工藤冬里 しゃぼてん通信 第2号
しゃぼてん通信
2018年8月9日更新
工藤冬里
ピアノレッスン
──教則本のいうとおり、左手でルート音を弾いてはいけないのでしょうか? モンクのように左手小指がルート、親指が7度だと、テンションは右手にまかせたりと初心者としては楽なのですが、ああもダメと書かれるとうしろめたいです。
左手小指でルートを押さえるくせがついてしまうと、モダン・ジャズには移行できなくなります。ジャズだと左手小指は5か7を多用します。コルトレーンなどの4度5度主体のアドリブでは、Cなら「ミ・ラ・レ」「ソ・ド・ファ」「シ・ミ・ラ」「レ・ソ・ド」などを押さえます。
ルートはベースが押さえるのでピアノでも押さえるのは野暮だ、ということに尽きると思います。でも、おっしゃるとおりソロなら押さえていいと思います。エリントン、モンク、マルの流れはルート押さえ派です。
要は誰にたいして謝るかです。奴隷が世を主人としているのか、イエスの奴隷として自由平等の新世界を宣言できるのか、そこがブルースの分かれ道でしたが、10月革命は神を自分と言い換えて巧妙に世に取り込みました。そこからジャズの真の地獄が始まったのです。
人間の哲学に巻き込まれた黒人にとってそれは、土着への回帰の道が閉ざされてしまうことを意味しました。だからその後のフリージャズは白人がになった。
哲学的な問題がジャズに与えた影響は、世にあるフレーズを「わざと」使うという逃げ道に、クリシェという語が採用されていることからもわかります。この「わざと」という態度は見せ物としてのジャズにフィットしていましたが、容易にミイラ取りがミイラになる危険を孕んでいました。ユダヤ人が顔を黒く塗ってジャズを演奏するといった事態に、ジャズが最初から孕んでいた汎黒人音楽的な要素がみてとれます。征服することと取り込まれることが典型的な脱─再領土化のリゾームをかたちづくっています。クリシェの問題を考え抜いたのはレイシーでしょう。
──完コピをしたり、楽譜を覚えても、クラシック同様、応用が効くとは思えないのですが。
とはいえ、ジャズは一曲完コピしか上達の方法はありません。わたしが中学生のときに習っていたジャズの先生は、バド・パウエルを耳コピさせる人でした。市販の楽譜ですと、モンクやマル・ウォルドロンを忠実に聴き取ったものはだいたいためになりました。エロル・ガーナーは左利きらしく、左手がなかなか真似できませんでした。ラグタイムのスコアやエリントンの上級者向けのスコアなども、左手の跳躍の練習にはいいです。
クラシックですと、ショパンを1小節ずつ制覇していくとか、またドビュッシーやモンポウの鐘っぽいものとかは、モダンな和声の元になっているのでためになると思います。
独学でやるなら、10本の指を適当に美しいと思う形に鍵盤に置き、チャンス・オペレーションで和音を出し、それをすくいながら修正してカクテルの調合のように辻褄を合わせていくという即興演奏がいちばんリアルな自分の音になると思います。
──ソロはどのように考えるのでしょうか。
なるべく遠い音を考えて自分でスケールをつくります。たとえばCだったらF♯をぶつけるなど。また、AとAmの違いは3度のドにあるわけですから、Aにとってもっとも異質な音はナチュラルのド、Amにとってもっとも異質な音はド♯ということになります。しかし、違いではなく共通しているルートや5度に注目すると、双方にとっていちばん遠い音はテンションで表されるでしょう。近さと遠さの順位を付ける作業に決まったアルゴリズムがあるわけではありません。ただ異質さと遠さは、似ているようで違うものだということです。遠いけれど生々しい、近さのうちに沈んでいく。恋愛とか、ひも理論のようなものだと思います。
また、押さえてみて恥と思ったら反省し、なかったことにして橋渡しの一音として半音ずらします。ジャズは含羞の文化でありましょう。ジャズは、黒人が社会との距離をどう取るかというせっぱつまった自由意思による運動神経の表現であるはずでしたが、ショパンの世に溺れることも多く、そこをアドルノに突かれたのです。
──たとえば《ラウンド・ミッドナイト》の最初のAm7(♭5)のところはAロクリアンでしょうが、まず、次のⅡ─ⅤのDのフリジアンと解釈するのかどうかがわかりませんし、ロクリアンでも、とっさには出ませんので脳内で「短2度(B♭)のダイアトニック」に変換してから弾かざるをえません。ですが3小節目のGm7(♭5)ではロクリアンではどうも合わないので、Gロクリアン♯2かなと考えます。そうすると、それはさらにとっさに出ませんし、たとえ同じでも短3度上のメロディック・マイナーも出にくく、いちばんかんたんなのはAのオルタードなのですが、ここでこの長2度のオルタードを弾いてよいという法則がほかの曲でどう応用できるかがわかりません。答えはもっとシンプルで、すべてダイアトニックで対応させようとしているところに問題がある気がするのですが、やはりこんなやり方だといずれ限界がくるのでしょうか?
《ラウンド・ミッドナイト》の要というか肝は、メジャーとマイナーが気分によって変わるところです。それはモンクが最後にE♭mをE♭で終わらせるどころか、Gのようなところまで引っ張ってどこかへ行ってしまうやり方から来ています。それ以来、黒鍵を主体に、たまに白でCとかDとかGを混ぜるやり方が、E♭mの醍醐味となっています。
その複雑さはどう転んでもいいようなものなので、弾いてしまってから辻褄を合わせるやり方で十分やっていけます。「咲いた咲いた」とかを弾いてもやっていけます。その落差が、ラ・デュッセルドルフ的な「わざとナチ感」を醸し出し、構造的にヨーロッパを炙り出すのです。
イントロはそのときどきで好きに弾けばいいのではないでしょうか。要はBm7─E─B♭m7─E♭という半音のずらしが反映されていればいいのです。その場のコードをどこでもいいから押さえて弾いて、そこからE♭mに持っていけばよくて、4度ずらしをずっと続ければいつかはE♭に行きつきます。モンクはE♭に行きついたあともさらに下りたりしながら、エンディングの明るさのことまで視野に入れようとしています。夜に青いダイオードの光は睡眠を促す脳内ホルモンのメラトニンの生成を阻むのでよくないのです。メジャーコードは必須アミノ酸であるトリプトファンの役割を果たします。これは昼の光で神経伝達物質セロトニンを作ります。セロトニンはそのままだと眠くならない働きをしますが、太陽光のなくなる夜になると今度はメラトニンを作ります。炎の光はそれほどメラトニンの生成を阻害しません。PC画面を暖色にするのはそのためです。
モンクはセロニアスだけに、セロトニンの人なのです。
──あるフレーズをみるときに、その小節にあてられたコードのトーンとして考えるのか、曲全体のキーから考えるのかがわかりません。
ジャズでは7thとメジャー7thだけは間違うと星がひとつ爆発してしまうくらいの大変な失敗になってしまい、取り返しがつきません。それはまさに罪です。ところがフラメンコではそれがあまり問題になりません。I─V─IVが緩いからです。
まず元の歌謡のメロディがあります。それを自分で弾くときに、そのまま弾けばいいと思うか、半音ずらしたくなるかの衝動を確認します。ずらし方の癖があると自己分析できたら、それが核となる自分の手癖のような性向、遺伝子によらない遺伝(エピジェネティクス)、ユダヤ音楽ではジュヌスと呼ばれるものです。今はヤマハによって万人に拡大されてしまったその個人のジュヌスが共同体に及ぼす範囲によって、合奏の規模が決まってきます。それは個人の幸福とは関係ありません。幸福になりたいなら、自分のジュヌスを見つけることです。できうるならば、それを誰かと共有できたら、小さなライブハウスで集まればいいのです。同じずらし方をする人々の集まりが民族といっていいのかもしれません。あたらしい部族の試みがヒッピー由来の今のネットかもしれません。
半音の手癖が確認できたら、全音以上の隔たりに挑戦します。次に隔たり同士の繋がりを組織化します。これはパーカー並の頭の良さが求められます。ラップだって口達者な才能のある下層の特権です。それは才能です。
作曲家は数式にして繋がりを導きだそうとします。即興は博打です。モードは苦肉の策でしたが水平にしか拡大しませんでした。
──たとえばオルタードやホールトーンなどは、ジュヌスどころか先人に従わざるをえませんが。
話を戻すと、即興はひとつのコードに対して垂直に立ちます。
一連のコードに対して使うのは「たまにわざとドミソを弾く」モンクのようなメタな立場です。そのクリシェだけがアドルノに対抗する手段で、水平に広がりますが、遅筆の副島種臣の書のような時間でそれをやれば、言葉をわざと先に進ませることになります。そうすると痴呆といってもいい、C言語的といってもいい空白ができます。それは間ではなく、余白でもない、no man’s landです。
ちなみに、ホールトーンは完全に一度づつだと阿保みたいだからどこかでDNAを損傷させる、というのがジャズマンの矜持です。
(終)
工藤冬里(くどう とうり)
ピアノマン。
|