あ行
あかぎへいろく
赤城 平六
天保七年(1836)−明治二十七年(1894)
赤城平六顕彰墓碑。

 明治時代の民権運動家。権利恢復同盟総理。

 天保七年(1836)耶麻郡新合村の肝煎の子として生まれた。明治十一年(1878)喜多方町に民権結社愛身社が結成されるとそれに加入、自由民権運動に身を投じた。なお愛身社は明治十三年(1880)先憂党、翌十四年(1881)自由党会津部と発展している。

 明治十五年(1882)福島県令として三島通庸が就任するが、就任後三島は会津若松を起点とし、日光、新潟、米沢各方面へと向かう会津三方道路の建設を布告した。これは会津地方の15歳から60歳までの男女を2年にわたり月1日人夫として働くか、1日につき男子15銭女子10銭の人夫料を課すというものであり、さらに工事に従事しないものの財産を差し押さえ、競売に掛けるといったものであった。
 国負担で行われるべき土木事業を全て住民への負担で進めようとするこの布告に対し、自由党幹部であり福島県会議員、県会議長の河野広中らは反発、各地で三島を非難する演説会が行われた。結果県議会では否決されたものの、三島は中央に働きかけ内務卿山田顕義から原案執行の特別許可を得、県議会の議決を無効とした。
 三島に対し自由党会津部と近隣の農民も反発し、民意と権利の回復を求めて権利恢復同盟を結成、平六はその総理に就任し不法な工事の中止を求めた。
 しかし三島は反対派を弾圧、強引に工事に着手し、明治十五年(1836)十一月には反対運動の中心人物であった佐治幸平らを逮捕する。対する反対派の農民たちは、佐治らの釈放を求めて耶麻郡塩川の弾正ヶ原に集まり喜多方警察署へと押し掛けたが、警察官は抜刀の上農民たちに切りかかりこれを解散させた。これが自由民権運動の先駆けとされる喜多方事件(弾正ヶ原事件)である。

 この事件を好機と捉えた警察は各村々で民権活動家の逮捕を実行、平六宅にも警察官が押し寄せ44名が逮捕された。平六は国事犯として東京へ送還され、2箇月後には釈放されるもその後も執拗な監視を受け、事業にも失敗し最期は赤貧に陥り生涯を終えたという。
福島県喜多方市熊倉町新合[近代]
あしなもりうじ
蘆名 盛氏
大永元年(1521)−天正八年(1580)
蘆名盛氏墓所。

 戦国時代の武士。陸奥国会津郡の戦国大名蘆名氏16代当主。幼名四郎丸、仮名平四郎。号は止止斎。

 蘆名氏15代盛舜の次男として大永元年(1521)に誕生し、父の隠居に伴い天文十年(1541)家督を相続し会津郡黒川城主となったた。なお盛氏には氏方という兄がいたが、庶子であったため盛氏の誕生後には家臣富田義実の下で養育され、永禄四年(1561)謀叛を企て敗死している。

 家督相続後は、代々抗争を繰り返していた一族をまとめて会津郡北部の勢力を確固たるものとし、西部の山内氏、南部の長沼氏、河原田氏らを勢力化に収め、その版図は会津地方全域から仙道(中通)地方の安積、岩瀬郡や越後国蒲原郡にまで及んだ。永禄四年(1561)嫡男盛興に家督を譲り、剃髪して止止斎と号したが、隠居後も家中の統制を行い戦国大名蘆名氏の最盛期を築き上げた。
 しかし家督を相続した盛興が天正二年(1574)29歳の若さで死去する。盛興には男子がなく、盛氏にもほかに男子がなかったため、人質としていた須賀川城主二階堂盛義の子盛隆に盛興未亡人に娶わせて家督を相続させた。その後も後見人として家中の統制を行っていた盛氏が天正八年(1580)に死去すると、二階堂氏出身の当主盛隆と蘆名氏重臣間の不和が表面化、蘆名氏は徐々に勢力を失って行く。

 その後蘆名氏は、天正十二年(1584)盛隆が黒川城内で寵臣大庭三左衛門に殺害され、生後僅か1箇月で跡を継いだ亀王丸(亀若丸、諱を隆氏とも)も同十四年(1586)に疱瘡で早世するなど、家督相続は混乱が続く。そして翌年常陸国太田城主佐竹氏より当主に迎えられた20代義広が、同十七年(1589)磐梯山麓摺上原合戦で伊達政宗に敗れ、三浦佐原氏の流れを汲む名族蘆名氏は滅亡した。

 会津若松市内の小田山の麓、花見ヶ森御廟に盛氏、盛興、盛隆三代の墓所があり、また小田山公園内には蘆名氏2代光盛から8代詮盛の廟所である寿山廟がある。
福島県会津若松市花見ヶ丘(花見ヶ森御廟)[中世][大名]
あべまさひろ
阿部 正煕
生年不詳−慶応四年(1868)
阿部正煕墓碑。

 江戸時代末期の武士。陸奥国棚倉藩家老。通称内膳。父正脩(秋風)は歌人、俳人として幕末、明治期に活動している。

 慶応四年(1868)に始まった戊辰戦争において、棚倉藩阿部家は奥羽越列藩同盟に参加、家老であった阿部内膳正煕は誠心隊(精神隊とも)率いて白河城下桜町口を守備した。勇士十六人からなる誠心隊は十六人組と称され、西洋軍装ではなく古式の甲冑に身を固めて槍や弓矢で戦い、『仙台烏に十六大角豆(ささげ) なけりゃ官軍高枕』と西軍に恐れられた。なお仙台烏とはゲリラ戦を得意とした仙台藩士細谷十太夫が率いる衝撃隊(通称烏組)であり、十六大角豆とはマメ科の植物で実が16〜18個出来ることから十六人組を指している。

 内膳は奮戦するも白河金勝寺にて被弾し戦死、戦後の明治二年(1869)に棚倉藩の反逆首謀者として新政府に提出され、絶家となった。
福島県白河市向新蔵(常宣寺)[近世][幕末]
いちのせたかとも
一ノ瀬 隆知
天保二年(1831)−慶応四年(1868)
一ノ瀬隆知墓碑。

 江戸時代末期の武士。陸奥国会津藩家老。諱は隆智とも。幼名伝五郎、通称要人。戒名は日大忠院殿武法執威居士。

 天保二年(1831)陸奥国会津藩家老一ノ瀬隆鎮の嫡男として生まれる。

 文久二年(1862)藩主松平容保が京都守護職に就任すると番頭として随行し、元治元年(1864)禁門の変で奮戦し武功を賞された。慶応二年(1866)父の死去に伴い家督を相続、要人を襲名し、若年寄に任ぜられた。
 同四年(1868)戊辰戦争が始まると、家老職に任ぜられ越後口総督に就任、越後国長岡藩家老河井継之助、伊勢国桑名藩雷神隊隊長立見鑑三郎らと共に北越戦線を転戦した。同戦線での戦局が不利になると、撤退戦を続けながら会津藩領へと移動、糧道を確保するため城外での戦闘を続けた。なお隆知は、長岡城攻防戦で重傷を負い、撤退戦の最中に死を悟った河井継之助の自害を思い止まらせ、会津領内まで退避させている。

 越後国より戻った隆知は塩川周辺に布陣し、若松城に籠城する味方の糧道を確保しつつ熊倉合戦では西軍を撃退するなど奮戦する。その後中荒井周辺に展開していた萱野長修と合流、城南の徳久村へと移動するが、ここで西軍との遭遇戦となった。この戦いでは、総督である隆知自らが陣頭で銃を撃ち奮戦、西軍の撃退に成功したものの、激戦の中被弾し重傷を負う。そして桑原の病院で治療を受ける中、藩主容保より会津藩の降伏、若松城開城を告げる親書を受け取り、諦観した様に息を引き取ったという。

 北越戦争で共闘した衝鋒隊副隊長今井信郎、米沢藩軍務参謀甘粕継成らからは惰弱と酷評された隆知であるが、北越、会津戦争で奮戦を続け、会津藩家老職で唯一戦死した人物であった。
福島県会津若松市門田町一ノ堰(光明寺)[近世][幕末]
いとうけい
伊藤 けい
寛永六年(1853)?−明治四年(1871)
伊藤けい(おけい)墓碑。

 明治時代初期の陸奥国会津郡出身の米国移民女性。

 寛永六年(1853)、陸奥国会津郡若松城下の材木町で、大工 (桶屋とも)伊藤文吉とお菊の長女として誕生したとされる。

 慶応三年(1867)会津藩の軍事顧問となり、藩主松平容保より平松武兵衛の名を賜ったプロシア人、ジョン・ヘンリー・シュネルに子守りとして雇われていた。翌年会津藩は若松城を開城し西軍に降伏、会津戦争が終結すると、シュネルはゴールドラッシュに沸く米国カリフォルニアへの移民計画を容保に提案、その提案が許可され、明治二年(1869)旧藩士や領民からなる約40名の移民団が組織され連れ海を渡った。17歳のおけいも加わったこの一行は、カリフォルニア州サンフランシスコの北東に位置するゴールドヒルに入植、「若松コロニー」と称する開拓地を建設した。
 しかし日本から持ち込んだ茶や桑は気候の違いもあってか生育せず、僅か1年ほどで若松コロニーの経営は行き詰る。そこでシュネルは、資金調達をして来ると告げ家族とともに日本へと向かったとされるがその後消息を断ち、この移民計画は失敗に終わった。
 残されたおけいは近隣のビアカンプ家に引き取られ、子守りとして働きながら生活するも、明治四年(1871)熱病によって19歳の若さでこの世を去ったという。

 大正四年(1915)カリフォルニア在住の日本人記者、竹田文治郎によって“OKEI”と刻まれた墓碑が紹介され、多くの日系人からの関心を集めた。この墓は、おけいとともにビアカンプ家に引き取られ、その後67歳で亡くなった旧会津藩士桜井松之助によって建てられたといわれる。

 遠く故郷を離れた異国の地で亡くなったおけいを偲び、昭和三十二年(1957)故郷を望む若松市の背炙山に同型の墓が建てられ、墓所周辺は黄金丘(こがねがおか=ゴールドヒル)と名付けられた。また同四十四年(1969)には米国ゴールドヒルに日本移民百周年記念碑が建立されている。

 墓碑は会津若松市の東山温泉から猪苗代湖畔へ抜ける374号県道、背炙高原の会津東山自然休養林の一角に所在する。なお戦国時代末期、豊臣秀吉がこの道を通って若松城下興徳寺へ入り奥州仕置の総仕上げを行った事から、山頂一帯は関白平と名付けられている。
福島県会津若松市湊町赤井(背あぶり山公園)[近世][近代][幕末]
いのただたか
猪野 忠敬
天保十二年(1841)−明治四十三年(1910)
猪野忠敬墓碑。

 江戸時代末期から明治時代の武士、陸軍軍人。新選組隊士、新遊撃隊隊士、陸軍中尉。別名久米部正親、粂部正親、猪野豊之助。号は謙山。戒名は稱應院釋教念居士。

 天保十二年(1841)摂津国大坂にて与力の子として生まれたとされる。慶応元年(1865)新選組の浪士募集に応じて入隊し、同三年(1867)の幕臣取り立てでは見廻組御雇の格を受け、後に伍長となる。なお新選組在籍時は久米部正親、粂部正親を名乗る。
 慶応四年(1868)新選組は鳥羽伏見敗戦後に江戸へ帰還、幕府により甲州鎮撫を命ぜられ、甲陽鎮撫隊と改称して甲府城を目指すも勝沼合戦で敗走する。その後久米部は江戸今戸より負傷者を会津へ移送するため先発した。
 会津戦争では軍目付を勤めたが、母成峠での敗走後仙台へ向かう本隊と別れ山口二郎(斎藤一)、稗田利八(池田七三郎)らとともに会津へ残留し、若松城北西の如来堂の守備に当たる。ここで旧新選組隊士たちは西軍の急襲を受けことごとく討死にしたとされたが、久米部、稗田らは虎口を脱し、新遊撃隊に加わり越後国三条、会津只見川付近にて奮戦の後常陸国水戸へと転戦した。水戸では結城党とともに奮戦するも、水戸城への突入を果たせず敗走、海路仙台へ向かう途中に銚子にて捕縛され降伏した。なお降伏時は猪野豊之助を名乗っている。

 その後東京へ護送され謹慎し、釈放後は猪野忠敬を名乗り陸軍に出仕、明治十二年(1879)には中尉となり同十九年(1886)退官した。明治四十三年(1910)仙台にて死去。
宮城県白石市城南(専念寺墓苑)[近世][近代][幕末][新選組]
いろべひさなが
色部 久長
文政八年(1826)−慶応四年(1868)
色部久長追念碑。

 江戸時代末期の武士。出羽国米沢藩家老。長門守、奥羽越列藩同盟新潟総督。幼名虎之助、通称弥三郎、長門。

 文政八年(1826)米沢藩家老色部篤長の子として生まれ、幼少より藩校興譲館にて学ぶ。嘉永六年(1853)家督を相続し、安政六年(1859)江戸家老、そして元治元年(1864)奉行(国家老)となる。慶応元年(1865)藩主上杉茂憲の従い上洛し、御所南門警備に当たった。

 慶応四年(1868)鳥羽伏見合戦で端を発した戊辰戦争では、米沢藩は奥羽越列藩同盟に参加し仙台藩と並んでその盟主となった。米沢藩は同盟戦略上の要地である新潟港の守備を担当することとなり、新潟総督となった久長は藩兵600を率いて新潟西堀の光林寺に本陣を置き、北陸道を北進する西軍と対峙した。
 しかし次第に戦況は西軍寄りとなり、ついに新潟港にも薩摩藩の大軍が押し寄せると、久長は新潟の戦争被害拡大を懸念し同盟軍に撤兵を命じた。そして自ら指揮する米沢藩兵は最後に撤退を開始するが、途中薩摩藩兵との遭遇戦となり、ここで逃げては米沢藩の名誉にかかわるとして大軍に切り込み、ついに壮絶な戦死を遂げたという。また敗戦の責任を取り、新潟市街へ西軍の侵攻を逸らすべく関屋まで敵を引きつけて戦い、最期は被弾して死を悟り自刃したともいう。

 明治二年(1869)、新政府より反逆首謀者の提出を求められた米沢藩は、苦慮の末既に死亡した久長の名を届け出た。これにより鎌倉時代より続き、戦国時代以降上杉氏を補佐した名門色部氏は家名断絶となり、子の康長は山浦氏の家名を相続した。その後明治十六年(1883)に家名再興が許され、康長の娘が山浦氏を相続し、康長自らが色部氏を再興している。

 ※こちらは色部長門顕彰会によって建立された追念碑です。墓所は米沢市窪田の千眼寺に所在する様なので、改めて訪問予定。
山形県米沢市丸の内(米沢城跡)[近世][幕末]
うえすぎけびょうしょ
上杉家廟所
上杉家廟所。

 米沢藩主上杉氏歴代の廟所であり、元和九年(1623)上杉景勝が死去した際に廟所と定められ、以降斉定までの11代(景勝を初代とした場合)の墓所となった。なお上杉輝虎(謙信)の廟所は米沢城内に置かれたが、明治九年(1876)当地に移されている。昭和59年(1984)米沢藩主上杉家墓所として国史跡指定。

 初代輝虎-2代景勝-3代定勝-4代綱勝-5代綱憲-6代吉憲-7代宗憲-8代宗房-9代重定-10代治憲-11代治広-12代斉定、治憲嫡男(治広養嗣子)顕孝
山形県米沢市御廟(米沢藩主上杉家墓所)[近世][大名]
おぐりただまさ
小栗 忠順
文政十年(1827)−慶応四年(1868)
小栗忠順、又一(忠道)父子墓碑。

 江戸時代末期の武士。幕臣。豊後守、上野介。外国奉行、勘定奉行、南町奉行、歩兵奉行、陸軍奉行並、軍艦奉行、海軍奉行並。幼名剛太郎、通称又一。戒名は陽寿院殿法岳浄性大居士。

 文政十年(1827)江戸駿河台にて小栗忠高の子として生まれる。小栗氏は徳川家旗本として代々仕え、上野、下野国などに2500石を所領していた。
 天保四年(1843)登城し、若くして文武の才を注目されるが、率直な物言いを疎まれて度々役職を変えられたが、才を惜しまれて都度戻されている。安政二年(1855)父の死去に伴い家督を相続し、小栗豊後守を名乗った。
 安政七年(1860)大老井伊直弼より遣米使節の目付(監察)を命じられ、正使新見正興に従いポーハタン号で渡米、2箇月の船旅の末サンフランシスコに到着した。米国では、外国人との交渉経験があり落ち着いていた忠順が代表と勘違いされ、行く先々で取材を受けたという。フィラデルフィアでは、先に結ばれた日米修好通商条約での通貨の交換比率見直し交渉を行うも、改定までには至らなかった。しかし小判と金貨の分析実験結果をもとに主張の正しさを証明するなど、忠順の交渉に関して米国各新聞社は大いに賞賛したとされる。またワシントンでは海軍工廠を見学し、日本の製鉄、金属加工技術との差に驚愕した。その後帰国した忠順は、遣米使節の功により200石を加増され、外国奉行に任ぜられた。
 
 文久二年(1862)勘定奉行、陸軍奉行、軍艦奉行などを歴任し、その間に横須賀製鉄所、横浜仏蘭西語伝習所、陸軍伝習所などの開設のほか、日本初の本格的ホテルである築地ホテル館の設立を主導するなど、日本の近代化に大きな足跡を残した。またこの様な一連の施策は、明治時代以降に活躍した人材の育成に大いに貢献し、忠順の財政、経済、軍事に関する手腕は新政府でも認めざるを得ないものであった。

 慶応三年(1867)将軍徳川慶喜が大政奉還し、翌年の鳥羽伏見合戦に端を発する戊辰戦争始まる。慶喜の江戸帰還後に江戸城で評定が開かれると、忠順は水野忠徳、榎本武揚、大鳥圭介らとともに西軍への徹底抗戦を主張した。忠順の策は、箱根を越えた西軍を陸軍が迎撃し、同時に榎本率いる海軍が駿河湾に侵入、艦砲により後続する補給部隊を壊滅させ、前線で孤立した西軍を殲滅するという挟撃策であった。後に大村益次郎は、この策が実行されていたら我々の首はなかった、と語ったとされるが、慶喜はこの策を退けて勝海舟らの主張する恭順論を容れた。
 評定後ほどなくして罷免された忠順は、所領のある上野国群馬郡権田村(現群馬県高崎市)への土着願を提出、一族を連れて移住した。かつての奉公人であり、親交のあった三野村利左衛門(三井組大番頭、後の三井財閥指導者)からは、千両箱を贈られて米国亡命を勧められたものの丁重に断り、また渋沢成一郎からは彰義隊結成に際してその頭取に推されたが、徳川慶喜が西軍と戦う意思がない以上大義名分がないとして拒絶している。
 権田村へ移住した忠順は東善寺に居住し、水路の整備や塾を開くなど静かな生活を送っていた。しかし移住から僅か1箇月ほど後、東山道軍軍監豊永貫一郎、原保太郎率いる高崎、安中、吉井藩兵によって東善寺にて家臣とともに捕縛された。その2日後、明確な罪状もなく、取り調べもされないまま家臣3名とともに斬首された。死の直前家臣が改めて大声で無罪を主張するも、忠順はそれを制し、事前に逃れさせた母くに子、妻道子と養女鉞子に対する寛大な処置を願い、従容として首を打たれたという。なお鉞子の許婚である養子又一(忠道、旗本駒井朝温次男)もまた、翌日高崎にて殺害されている。

 忠順の死の直前に権田村を逃れた母らは、家臣、村民らからなる従者に守られ、かねてより面識のあった陸奥国会津藩家老横山常守を頼って会津へと向かった。新潟を経て若松城下へ到着した後、身重であった妻道子は藩主松平容保の計らいにより病院へと収容され、忠順の遺児である国子を出産している。なお従者の一人佐藤銀十郎は、会津藩兵に従い各地を転戦、耶麻郡熊倉で命を落とし、同所に墓が残っている。
 明治二年(1869)まで会津に留まった一行はその後東京へと移ったが、身寄りのない一行を匿い世話をしたのは、忠順への恩義を感じていた三野村利左衛門であった。利左衛門が明治十年(1877)に没した後も三野村家が母子の面倒を見続けたが、同十八年(1885)道子が没した後、遺児国子は大隈重信に引き取られ育てられた。これは大隈重信の妻綾子(旧姓三枝)が忠順の従妹という縁であった。なお大隈は忠順の手腕を高く評価している一人であり、明治政府の近代化政策は小栗忠順の模倣にすぎないと語っている。

 忠順、養子忠道の死後、小栗家は忠道の弟忠祥が相続していたが、国子が成人し、大隈重信の勧めにより矢野文雄(龍渓)の弟貞雄を婿に迎えた後は、貞雄、国子夫妻が小栗家を相続している。
群馬県高崎市倉渕町(東善寺)[近世][幕末]

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