た行
たなかはるなか
田中 玄宰
寛延元年(1748)−文化五年(1808)
田中玄宰墓碑。

 江戸時代後期の武士。陸奥国会津藩家老。初名玄堅。別名小三郎、加兵衛。通称三郎兵衛。

 寛延元年(1748)会津藩家老田中玄興の子として誕生、12歳で家督を相続し、天明元年(1781)に34歳で家老に任ぜられて以降、5代藩主松平容頌、6代容住、7代容衆の3代にわたって藩政を支えた。

 家老就任当時、度重なる飢饉や政策の失敗により藩財政は窮乏し、また泰平の世が続いたことにより武士の気は緩み、風紀が非常に乱れていた。5代藩主松平容頌の信任を得て藩政改革に乗り出した玄宰は、殖産興業の奨励を図り財政の立て直しを行い、今日まで続く会津の伝統産業の基礎を築いた。更に“国の発展の基礎は人材の育成、すなわち教育にあり”として学制の改革を重視し、寛政十一年(1799)より5年の歳月をかけ、国内有数の規模、教育内容を誇る藩校日新館を創設した。

 文化四年(1807)に江戸幕府より秋田、弘前、仙台藩などに蝦夷地出兵、防備が命ぜられると、玄宰は練兵と東北諸藩への会津藩兵の戦力誇示のために樺太(現在のサハリン)出兵を内願、翌五年(1808)内藤信周を隊長とした会津藩兵が宗谷(稚内市)に陣屋を構え、台場や見張所を設置した。また番頭梶原景保を利尻島に、北原光裕を樺太に派遣し、南下政策を進めるロシア軍に備えて訓練を重ねた。しかしヨーロッパで発生したナポレオン戦争が原因で、極東からロシア軍が引き揚げたため実際の交戦は行われず、同年10月から翌年にかけて会津藩は蝦夷地出兵より帰還した。

 この出兵により会津藩兵の精強さは幕府をはじめ諸藩から絶賛され、会津藩は後に江戸湾警備を命ぜられるほどの信頼を幕府より得た。しかし玄宰は藩兵の帰還を待たずに、“城と日新館の見えるところに埋葬せよ”と遺言してこの世を去った。その遺言通りに若松城下を見渡せる小田山山頂に墓が設けらている。享年61歳。

 玄宰の死後も、その思想は藩士たちに会津士魂として生き続け、彼の創設した日新館の建学の精神は現在も県立会津高等学校に受け継がれている。
福島県会津若松市花見ヶ丘(小田山公園)
つぶらやこうきち
円谷 幸吉
昭和十五年(1940)−昭和四十三年(1968)
円谷幸吉墓碑。

 昭和時代の陸上自衛官、陸上競技(長距離)選手。2等陸尉。東京オリンピック陸上競技男子マラソン銅メダリスト。戒名は最勝院功誉是真幸吉居士。第一級防衛功労章、勲六等瑞宝章受章。戸籍上の姓の読みは“つむらや”。

 昭和十五年(1940)五月十三日、福島県岩瀬郡須賀川町(現須賀川市)で生まれる。

 福島県立須賀川高校を卒業後、昭和三十四年(1959)陸上自衛隊へ入隊し郡山駐屯地に配属、同僚と二人で郡山自衛隊陸上部を立ち上げる。その後次第に競技実績が認められ、自衛隊管区対抗駅伝、青森東京駅伝などに出場した。しかしオーバーワークから腰痛を発症、以後持病として悩まされることとなる。

 昭和三十六年(1961)東京オリンピック開催に備えて自衛隊体育学校が設立され、翌三十七年(1962)にオリンピック候補育成選手の募集があったが、持病の腰痛のため選考会への出場を果たせなかった。しかし円谷の走りを知る駅伝チームコーチ畠野洋夫の推薦を得て入校する。入校当初は満足に走ることも出来なかったが、畠野の根気良い指導、治療の成果でその後レースへ復帰、十月の日本選手権5000メートル競争で日本歴代2位のタイムを記録し、日本陸上競技連盟からオリンピック強化指定選手に選ばれた。翌三十八年(1963)八月には20000メートル競争で2位ながら世界記録を更新、十月の競技会では好記録を連発し、10000メートル競争のオリンピック代表選手に選ばれた。しかし日本陸連強化本部長織田幹雄は円谷のスピードに着目、マラソンへの転向を勧めた。
 東京オリンピック開催年の昭和三十九年(1964)三月二十日、円谷は初マラソンとなる中日マラソンに出場、2時間23分31秒の5位でフィニッシュする。その僅か3週間後の四月十二日にはオリンピック最終選考会となる毎日マラソンに出場、2時間18分20秒で2位となり、マラソンでも代表選手に選出された。

 昭和三十九年(1694)十月十日に東京オリンピックが開幕、円谷はまず陸上競技初日となる十四日に行われた男子10000メートル競争に出場し6位入賞と健闘した。そして陸上競技最終日となる二十一日に行われた男子マラソンでは、メダル候補として期待されていた君原健二、寺沢徹がメダル争いから脱落する中で上位に留まり、ゴールである国立競技場に2位で戻ってきた。最終的にはトラックで後続に抜かれたが、3位となる2時間16分22秒でフィニッシュし、東京オリンピック陸上競技唯一のメダルである銅メダルを獲得した。

 東京オリンピック終了後、円谷は次回のメキシコシティオリンピックでの金メダル獲得を目標としたが、以後様々な不運に見舞われる。自衛隊体育学校の校長が替わったことで選手育成のための特別待遇の見直しが行われ、また同時期に予定していた婚約も“次のオリンピックが大事”との理由で認められず破綻となった。更に、体育学校入学以降心身ともに円谷をサポートし続け、婚約に対する自衛隊の干渉に対しても抗議を行った畠野コーチが突然転勤(事実上の左遷)となり、次第に円谷は精神的に追い込まれて行く。また周囲の期待に応えるべくオーバーワークを重ねて腰痛を再発、昭和四十二年(1967)に手術を受けて症状は回復したが、既に全盛期の走りは出来ない状態であった。

 そしてメキシコシティオリンピック開催年となる昭和四十三年(1968)を迎えるが、年明け間もない一月九日、心身ともに疲弊した円谷は体育学校宿舎の自室にて頸動脈をカミソリで切り自殺した。享年27歳。
 “父上様、母上様、三日とろろ美味しゆうございました。”から始まり、“父上様、母上様。幸吉はもうすつかり疲れ切つてしまつて走れません。…(略)…幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。”で結ばれる円谷の遺書は当時大きな衝撃を与え、多くの人々の涙を誘った。

 円谷の死は日本スポーツ界における最大の痛恨事であり、以降オリンピック出場選手など、アスリートのメンタルに対するサポート、ケアが重視されることとなった。また出身地である福島県須賀川市では、彼の業績を忍んで毎年“円谷幸吉メモリアルマラソン”を開催、市内の体育施設の須賀川アリーナには遺族から寄贈された資料、遺品、記念品を展示した“円谷幸吉メモリアルホール”が公開されている(※令和元年東日本台風(2020年台風19号)被害で休館、2020年5月20日現在)。
福島県須賀川市池上町101(十念寺)

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