの歌本みたいなものがあるでしょう? コードも振ってあるやつ。僕は中学生のころにそういうのを見ていて、知らないコード進行があると、「これ見たことない!」って興奮してましたからね。曲を知らなくてもね(笑)。モンクの曲のコード進行を知ったときも驚きましたね。
──とりあえず12のキーぜんぶ使いますよね。メジャー/マイナー併用もあるから12以上か。
杉本 わたしは《ちょうちょう》にぜんぜん関係ないコードを振ったりしてますね。
──いわゆるリハモ的なものではないんですよね。
杉本 そうそう、そういう正解的なもんじゃない。不思議に合ってるように思えてくるんですよね。
──やはりそこは反抗心?
杉本 ですねえ。
細馬 僕らが音楽体験と思っているのは、けっこうな割合で記号体験でしかないなかで、反対に杉本さんの音楽というのは、一見数式やルールなんかにこだわっているように見えながら、出てきた音楽は記号やルールをすべりこませないものになっているというのは、ひじょうにおもしろい話ですよね。
──それはまさに本質ですね。情動の喚起というかやりとりを拒絶した音楽。で、いまの話は音楽が記号になってしまうものですが、この本には、音楽ではないものが音楽になってしまう話もありました。
杉本 そうそう、本には書いてないんですが、スケートリンクを掃除している音を録ったCDがあって、それがけっこうおもしろいんですよね。
細馬 掃除って?
杉本 車に乗って走るやつです。もちろんそのひとは音楽をやってるつもりはないんですけど、いいんですよね。
細馬 シャーシャーって。
杉本 でもじつはその音を気持ちいいと思っている可能性はありますよね。そうすると、音楽と音楽じゃないものの違いってどこにあるんだ? と考えてしまいますね。
──それは音楽CDとして売られている?
杉本 そう。それを聞かせてくれたひとは、こんどその音をギターでコピーするって言ってましたよ(笑)。まあそれはいいとして、本にも書きましたけど、トランペットの音かと思ったら工事現場だったりとかって、けっこうあると思うんですよね。
細馬 物音って、素材の長さや重さによってピッチが変わるけど、素材が均質だと音色も一定だから、思いがけずメロディアスに聞こえることがあるんですよね。地下鉄の車両がきしむ音なんて、かなりパターンがありますね。銀座線で記憶しているメロディがあって、それがトッド・ラングレンの《コールド・モーニング・ライト》のイントロと同じだなあって、いつも思うんですよ。
杉本 銀座線、どのあたりですか?(笑)
細馬 渋谷あたりでも鳴ってるし、浅草でも鳴りますね。
杉本 (笑)。それは細馬さんにとっては音楽として聞こえるわけですよね?
細馬 一瞬聞こえますね。ちょうどカクテルパーティーで特定の会話だけが耳につくのと同じように、僕らは日常生活のなかで、音楽キャプチャーというか音色キャプチャーみたいなものを働かせることがあると思うんです。いまこの喫茶店のなかで聞こえるガヤガヤのなかから、ポップアップしてくる音ってあるじゃないですか? 気になるうわさ話とか。でも、たとえば、いま厨房のひとが、皿を洗うと見せかけて、皿でもって杉本拓の曲を演奏しはじめたとしたら、僕らはそれに気づくだろうか。
杉本 論理的にはありえない話ではないですよね(笑)。
細馬 「あ、俺の曲を誰が!?」って。
杉本 昔、似たようなことがありましたね。友だちの家に遊びにいったら、わたしの《プリンキピア・スギマティカ》という曲がかかっていて、「あ、かけてくれてるんだ」と思ったんですが、よく聴いたらただのパソコンのクリック音でした。

(終)




細馬宏通(ほそま ひろみち)
1960年生まれ。京都大学大学院理学研究科博士課程修了(動物学)。現在、滋賀県立大学人間文化学部教授。ことばと身体動作の時間構造、視聴覚メディア史を研究している。バンド「かえる目」でも活動。著書に『介護するからだ』(医学書院)、『二つの「この世界の片隅に」』『浅草十二階』『絵はがきの時代』(青土社)、『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか』(新潮社)、『うたのしくみ』(ぴあ)などがある。

杉本拓(すぎもと たく)
ギタリスト/即興演奏家/作曲家。1965年12月20日、東京生まれ。音楽は独学。1980年代中ごろから90年代初頭にかけて、東京のアンダーグラウンド・ロックシーンにおいて、おもにギタリストとして活動。その後、即興演奏に関心をもち、国内外の即興演奏家と共演をかさねる。2000年以降は作曲をメインに活動。作曲家としての現在の関心領域は、微分音、単旋律、パーカッションや身のまわりにある物体(ノイズ)、声、歌など、多岐にわたる。作品のいくつかは演奏においてかならずしも専門的な技巧を必要としないが、高い集中力を必要とする。ワークショップにも積極的に取り組んでいる。



トップにもどる