か行
かやのながはる
萱野 長修
文政十年(1827)?−明治二年(1869)
萱野長修、妻タニ墓碑

 江戸時代末期の陸奥国会津藩家老職。通称権兵衛。戒名は報国院殿公道了忠居士。諱の読みは“ながのぶ”とも。

 会津藩家老萱野長裕の子として生まれる。生年は不詳だが、文政十年(1827)から天保元年(1830)頃と思われる。萱野氏は元は加藤明成の重臣であったが、加藤氏が改易となり若松を去った際、明成より勧められて新領主保科正之に仕官したとされる。保科氏は3代正容より葵紋、松平姓の使用を許され、萱野氏はその重臣として代々番頭、奉行を務め、長裕の代に家老職に任ぜられた。
 長修は容姿秀麗、穏やかで謹み深く、若く~多くの人望を集めていたという。また幼少より文武に励み、家中でも指折りの一刀流溝口派の剣の達人として知られ、兵学にも精通し藩校日新館で武講の教官を務めた。文久三年(1863)家督を相続し、翌元治元年(1864)若年寄、さらに翌慶応元年(1865)には家老職に任ぜられ、藩主松平容保の側近となった。この頃に権兵衛を襲名している。

 松平容保が文久二年(1862)京都守護職に就任すると、長修は国許にあって領内を治め、慶応四年(1868)戊辰戦争が始まると日光口の守備に当たった。軍勢が藩境に迫ると大寺に布陣して備えるが、西軍が母成峠を進路としたため戦闘には至らず、若松城下での戦闘が始まった後は城外で転戦、籠城する味方への糧道の確保や連絡に当たった。

 会津藩降伏後は、容保より藩主を相続した喜徳に従い東京の久留米藩邸にて謹慎、明治政府に対して藩主父子の助命嘆願に努める。その結果政府の下した処置は、容保、喜徳父子の罪一等を減じる代わりに、反逆首謀者3名を処分するというものであった。そこで“戦争を主導したのは家老田中玄清、同神保利孝、同萱野長修の3名であったが、田中、神保両名は既に自刃しており、萱野長修が謹んで裁きを受ける”と申し出て戦争責任を一身に背負うこととなった。なお家老職の上位3席であれば田中、神保に続くのは西郷近悳であったが、西郷は使者の任を与えられて城を出た後行方知れず(籠城に際し徹底抗戦を主張する多くの藩士に対し西郷は恭順を主張、意見の折り合わない西郷を使者にかこつけて事実上追放した)となっていた。
 その後明治政府より下った裁定は斬首であったが、長修の名誉を重んじて飯野藩保科氏下屋敷においての切腹が許され、明治二年(1869)五月十八日保科氏家臣の剣客沢田武治の介錯の下見事な最期を遂げた。享年は40歳あるいは42歳と伝えられる。なお長修は死に際し、藩伝来の一刀流溝口派の奥儀が相伝者である自身の死で絶えることを憂い、手許にあった竹の火箸で井深宅右衛門に伝授したという。

 長修の死去により萱野氏は断絶となり、遺族は萱野氏初代長則の母の旧姓である郡を称し(長修の妻タニの旧姓とされることも多いがタニの実家は一ノ瀬氏)、藩主松平氏が賜った屋敷の一部を与えられてその庇護を受けた。なお嫡男長準が萱野氏を相続していることから、後年家名再興がなされているものであろう。次男長正は明治四年(1871)留学先の豊前国豊津藩にて自刃、三男寛四郎は日本郵船に奉職して船長を勤め、その養子である郡虎彦は作家として知られる。また長修の実弟三淵隆衡の子で、長修の甥に当たる三淵忠彦が昭和二十二年(1947)初代最高裁判所長官に就任している。
福島県会津若松市東山町石山(天寧寺)[近世][幕末]
かんのなおし
菅野 直
大正十年(1921)−昭和二十年(1945)
河井秋義墓碑。

 昭和初期の大日本帝国海軍軍人。海軍中佐、撃墜王。渾名はイエローファイター、菅野デストロイヤーなど。戒名は隆忠院功誉義剛大居士。

 大正十年(1921)警察署長であった父菅野浪治、母すみえの次男として、父の赴任先であった朝鮮半島の平壌近郊で誕生した。直が2歳の頃に父親が腸チフスに罹患し、警察署長の激務には耐えられないとして辞職、両親の故郷宮城県伊具郡枝野村(現角田市)へと移り住み育った。ともに厳格な両親のもと、品行方正な兄巌を敬愛しながらも反抗的な態度をとっては叱られていたという。また厳しい母親に代わり7歳年上の姉かほるを慕い、中学一年生(旧制)まで添寝することもあったが、家の外では明るく喧嘩も強いガキ大将であったという。そんな菅野も夜は遅くまで勉学に励み、常に上位の成績を収め、角田中学校(現角田高校)には一番の成績で入学した。
 学生時代は修身、素行についてはあまり良くなかった様だが、周囲に非常に慕われていたという。石川啄木に傾倒し、同級生と文学サークルを作るほどの文学青年であったといい、中学四年時には大学受験を目指したものの経済的事情から断念し、軍人になることを決意した。

 昭和十三年(1938)陸軍士官学校と海軍兵学校を受験、陸士は身長不足のため不合格となるも、海兵には合格し十二月に第70期として入校し同十六年(1941)十一月卒業、少尉候補生として戦艦榛名、次いで配属艦となった扶桑に乗艦する。翌年六月に少尉に任官し第38期飛行学生を拝命、昭和十八年(1943)九月に修了し戦闘機搭乗員として厚木海軍航空隊付なった。
 飛行学生時代の菅野は、模擬空戦で教官機にぶつかるほどに接近する、垂直旋回訓練中に勝手に宙返りを覚えるといった振る舞いのほか、事故の危険から着陸禁止となっていた滑走路に侵入して機体を転覆、大破させるなど、ほかの飛行隊にまで知れ渡るほどの破天荒な生徒であった。菅野デストロイヤーと渾名され、破壊した機体は4、5機に上ったという。なお菅野の飛行学生時代の写真の裏には、“stantハ終ワッタ”と書き記されている。

 昭和十九年(1944)二月に第343海軍航空隊(隼部隊)分隊長となり、四月に南洋へ進出して初の実戦を経験、同隊が解隊される七月まで同地にあった。その頃の菅野は、アメリカ軍の爆撃機を迎撃する日々を送っていたが、その中で大型爆撃機に対する戦法を考案した。それは敵大型機の直上方1000mの高度差を取り、そこから垂直に降下して死角となる真上から攻撃するというものであった。しかし敵機の尾部を通過すれば銃座から弾幕を準備されるため、銃座からの射撃は避けられるもののより衝突の可能性の高い主翼前方を通過するという、高い反射神経と恐怖に克つ精神力を必要とする戦法だった。この戦法により菅野は列機とともに多くの撃墜を記録、アメリカ軍パイロット達の間では、菅野が敵機を引き付けるために自身の機体に描いた黄色のストライプ模様からイエローファイターと呼ばれ恐れられた。

 昭和十九年(1944)七月の343空解隊直後、菅野は第201海軍航空隊戦闘306飛行隊分隊長に着任。ミンダナオ島ダバオ(現フィリピン)では、部下の笠井智一らが喧嘩で憲兵隊長を殴り、201空に当事者の身柄引き渡し要求があった。菅野は「そんな奴は知らない、部下は渡さない」と再三の要求にも応じることなく、その後その当事者らとともにヤップ島(現ミクロネシア連邦)派遣隊に編入された。ヤップ島では零式艦上戦闘機(零戦)に搭乗してアメリカ軍大型爆撃機B-24迎撃任務に就き、派遣隊は撃墜17(不確実9)撃破46という戦果を挙げ、第一航空艦隊司令長官角田覚治中将より表彰された。なおこの戦闘では、前述の戦法のほか、乗機の主翼をB-24の垂直尾翼に引っ掛けて吹き飛ばし撃墜するといった戦いを見せたという。またフィリピンで大腿部に機銃弾を受けた際は麻酔なしでの摘出手術を希望、途中痛みから一時中断したものの瞑想して気合を入れ直し、その後は摘出、縫合を終えるまで表情を変えず、一言も発しなかったという。
 同年十月、戦地勤務の長かった菅野を一時内地に戻す意味もあり、201空が受領する零戦のテストのため群馬県太田市の中島飛行機小泉製作所へ出向が命ぜられる。テストが終わり受領した機体でフィリピンへ戻る際、誤って別の基地に着陸して基地司令官より叱責され、それに憤った菅野はエンジンを全開にしてプロペラの風圧で指揮所のテントを吹き飛ばして飛び去った。
 菅野が内地出向を命ぜられていた丁度その頃、フィリピンでは最初の神風特別攻撃隊の編成が行われ、十月二十五日、指揮官兼敷島隊隊長として関行男大尉が特攻を行った。菅野と関は海兵同期であり、その報を聞いた菅野は「自分がいれば関の所を取るんだったんだが」と呟いたといい、また再三にわたり特攻を志願したが、その技量の高さ故に直掩に必要とされ認められなかった。
 二十七日には第2神風特攻隊忠勇隊の直掩任務に志願、成果報告にあたって201空飛行長中島正からの「戦果が大きすぎる、何か勘違いしていないか」といった発言に憤り、腰の拳銃を5発床に向けて発砲したが暴発の扱いで済まされている。菅野は特攻機の直掩、戦果確認に就く際は我々も特攻精神で行くと述べ直掩機の落下傘装備を禁止し、また宿舎で酒を飲み特攻の憂さを晴らしている際に司令部から苦情が来ると、「明日の命も分からない搭乗員に何を言う」と怒鳴り黙らせた。また部下から特攻隊員を出す様に要求された際はそれを拒否し、部下を出すくらいなら自分が行くと主張した。

 翌十一月、セブ島(現フィリピン)に飛行機を空輸した際、現地部隊に零戦を取られたために九六式陸上攻撃機(中攻)でマニラへと帰還することとなったが、途中アメリカ軍のP-38の襲撃を受けた。菅野ら乗員に対し中攻操縦士は諦める様告げるが、菅野は「俺がやる」と操縦士をどかせて未経験の中攻を操縦、敵機の追撃を振り切ってルバング島へ不時着し脱出した。そして救援が到着するまでの数日間、ルバングの現地民に対して「俺は日本のプリンス菅野だ」と名乗り敬愛を集め、王様の様に過ごしたという。帰還後、台湾にあった第252海軍航空隊に編入となり、特攻兵器桜花の直掩任務に就く予定だったが、桜花を搬送していた輸送船が沈没したことで中止となっている。

 十二月、軍令部航空部員源田実大佐の発案によって編成された第343海軍航空隊(剣部隊)に配属となり松山基地に着任、自ら司令となった源田が343空を編成する際に真っ先に頭に浮かんだという菅野は戦闘301飛行隊(新選組)隊長に任ぜられた。菅野は同じ戦闘機隊長である戦701鴛淵孝大尉、戦407林喜重大尉とは兄弟の様に仲が良かったが、紳士的であったと評される両隊長と比べて豪快な極めて異色の存在であったという。201空時代から菅野とともに戦った笠井智一上飛曹によると、菅野は敵を発見すると無線電話で「こちら菅野一番敵機発見!」と知らせた途端に突っ込んで行くため列機は苦労しただろうが、勇猛果敢、猪突猛進を真骨頂とするこんな隊長はほかにいなかったという。
 反骨精神旺盛な菅野だったが、司令である源田には心服しており、源田もそんな菅野を弟の様に可愛がったという。とある日、菅野らが海軍クラブで騒いでいると何度もやかましいと文句を言って来るものがおり、菅野が「何がやかましい!」と襖を開けると少将以下数人の佐官参謀が会食していた。菅野はテーブルにあった料理を蹴飛ばし、少将が「もういいだろう」と嗜めるまでその上に座り込んだが、翌日その少将が源田と談笑しており、菅野らの姿を認めた源田は「お前たち昨日は元気が良かったそうだな」と言っただけで問題にならなかった。また、菅野が部下の宮崎勇少尉を連れて無断外出し温泉に行った際、その場で源田と鉢合わせし、違反行為で小さくなっている2人に対して「温泉は良い、気をつけて帰れよ」と声を掛け、咎めることはなかった。

 グラマンF6Fに対抗出来る紫電改を運用し、菅野、鴛淵、林といった隊長のほか、宮崎勇、磯崎千利、松場秋夫、杉田庄一、武藤金義といった撃墜王たちが集まった343空は海軍航空隊の精鋭部隊だったが、その中でも菅野率いる新選組の活躍はめざましく、3飛行隊の中でも最高の撃墜数を記録している。しかし、いかに343空が活躍しても戦局が好転することはなく、次第に名搭乗員たちが次々と命を落とし、夏を迎える頃には燃料、機体、搭乗員の補充もままならない状態となっていた。

 そして昭和二十年八月一日。占領された沖縄より約30機のB-24爆撃機編隊が発進した報を受け、菅野率いる20数機の紫電改が大村基地より迎撃に向かった。なおこの日の菅野の乗機は、愛機A15号機ではなくA01号機であった。
 屋久島西方上空で爆撃機編隊を発見し、敵上方より急降下に入るが、菅野の2番機であった堀光雄飛曹長に「ワレ、機銃筒内爆発ス。ワレ、菅野一番」の無線が入る。堀が翼を傾け右下方を見ると、遥か下方を飛ぶ菅野機を確認し、即座に近付いたところ左翼に大きな破孔を発見した。堀はすぐさま戦闘を中止し、2番機の任務に則り菅野機の護衛に付くが、菅野は戦闘に加わる様再三指示した。堀がそれでも自機から離れずにいたため、菅野は怒りの表情で拳を突き上げて見せ、堀はやむなく戦闘空域へと戻ったが、その瞬間菅野の表情が和らいだのを見たという。その後、菅野から「空戦ヤメアツマレ」の無線が入り、堀は菅野がいるであろう空域へ向かったがどこにもおらず、「ワレ、機銃筒内爆発ス。諸君ノ協力ニ感謝ス、ワレ、菅野一番」の無線を最後に消息を絶った。堀らは燃料の続く限り捜索を行い、海軍基地、陸軍飛行場にも確認したが見つかることはなかった。なおこの日の戦闘では、菅野機を含む3機が未帰還となっている。
 その数日後、菅野は行方不明のまま終戦を迎えた。九月二十日、源田司令によって空戦での戦死として菅野の二階級特進が具申され、正式に八月一日の戦死と認定されて中佐に昇進した。享年24歳。総撃墜数は南方戦線での個人撃墜破30、343空での個人撃墜18、協同撃墜24とされ、計72機撃墜と全軍布告されている。
宮城県角田市島田字大和橋59(称念寺)[近代][軍人]
くもいたつお
雲井 龍雄
天保十五年(1844)‐明治三年(1870)
雲井龍雄墓碑。

 江戸時代末期から明治時代初期の出羽国米沢藩士、政治家。集議院議員。本名小島守善、旧姓中島、幼名は豹吉、猪吉、権六、熊蔵など。字は居貞。変名として一木緑、遠山翠、桂香逸。枕月、瑚海侠徒と号す。戒名は義雄院傑心常英居士。雲井龍雄の名は明治元年(1868)頃より用いた。

 天保十五年(1844)米沢藩士中島惣右衛門平の次子として出羽国米沢城下に生まれる。8歳より城下の私塾で、14歳からは藩校興譲館で学び、“優秀”に選抜され藩主から褒章を授けられるなど、幼少の頃よりその才を賞された。学を好んだ雲井は、興譲館の約3,000冊に及ぶ蔵書を殆ど読破したという。
 18歳の時に叔父小島才助の養子となり、養父の死去に伴い20歳で家督を相続する。慶応元年(1865)米沢藩江戸藩邸に出仕し、上役の許可を得て儒学者安井衡(息軒)の三計塾に入門、経世済民の実学を修め、執事長(塾頭)にも選ばれている。なおこの頃、息軒より布団を購入する様命じられて横浜の商館へと赴いたが、雲井はその資金で“万国公法”を購入してしまい、帰着後逆にその判断の正しさを息軒より賞されたというエピソードがある。
 翌年藩命で帰藩した雲井は、さらに翌年藩重臣千坂高雅の上洛に伴いその先駆として京都へ派遣され、一木緑、遠山翠などの変名を用いて天下の動静を探った。
 しかし慶応三年(1867)10月に将軍徳川慶喜が大政奉還を行い、同年12月に王政復古が発せられると、新政府は雲井を全国各藩より推挙された議政官である貢士に挙げた。これは米沢藩の門閥家臣を差し置いての抜擢であり、雲井の才覚が藩内外を問わず知れ渡っていたことを示している。しかし同四年(1868)正月の鳥羽伏見合戦を端緒とする戊辰戦争が始まり、新政府が奥羽へと兵を動かすと、雲井は京都を離れて関東へと向かい、数ある古今の檄文の中でも名文と評される“討薩檄”を起草して奥羽越列藩同盟の士気を鼓舞した。そして自身は関東にあって新政府の中心である薩摩、長州両藩の離間を画策、遊撃隊を率いて上野、下野国方面から新政府軍を撹乱する“二毛作戦”を展開するが失敗、戦後米沢にて禁固に処される。

 明治二年(1869)謹慎が解かれた雲井は、藩より推挙されて新政府の集議員議員に任ぜられるも、薩長の要人と繋がりの深い議員が多く、前述の戊辰戦争時の薩摩批判、そして一度議論に及ぶと徹底的に議論を闘わせるといった振る舞いが災いし、僅か一月ほどで議員の職を逐われてしまう。一方で雲井の下には、戊辰戦争後に主家の没落、削封によって禄を失った者や旧幕臣らが集まっており、同三年(1870)雲井は救済のため「帰順部曲点検所」を設立、新政府に対して4度にわたって嘆願書を提出した。これは土佐藩士佐々木高行、長州藩士広沢真臣ら参議の許可を得た上での行動だったが、雲井の下に集まった者たちの多くが新政府に対する不平士族であったため、政府により政府転覆の陰謀と看做され謹慎を命じられた。米沢にて幽閉ののち再び東京へ召還された雲井は、深く取り調べも行われないまま判決が下され、同年12月28日小伝馬町牢獄で斬首に処され小塚原刑場で梟首された。享年27歳。
 なお、雲井の漢詩は当時高く評価されており、後の自由民権運動家たちに広く好まれたという。
山形県米沢市城南(常安寺)[近世][近代][幕末]
こおりながまさ
郡 長正
安政三年(1856)?−明治四年(1871)
郡長正墓碑。

 陸奥国会津藩家老萱野長修次男。幼名乙彦。旧姓萱野。なお誕生年は没年と年齢から逆算したものである。

 会津藩家老萱野長修の次男として陸奥国若松城下で誕生した長正は、幼少より文武両道に秀で、将来を大いに嘱望されていた少年だった。慶応四年(1868)戊辰戦争での敗戦の結果、父長修が反逆首謀者として会津藩の全責任を一身に負って自刃、萱野氏は家名断絶となり、遺族は萱野氏初代長則の母の旧姓である郡姓を称した(長修の妻タニの旧姓とされることも多いが、タニの実家は一ノ瀬氏である)。
 敗戦後改易となった会津藩だったが、藩主父子の罪一等は減ぜられ、翌明治二年(1869)には旧盛岡藩領内に設置された三戸県三戸、二戸、北郡内のそれぞれ一部より3万石を以て三戸藩(翌年斗南藩と改称)の立藩を許された。しかし当時この地は辺境であり、将来の藩政を担う人材の育成もままならない状況であったため、藩首脳部は優秀な人材を豊前国豊津藩の藩校育徳館へと留学させることとなり、当時14歳の長正を含む7名の少年が留学生として派遣された。
 派遣された7名中最年少の長正だったが、すぐにその才能を発揮、文武にわたって大いに頭角を現した。しかしそんな中、長正は慣れない環境や不自由な留学生活ということもあり、母親へそのひもじさを綴った手紙を送る。しかし母からの返信には、「会津武士の子どもが空腹を嘆いて手紙を送ってよこすとは見下げた果てた根性、そんな子を自分の子とは思わない、萱野権兵衛の子ではない」という厳しい叱責であった。この手紙を読んだ長正は大いに恥じ、以降は空腹を嘆くこともなく一層文武の道に励んだ。ところがある日、長正は母からの叱責の手紙をうっかりと落としてしまい、その内容が同行した仲間、豊津藩の子弟たちに知れ渡ってしまう。斗南藩留学生たちは非常に優秀であった故に嫉まれていたということもあり、「会津の武士道とは餓鬼道か、その様な心根だから戦争に負けたのだ」と散々に嘲られ、その原因を作った長正は仲間たちからも疎まれてしまう。
 そして明治四年(1871)五月十八日、長正は自らの恥ずべき振る舞いを償い、会津武士の誇りを守るために一人自室で腹を切り、その恥を雪いだのである。恥を知り、「ならぬことはならぬ」の会津藩藩校日新館教育を実践した長正は僅か16歳の少年だった。

 なお郡長正の自刃についての真相は諸説あり、おおよそ上記の説が主流となっているがこれは後年の創作であり、現在も不明である。上記の内容によって豊津藩子弟の性根が非常に悪く伝わってしまうが、豊津の方々は現在も長正を顕彰して下さっている。なお一説には、同行した仲間からの苛めも酷かったといった話も伝わっている様である。
福島県会津若松市東山町石山(天寧寺)[近世][近代][幕末]
こんどういさみ
近藤 勇
天保五年(1834)−慶応四年(1868)
近藤勇、土方歳三墓碑。

 江戸時代末期の武士、幕臣、剣客、天然理心流四代目宗家。 新選組局長、甲陽鎮部隊隊長。幼名宮川勝五郎、次いで勝太、後に嶋崎姓となる。勇は通称であり諱は昌宜。変名大久保剛、猛、大和。貫天院殿純忠誠義大居士。

 天保五年(1834)武蔵国多摩郡上石原村の百姓宮川久次郎の三男として生まれる。
 嘉永元年(1848)天然理心流宗家近藤周助の門人となり、翌年周助に望まれて周助の生家嶋崎家の養子となる。その後正式に近藤家の養子となり、嶋崎勇と名乗った後に近藤勇を称し、文久元年(1861)四代目宗家を襲名した。

 文久三年(1863)幕府の募集に応じ、門人である土方歳三、沖田総司、井上源三郎らとともに浪士組に参加し上洛するが、直後に浪士組の江戸帰還が決定すると、水戸藩浪人芹沢鴨らと同調して京都残留を希望、京都守護職に任にあった会津藩預壬生浪士組が結成された。浪士組結成後は芹沢並びにその同志である新見錦とともに局長となり、同年起こった八月十八日の政変での活躍を認められ、武家伝奏より新選組の隊名が下賜された。しかしその後も芹沢を中心とする一派は粗暴な振る舞いが多かったため、翌月に新見を素行不良を理由に切腹させ、次いで芹沢、その同志平山五郎を暗殺して隊の主導権を握った。その後、新選組の勇名を一夜にして轟かせた元治元年(1864)の池田屋騒動では、隊士9名を率いて屋内へと踏み込み奮戦、褒賞金30両を受けている。

 その後も京都の治安維持に勤め、慶応三年(1867)六月には全員が幕臣に取り立てられた新選組だったが、十月には朝廷より薩摩、長州藩へと討幕の密勅が下る。直後に将軍徳川慶喜は大政奉還を行いこれを回避するが、十二月には王政復古の大号令が発せられて旧幕府勢は京都からの撤退を命ぜられ、恭順する慶喜は二条城より大坂城へと退去した。近藤は将軍不在となった二条城警護の任に当たったのち、徐々に主戦論と傾いた旧幕府勢の一翼として伏見に着陣するが、薩長勢力を除くために公卿へ周旋すべく二条城へ出向いた際、袂を分かった元同志の鈴木三樹三郎、篠原泰之進らの待ち伏せで銃撃を受け負傷した。直後の翌慶応四年(1868)正月の勃発した鳥羽伏見合戦はその負傷により参加出来ず、敗戦後に旧幕府海軍の富士山艦で海路江戸へ下った。

 江戸帰還後は若年寄格に任ぜられ、幕府より甲陽鎮撫を命ぜられた近藤は、自身は大久保剛を称し、新選組を甲陽鎮撫隊と改称して甲府城接収へと赴く。しかし甲斐国へと到着したころには、甲府は既に新政府軍東山道先鋒総督参謀板垣退助率いる迅衝隊によって制圧されており、甲府城奪還を目指して勝沼で合戦に及ぶが敗走した。
 敗走した八王子宿で江戸引き上げ、会津下向を宣言した近藤は、大久保大和と変名を改め武蔵国五兵衛新田(足立区綾瀬)で旧幕府歩兵らを募集して隊を再編成、下総国流山へ移動し屯集した。しかし新政府軍の奇襲により本陣としていた長岡七郎兵衛宅を包囲され、近藤は一人で投降、捕縛され、連行された板橋宿の西軍本営で連日取り調べが行われた。取り調べにおいて近藤は一貫して大久保姓を貫くが、薩摩藩に属して従軍していた元新選組隊士加納鷲雄(道之助)、清原清らによって近藤であることが看破された。
 その後土佐藩と薩摩藩との間で近藤の処遇を巡って対立が生じるも、結局土佐藩の谷干城が押し切り、切腹は許されず慶応四年四月二十五日に板橋刑場において罪人として斬首された。

 会津若松市の天寧寺にある墓碑は、会津へ転戦していた土方歳三が建立したものとされ、戒名の貫天院殿純忠誠義大居士は会津藩主松平肥後守容保より授与されたものである。
福島県会津若松市東山町石山(天寧寺)[近世][近代][幕末][新選組]

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